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第62話 たぶん、この恋はもう止まらない

漆原が唐津と別れてタクシーに乗り込み、自宅へ戻った頃には、夜はすっかり深く落ちていた。 窓の外に流れていく街の灯りが、いつもの帰宅とはまったく違う色をして見える。胸の奥がまだほんのり熱を含んでいて、頬の内側まで温度が残っているような、そんなよくわからない感覚が体の中心で静かに脈打っていた。 玄関の扉を閉めた瞬間、どっと力が抜ける。 靴を脱ぎ、スーツの上着を椅子に置き、ソファに腰を下ろすと、ようやく“自分の部屋”の匂いが戻ってきた。 しかし、そこに広がった静けさは、なぜか今夜だけ少し居心地が悪い。さっきまでいた場所の温度が、まだ身体に残っているからだ。 唐津と過ごした一日── 目覚ましもかけずに起きて、唐津のつくってくれた朝食を食べて、ゆっくりコーヒーを飲んだ。時間つぶしみたいに動画を見て笑って、少し散歩して、夜は近所のビアバーで牡蠣をつつきながら、いろんな話をした。 酒も料理も雰囲気も良かったが、それ以上に、“恋人のデートみたいな流れ”に、自分が終始ふわふわしていたことを漆原は認めざるを得ない。 (デートの……フルコースじゃないか……) 思い返すたび、胸がきゅっとなる。 何より、自分の口から「マグカップ買いました」と言ってしまったときの、唐津のあの微妙な笑み。思い出すだけで、顔が熱くなる。 「……だめだ、思い出すと死ねる……」 両手で顔を覆う。 そのまましばらく動けない。 唐津は、格好よかった。 本当に格好よかった。 ビアバーでゆるく酔って、グラスを持つ手が大人の余裕を纏って、時折低い声で笑って、ふとした瞬間に目が合うと、色気のあるまなざしで自分を見つめてきて── (俺の恋人、なんだよな……) 考えると、また体温が跳ね上がる。 (いや、落ち着け。でも距離的にはどう考えても……付き合ってる……) 恋が叶うなんて、最初は思ってもいなかった。 冷静で、隙がなくて、余裕と経験を持っていて、誰に見せても恥ずかしくない“すごい大人の男”が── いま、こうして、週末の同行者として隣にいる。 (ちょっと……いや、だいぶ浮かれてる……) 自覚はある。 あるが、止まらない。 通販で買った荷物が玄関に積んである。 意を決して立ち上がり、段ボールを開封する。 白いマグカップ、少し厚みのあるバスタオル、洗面所用のスリッパ── 並べてみると、なんだか“生活”の匂いがして心臓がさらに暴れだす。 (いや、なんかあからさまに、その……泊まる前提すぎる……) ここまで揃えたら、もう言い訳できない。 それに、もしかして──次に唐津の家に行った時は茶碗と箸が増えていたりするんだろうか。 その未来を想像しただけで、胸がじんと温かくなる。 「……炊飯器も買おうかな……」 ぽつりと口に出ていた。 「いや、でも……炊飯器より……ベッドに敷くタオルとか……?」 唐津の寝台に、自分の体が沈んだ昨夜の感覚がよみがえる。 ほんの少し、布が擦れただけで高鳴った心臓。 あの、自然に重なった唇。 追い詰めるように押し倒してしまった自分。 そして── (……そ、そこは……思い出すな……!) 耳まで熱くなり、ソファの上で膝を抱える。 頭が沸騰しそうだ。 「……何回、待てば……いいんだろう……」 ぽつりと漏れた声が、やけに大きく響く。 唐津は「考える」と言った。 でも、すぐではないとも言った。 全部わかっている。 じわじわと、慎重に距離を測って進めていくつもりなのだろう。唐津は大人で、経験もあって、自分よりずっと整った感情運用をしている。 だからこそ、こちらが焦ったらいけないと思う。 押したらだめだ、急がせたらだめだ、唐津さんが嫌がることは絶対したくない。 (なのに……) 胸の奥が、うずく。 熱を孕んで、まるでそこだけ別の鼓動を打っているようだった。 (痛くしちゃダメ……絶対……) ここまで考えて、漆原はソファーに突っ伏した。 「俺……何考えてるんだ……!」 いや、考えて当然なのかもしれない。 だって、あの夜の続きがあってもおかしくない。 唐津は拒否しなかった。 むしろ── (だめだ……思い出すとまた死ぬ……) 羞恥で全身が転げ落ちそうになる。 なのに、指はスマホへ伸びていく。 「……検索……は……だめ……」 言いながら検索欄を開いている。 完全に矛盾している。 そして── 「初めて 男性 準備」「痛くない方法」 そんな単語を入れてしまう自分に、漆原はもはや顔を覆うしかなかった。 「俺……ほんとに……終わってる……」 だが、読む。 読んでしまう。 理解しようとする。 唐津のために、ちゃんとした知識を入れたいと思ってしまう。 (唐津さん……痛がらせたくないし……いやでも……俺、できるかな……でも唐津さんに……気持ちよく……なってほしい……) 思考が行ったり来たりして、どこにも着地しない。 ただひたすら、胸の奥が熱くて、息が浅い。 情けないほど恋に浮かされている。 スマホをベッドに投げ出し、漆原は天井を仰いだ。 (だめだ……ほんと……好きすぎる……) 恋というより、惚れ込んでいる。 尊敬と欲望と幸福と恐れが全部ぐちゃぐちゃに混ざって、制御できない。 そのくせ唐津の前では、なるべく落ち着いていたい。 子犬みたいに思われてもいいけど、引かれたくはない。 嫌われるのは怖い。 でも触れたい。 でも急ぎたくない。 でも手を伸ばしたい── (恋愛って……忙しい……) ひとりごちて、笑う。 自分で自分が可笑しかった。 部屋の隅に置いたマグカップの箱が目に入る。 今朝、唐津に言われた言葉が蘇る。 『茶碗と箸。おまえが飯食う用の。今あるやつ、不揃いで格好悪いしな』 なんでもないような一言が、じんわり胸を満たす。 あれは、これからも互いの家を行き来する前提の言葉だ。 未来を前提とした、何気ない宣言だ。 (……次、行きたいな……) 少しだけ、唇が震える。 唐津の「ちゃんと考える」の行き先を思い浮かべ、それが怖くもあり、楽しみでもあった。 「……ちゃんとしろよ、俺……」 自分に小さく言い聞かせる。 その声は、期待と不安と幸福が入り混じった、妙な震えを含んでいた。 生活用品を並べて、ソファに座り直し、部屋を見渡す。 ひとりの部屋なのに、もうどこかに“二人の匂い”が混ざり始めている気がする。 (やばいな……ほんとに……) 気づけば、頬がゆるみ、深く息を吐いていた。 静かな夜。 恋に落ちたばかりの男が、自分でも知らないうちに「次のステップの準備」を始めてしまう夜。 その甘さは、まだ彼自身の胸の中でだけ、こっそり熟していく。

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