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第60話 止まれなかったキスの続き
マンションのエントランスを抜けてエレベーターに乗り込んだ瞬間、漆原は、自分の鼓動の速さが周囲の静けさとまったく釣り合っていないことを痛感した。
金曜の夜だというのにロビーには誰もおらず、エレベーターの中も二人きりで、鏡張りの壁に映る自分の顔が、想像以上に赤いのが一目でわかる。
数字のボタンを押して扉が閉まると、密閉された箱がゆっくりと上昇を始め、そのわずかな振動と機械音がやけに大きく感じられた。
(……どうしたらいいんだ、こういうとき)
仕事で役員とエレベーターに乗るときなら、距離感も視線の置き場も、口にすべき話題も全部分かっている。沈黙を保つべきときと軽い雑談を挟むべきときの違いも、一秒単位で判断できる。
だが隣に立っているのが唐津で、「このあと彼の部屋に行く」という前提があるだけで、そのあたりまえの判断能力がどこかへ消えていく。
どこを見ていいのか、どこに立っているのが正解なのか、ポケットに入れた手をどうすべきか、些細なことに意識が散って落ち着かない。
一方で唐津は、壁に軽く背を預けて、いつも通りの、少しだけ酒が入った夜の顔をしていた。ネクタイはほどかれ、シャツの第二ボタンまで外れ、コートは腕に引っかけたまま片手でスマホを持ち、もう片方の手はだらりと下ろしている。
その姿だけ見れば、同僚と軽く飲んだ帰りに自宅へ戻る男、というそれだけの光景のはずなのに、酒でわずかに緩んだ目元と、襟元からのぞく喉元の線に、今までとは違う意味を見出してしまう自分がいる。
真横から見る首筋のライン、淡く上気した頬、ふとした瞬間に落ちる視線の柔らかさ。
期末の会議室で、数字をめぐって部長たちの腹の内を読み合っていたときとはまったく別の、緩くて、色気のある表情がすぐ隣にある。
その現実に、漆原の情緒はまったく追いついていない。
不意に、視線が合った。
唐津がスマホから目を上げ、わずかに眉尻をゆるめる。
「……なに?」
ただそれだけの問いかけなのに、胸の奥がどくんと鳴る。
漆原は一瞬で呼吸を失い、返事が喉で絡まったまま動けなくなる。
「い、いえ……」
「おまえ、顔赤いぞ?」
軽口のようでいて、どこか艶のある声だった。
酒のせいか、それとも今の空気のせいか、判断できない。判断する意味もない。
エレベーターの床がわずかに揺れ、唐津の肩が近づいた。
沈黙がふたりの間に落ち、何もないはずの空間に熱が満ちていく。
触れたら終わる。
そう思った瞬間、触れてしまった。
どちらが先だったかはもうわからない。
指先がかすかにぶつかり、そのまま唐津の指がゆっくり絡んできた。
ほんの一瞬──それだけのはずなのに、背骨まで電流が走り、漆原はわずかに肩を震わせる。
その指先は、すぐ離れていった。
逃げられたのではない。
ただ撫でるように触れ、確かめるように離れた。
挑発のようで、誘いのようで、漆原の思考を一瞬で白く塗りつぶすには十分だった。
耐えきれず目を向けると、唐津もこちらを見ていた。
その瞬間、重力のように唇が惹かれ合った。
どちらからともなく、自然に、当たり前のように、なのに息を呑むほど濃く──唇が触れあって、離れた。
触れただけ。
けれど、それだけではもう足りなかった。
部屋に辿り着くと、扉が閉まった音を合図に、二人の呼吸が熱を帯びてぶつかり合う。
キスが止まらない。
胸の中では、「好き」という単語が暴れていた。
言葉にすればたった二文字のその言葉が、心の中で、何十回も、何百回も繰り返される。
そのたびに、抱き寄せる腕に力が入り、唇を離したくなくなる。
もっと近づきたい、もっと触れたい、その欲望が、自分の抑制を簡単に追い越していく。
「おまえ、慌てすぎだって」
笑い混じりの声さえ色っぽく、なのに漆原はその声でさらに我慢がきかなくなる。
気づけば、壁に追い詰められていたのは唐津のほうだった。
唐津の目が一瞬、大きく揺れる。
怯んだようでいて、拒んでいない──いや、むしろ受け入れている。そんな目だった。
玄関で何度も唇を重ね合い、言葉にならない声が唐津の喉から漏れる。
少し乱れた髪にふと指が触れた瞬間、唐津は息を吐くように呟いた。
「……おまえってさ……」
言いかけて、やめる。
代わりに漆原の後頭部に手を添えて、自分からゆっくりキスをした。
「……まったく、敵わねえな、おまえには」
降伏宣言のような一言だった。
その言葉が、嬉しくて仕方がないくせに、真正面から受け止めるのが照れくさくて、漆原は返事をできない。
けれど、身体は正直だった。腕の力を緩めるどころか、さらに相手を引き寄せる。
そこから先の移動は、ほとんど無意識だった。
キスの合間に唐津が「ベッドに行こう」と短く告げ、手を引かれ、そのまま廊下を歩く。灯りの落とされた寝室に足を踏み入れ、柔らかなマットレスの感触が背中に伝わる。
その間も、唇は何度も重なり合い、ときおり途切れては、また自然に求め合った。
シャツのボタンが外れ、肌の温度が触れ合い、指先が胸をなぞり、熱が重なり始める。互いの呼吸が絡む音だけが部屋に満ちる。
漆原は唐津の腰に腕をまわし、酒で火照った素肌を辿りながら、ゆっくりと愛撫を重ねていく。
胸の上を指でなぞり、腹の上で手のひらを滑らせ、そして、迷いも戸惑いもなく、唐津の脚の間へと身体を沈めていった。
「……おい、ちょ、ま……!」
唐津が息を呑んだ。
けれど、漆原の口唇が唐津のものを口に含んだ瞬間、制止の声は一瞬でほどける。
驚きの中にはっきりと快感が混じった吐息に変わり、指が漆原の髪を掴むように触れる。
もう言葉はいらない。
唐津の反応が、すべてを語っていた。
膝が震えて、喉が途切れ途切れに鳴って、腰が浮きそうになって、それでも止める気配はなく、シーツを握りしめながら「……っ、漆原……」と呼んでしまう声は、今夜のすべてを許していた。
漆原はただ、夢中だった。
熱い脈動を口唇で受け止め、燃える皮膚を舌先で辿り、先端から溢れる蜜を吸い上げて、また喉奥まで咥えこむ。
欲望なのか、幸福なのか、どちらとも言えない何かに突き動かされて、ただ必死に、ただ丁寧に、その熱を受け止めたかった。
そして唐津は、その熱に流されるように身を預けていた。
夜は、長く、熱く、ふたりだけのものとして沈んでいった。
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