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第61話 ふたり分になる朝

唐津が目を覚ましたとき、カーテンの隙間から差し込む光が、まだ淡い色をしているのがわかった。窓の外から聞こえてくる車の音はまばらで、休日の朝特有の、どこか緩んだ静けさが部屋全体を包んでいる。 枕元の時計に視線をやると、まだ八時前。 起きるには少し早いが、眠りに戻るには頭がはっきりしすぎていた。 すぐ隣には、静かな寝息。 視線を横にずらすと、シーツに片頬を押しつけるようにして眠る漆原の横顔があった。 前髪が額に落ち、まぶたはきれいな弧を描いている。ずれたTシャツの襟元から、鎖骨の線がのぞいていて、昨日の夜馴染んだばかりの体温がそこに確かに残っていた。 仕事中に見慣れた引き締まった顔とは違う、警戒を完全に解いた無防備な寝顔で、なのに妙にきちんとした印象はそのままで、そんなところがいかにもあいつらしい、とわけもなく思う。 この状態でこれ以上眺めていると、ろくなことを考えない自信があったので、唐津はそっとベッドから抜け出した。 マットレスがわずかに沈み、身体が離れていく感覚に、漆原が一瞬眉をひそめたが、完全には目を覚まさない。子犬みたいに小さく丸まって、またすぐ静かな呼吸に戻っていく。 「よく寝てるな……」 声に出すほどのことでもない一言が、小さく漏れた。 自分で苦笑しながら、そっと寝室の扉を閉めてバスルームへ向かう。 鏡の中には、いつもよりわずかに目の下に疲れの色を滲ませた、自分の顔が映っていた。 まだ酔いはほんのり残っているが、頭は妙に冴えている。その冴えた頭が、昨夜の出来事を映像のように鮮やかに再生し始めた。 「……いや、マジかよ」 思わず、低く呟く。 シャワーの蛇口をひねると、勢いよく落ちる湯の音が、記憶のざわめきを一瞬だけかき消した。温度を少し高めに調整し、頭から湯を浴びる。 それでも、昨夜の感触は簡単には流れていかなかった。 ベッドに倒れ込んだあと、いつものようにキスを重ねて、互いの身体に手を伸ばし合って、そこまではこれまでと同じだった。唐津も、そこまでなら予想の範疇だと思っていた。 けれど──あのあと。 「………ッ、」 目を閉じると、布の上に膝をついた漆原の姿が、記憶の奥から浮かび上がってくる。 少し震えた指先、自分を見上げたときの、熱っぽい視線。止めようとした言葉が喉まで出かかって、それより先に、全身を走った感覚のほうが勝ってしまった瞬間。 あいつの口で。 そこまでされて、どうしようもない快楽に飲まれながら達してしまったという事実が、湯気の中で急に生々しくなって、唐津は思わず額に手を当てる。 酔っていたのは確かだ。気分もよかった。期末を乗り切って、あいつは目標を叩き切って、自分もそれを支えて、いい酒が飲めて、店も料理も最高で、隣にいる男がどうしようもなく可愛かった。それらが全部重なっていたこともわかっている。 ただ、それでも、あの一線を越えるには、もうひとつ別の理由があったはずだ。 好きだと言われて、手放したくないと思って。 金曜の夜がいつからか自然に「二人で飲みに行く日」になっていて、示し合わせたわけでもないのに一週間の終わりに顔を合わせて、どちらかの家に泊まるのが、もう当たり前のようになっていた。 付き合っている距離だということくらい、自覚していないわけではなかった。 なのに、昨夜の一歩は、その「付き合っている」という枠の向こう側に、もう片方の足まで滑り込ませたような感覚で、唐津はシャワーに打たれながら、そこに思考が追いついていない自分に気づく。 「……どこ行くんだろうな、これ」 どこまで行くつもりなのか。どうやって続けていくのか。 あいつは、自分は、どこまで覚悟するのか。 湯が肩を流れていく。その熱で、昨夜の衝撃を薄めようとするように、しばらく黙って目を閉じる。 流されていた、と言ってしまえば簡単だ。 酒もあった、雰囲気もあった、タイミングも悪くなかった。あの目で見上げられたら、断れない自分がいた、それで済ませることもできる。 けれど、湯を止めてバスルームの静けさが戻ってきたとき、唐津はぼんやりとした頭で、ひとつはっきりと理解した。 流されたのだとしても、嫌ではなかった。むしろ──何か、とても大事なことを預けてしまったような感覚さえ、どこかにある。 「やばいな、俺」 タオルでざっと髪を拭きながら、苦笑が漏れる。 こんなふうに真面目に考えるのは、何年ぶりだろう。 恋愛経験だけなら人並み以上にしてきたつもりだ。女に不自由した覚えもない。 けれど、こんなにも先のことを具体的に思い浮かべてしまう相手は、そう多くはなかったはずだ。 バスルームのドアを開けると、リビングにまだ朝の光が柔らかく差し込んでいた。 その光の中に、少し所在なさげに立っている人影がある。Tシャツにスウェットパンツというラフな格好なのに、どこか落ち着きなく佇んでいる背中。 「おはようございます……」 声をかけられて初めて、唐津は笑ってしまった。 「おう、おはよう」 部長でも本店のエースでもなく、完全に「人の家に泊まった翌朝の、勝手がわからない人」の顔をしている。キッチンとソファの間で、どうしていいかわからず立ち尽くしている様子は、ほとんど子犬だ。 「起きたのか」 「はい……あの、歯ブラシ使いました」 「いいよ。昨日出したやつだろ」 「……はい」 返事の声が小さい。それがまたおかしくて、可愛い。 「コーヒー飲むか」 「いただきます」 「味噌汁、飲む?」 「飲みます」 「納豆は?」 「大丈夫です」 「じゃあ、朝メシつくるな」 そう言ってキッチンに立つと、漆原は少しだけ戸惑ったあと、邪魔をするまいとでもいうようにダイニングの椅子に座って背筋を伸ばした。 妙にきちんと座っているのがまた、笑えて、愛しい。 冷蔵庫から豆腐と残り物の野菜を出し、味噌汁用の鍋を火にかける。味噌を溶かしながら、横目で漆原の様子を伺うと、真面目な顔でコーヒーのカップを両手で包んでいた。 「味噌汁、赤と白どっちでもいけるタイプ?」 「……はい、多分」 「多分ってなんだよ」 「あまり、こだわりがなくて……」 そう言って少し恥ずかしそうに笑う。 その笑い方が、仕事の場ではまず見せない種類の柔らかさで、唐津は内心、思わず「やばい」と呟いていた。 やばい。 可愛い。 今さら戻れるわけがない。 だが、この先をどうするかという問題は、さっきバスルームで自分に突きつけたのと同じ重さで、まだ胸のどこかに残っている。 味噌汁と納豆と買い置きの総菜をテーブルに並べると、漆原の顔がわずかにほころんだ。 「……すみません、ちゃんとした朝ごはん」 「ちゃんとしてるってほどでもないだろ」 「いえ、すごいです」 そう言って、箸を手に取る仕草が、どこかぎこちない。よその家で朝ごはんを食べ慣れているタイプではないのだろう。 「いただきます」 「おう」 味噌汁を一口飲んだ漆原が、ほんの少し目を丸くしたあと、表情を緩ませて小さく頷く。 「……おいしいです」 「そりゃよかった」 その一言に、必要以上に胸が温かくなる自分に、唐津は軽く驚いた。 仕事でクライアントに褒められようが、部下に感謝されようが、こんなふうに素直に嬉しくなることはあまりない。 「こんなにちゃんと朝ごはん食べるの、久しぶりです」 「おまえ、いつもプロテインバーだもんな」 本店の自席で、特茶と一緒にいつも齧っている姿を思い出して笑ってしまう。 「たまにはこういうのもいいだろ」 「……はい」 頷く漆原の横顔が、本当に嬉しそうで、また「やばい」が胸の内で顔を出す。 食事を終え、食器を洗い終えたころには、部屋の光が少し強くなっていた。 二人でマグカップを持ってソファに並んで座り、二杯目のコーヒーを飲む。テレビはつけていない。静かな音楽だけが、オーディオから小さく流れている。 隣には、さっきまで自分のベッドで寝ていた男がいる。 今はTシャツを着て、姿勢よく座っているが、シャワーの音を聞きながら思い出した夜の光景が、どうしても頭から離れない。 どこをどう切り取っても、もう「ただの同僚同士」には戻れない距離まで来てしまったのだと、唐津はあらためて思う。 黙ってコーヒーを口に運ぶうちに、喉の奥に言葉がまとまり始めているのを感じた。 言わないでやり過ごすこともできる。しかし、それをやり続けるには、もう少し関係が進みすぎた気がした。 「なあ」 自分でも少し意外なタイミングで、声が出た。 「はい」 漆原が、カップを持ったままこちらを向く。 「おまえってさ」 ここまで言って、言葉が一瞬つかえる。 男同士で、しかもこんな年齢になってから、何を聞いているんだと思う自分と、それでも聞かなきゃいけないだろうと思う自分が、脳内で綱引きをしていた。 「その……この先も、ほら」 まどろっこしい言い方なのはわかっている。だが、他に表現が見つからない。 「この先も……したいとか、思ってるわけ?」 途端に沈黙が落ちる。 ほんの一瞬。 そしてその沈黙を、あっさりと破ったのは、隣の男だった。 「思ってます」 迷いもなく、間髪いれずに。 唐津は、思わず目を瞬いた。 「……即答かよ」 「す、すみません」 そこでようやく、自分が何を言ったのかに気づいたように、漆原の顔が一気に赤くなる。 「その、でも……」 慌てて続けるように、言葉が飛び出した。 「唐津さんが、嫌なことはしたくないです。無理に先に進みたいとか、そういうわけではなくて……」 考えてから話せ、といつも会議で言っている相手が、今は考えるより先に言葉を出してしまっている。そのギャップが可笑しいやら、愛しいやらで、唐津はカップをテーブルに置いて、片手で額を押さえた。 「おまえなあ」 「はい……」 「正直すぎるだろ、顔が」 さっきから、目も口も、そして頬も、全部で感情をだだ漏れさせている。 照れている、焦っている、けれど引く気はない──その全部があまりに真っ直ぐで、見ているこちらが恥ずかしくなる。 すぐには返事ができなかった。 コーヒーの香りと、さっきまでキッチンで漂っていた味噌の匂いと、昨夜からずっと続いている微かな体温の残り香が、全部混ざって、妙に現実的な空気を作っている。 この空気の中で、適当なことを言うのは違う。 わかっているくせに、何を迷っている。 そんな自分に小さく悪態をつきながら、唐津はゆっくりと息を吐いた。 「……すぐは、無理かもしれないけどさ」 口を開いた瞬間、隣で漆原の気配がぴくりと反応した。 「ちゃんと考えるよ」 言ってしまってから、その言葉の重さに自分でも少し驚く。 軽口にもできた。冗談めかして流すことも、曖昧に濁すこともできた。 にもかかわらず、今選んだ言葉は、明らかに「先に進む」という方向をあり得るものとして置いた宣言だった。 「あの、それって……」 漆原が、小さな声で言った。 目はまん丸で、信じられないものを見ているような顔をしている。それがまた、どうしようもなく可愛い。 「簡単じゃねえよ」 唐津は笑って、少しだけ肩をすくめた。 「簡単じゃねえけど、まあ……全部なかったことにするってのは、もっと無理だろ」 昨夜のことも、これまでのキスも、金曜の夜に一緒に飲んだ時間も、嬉しそうにパンを焼いていた顔も、全部含めて、「なかったこと」にするほうがよほど無茶だ。 「だから、時間かかるかもしれないけどさ。考えてみる」 「……はい」 漆原は、俯きかけて、ぐっと堪えるように顔を上げた。視線が合う。 その目の中に、露骨な期待と、不安と、それでも前に進みたいという意志が、全部まじりあったような光が宿っていて、唐津は心の中で苦笑した。 (やばいな、ほんとに) ここまで言ってしまって、今さら「やっぱりなし」とは言えない。というより、言いたくない自分がいる。 流されている、と言えばそうなのかもしれない。けれど、流されるのが嫌ではない。むしろ、その流れの先にあるものを、少し見てみたいと思ってしまっている自分がいる。 マグカップに残ったコーヒーは、もうほとんど冷めていた。苦みは弱くなっているはずなのに、舌に乗せると、なぜか少し甘く感じた。 「……コーヒー、おかわりいるか」 「いえ、大丈夫です」 「そっか」 そんな他愛もないやりとりが、急に愛おしくなった。 休日の朝に、同じソファで、同じ音楽を聞きながら、同じカップを両手で包む時間。ほんの少し前までは想像もしなかった当たり前が、今ここにある。 そしてその先に、まだ見えない何かが続いている。 それを「怖い」と感じるか、「楽しみ」と感じるかは、多分、自分次第だ。 「あっ!」 隣で、漆原が突然、小さく声を上げた。 「どうした」 「いえ、その……マグカップ、買ったんです」 一拍おいて続いた言葉に、唐津は思わず横顔を見る。 「マグカップ?」 「はい。マグカップと、タオルと、スリッパも。唐津さんが、俺のうちに泊まる時にその……」 最後のほうは、声がだんだん小さくなっていく。耳までうっすら赤い。 想像する。あの、きっちりした部屋で、画面とにらめっこしながら色や形を選んでいた顔を。 おかしくなって、そしてどうしようもなく胸があたたかくなった。 「……へえ」 笑いを噛み殺しながら、マグカップをテーブルに置く。 「じゃあ、俺も買っとくか」 「え?」 「茶碗と箸。おまえが飯食う用の。今あるやつ、不揃いで格好悪いしな」 漆原の目が、ぱちぱちと瞬きを繰り返したあと、ゆっくりと丸くなる。 「……いいんですか」 「なにが」 「いえ、その……茶碗と箸って……」 言葉を探している様子が、見ていてすぐわかる。 “ここにいていい”と、具体的な形で言われたように感じたのだろう。 その顔を横目に見ながら、唐津はふっと息を吐いた。 自分の部屋に「もう一人分」を足す準備をする。 相手の部屋に、自分の居場所が増えていく。 それだけのことなのに、思っていた以上に重くて、そして悪くない。 「パンも悪くないけど、やっぱり朝は納豆だろ」 「そうなんですか」 「いや、炊飯器はおまえにはまだ早いか」 「えっ、じゃあ、炊飯器も買います」 軽口を交わしながらも、胸の奥では、何かが静かに位置を変えていく感覚があった。 半歩、いや、もう少し踏み出したところで、世界が劇的に変わるわけじゃない。 けれど、近い未来に並ぶ茶碗と箸とマグカップの絵を思い浮かべるだけで、これから続いていく時間の輪郭が、少しだけやわらかく、鮮やかになる。 その朝、唐津は、自分の生活の中に「次」を前提にした何かを初めて置いたのだと、今更のように理解するのだった。

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