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第59話 期待を隠せない金曜日
金曜の夜、東京の空は一週間の熱を吐き出すように少しだけ湿り気を帯びていた。
オフィス街のネオンがまだ消えない時間帯に、漆原は袖口を整えながら、予約時間より十五分早くその店の前に立っていた。
ガラス越しに見える店内は、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたチェーン店のような騒がしさとは無縁で、落とした照明にやわらかなスポットライトがところどころ落ちているだけの、静かすぎず、賑やかすぎない大人の空気が流れている。
能登の地の名が書かれた酒瓶がカウンターの上に並び、壁には魚の産地を書いた小さな黒板がいくつも掛けられていた。
(ここなら、唐津さんも……)
出張のついでに行った地方の店、顧客に連れていってもらった割烹、そういう記憶を総動員して、「唐津が好きそうな魚と酒の店」という条件でしつこく検索し、口コミを読み、電話で空きを確認した結果、辿り着いたのがここだった。営業として客を連れていく店は日々選んでいるが、「特別な人にに“奢る”ために店を選ぶ」のは、思った以上に難しかった。
入口の引き戸が開く音に顔を上げると、仕事を終えたばかりのスーツ姿の唐津が、ネクタイを少し緩めただけの格好で現れた。
「悪い、少し遅れた」
腕時計をちらりと見て言う唐津に、漆原は首を横に振る。
「いえ、俺が早く着きすぎただけです」
そう返しながら、胸の内側では、ちゃんと来てくれたという安堵と、それを表に出せないもどかしさが、静かにせめぎ合っていた。
予約名を告げると、店員がカウンターの奥へと二人を案内する。
周囲には、年齢層高めのサラリーマンや、仕事帰りと思しきカップルがちらほら。奥過ぎず手前過ぎず、隣の席との間隔も程よい二人掛けのテーブルに腰を下ろすと、すぐさまおしぼりとお通しが運ばれてきた。
卓上の小さな木札には「能登直送」の文字。メニューには、ぶり、のどぐろ、甘エビ、白エビ、牡蠣、そして北陸の地酒の名前がずらりと並ぶ。唐津はざっと目を走らせると、感心したように小さく笑った。
「……いい店、見つけたな」
その一言が、思った以上に真っ直ぐ胸に刺さる。
「魚と日本酒が美味しいところで……と思って」
努めて淡々と言ったつもりが、言葉の端に照れが滲むのが自分でもわかる。
「能登の酒、こんなに揃えてる店、そうそうないぞ。役員クラスを連れてきても外さない」
軽く冗談めかして言われたのに、「役員クラス」という言葉の重さに一瞬だけ肩が強張る。
だがそのすぐあとで、「……いいセンスっていう意味だよ」と少しだけ声を落として付け足され、漆原の中で何かが静かにほどけた。唐津に「店選び」を褒められる日が来るとは、数年前の浜松の自分には想像もできなかっただろう。
最初の一杯をどうするかという話になり、日本酒のページを開いた唐津が、楽しそうに目を細める。
「せっかくだし、北陸攻めるか。まずはこれだな、純米の辛口。あとで純吟も飲むとして……」
店員を呼ぶと、慣れた調子で銘柄を告げる。
「俺は冷で。おまえは?」
とメニューを傾けられ、漆原は少しだけ迷って、「同じので」と答える。
すぐに運ばれてきた一合徳利と小ぶりのぐい呑み。
透明な酒が注がれるときの、かすかな音が心地よい。唐津がまず口をつけ、すぐに目を細めた。
「……うん、うまいな。綺麗で、でも薄くない」
その言葉だけで、不思議と店を選んだ自分まで褒められたような気がして、漆原もぐい呑みを唇に運ぶ。
冷たいのに柔らかい、その感触が舌に乗る。
アルコールの熱が少し遅れて喉を通り、胸の奥がじんわりとあたたまる。
そのあいだに、刺し盛りと能登の岩もずく、さざえのつぼ焼きが運ばれてきた。
魚の切り口はどれも艶やかで、脂の乗りが一目でわかる。
唐津が箸を伸ばし、ぶりを一切れ口に入れる。
「……うん、間違いない」
短くそれだけ言う顔が、仕事のときの「このプランでいくぞ」と決めたときと同じくらい頼もしく見えて、漆原の心臓が少しだけ早く打つ。
自分もぶりを口に運び、噛んだ瞬間に広がる脂の甘さと、すっと引く後味の良さに、思わず目を細めた。
しばらくは魚の話と酒の話が続いた。
能登の地名だとか、昔の出張先の話だとか、顧客に連れていかれた店の“当たり”と“ハズレ”の話だとか。どれも仕事にまつわる話なのに、会議室で語るそれとは違い、どこか軽くて、柔らかくて、酒の温度に似たぬくもりがある。
店員が「ぶりしゃぶがおすすめですよ」と笑顔で勧めてきたときには、二人ともほとんど迷わなかった。
「じゃあ、それもらおうか」
「お願いします」
あっさりと決まり、卓上コンロと鍋、そして薄く引き延ばされたぶりの皿が運ばれてくる。
昆布だしがふつふつと温まり、葱と水菜が沈んでいく。店員が一枚を鍋にくぐらせて見せると、さっと色が変わる。
「これをポン酢でどうぞ」
湯気と一緒に立ち上る香りを吸い込みながら、唐津がぶりを口に運ぶ。
その横顔を見ながら、漆原もゆっくりと箸を動かす。
脂の乗った身が、出汁に通すことでちょうどよく溶けていき、口の中から消えるタイミングで日本酒を含むと、もはや言葉はいらなかった。
酒は二合目、三合目と進んでいく。
唐津は「北陸制覇するぞ」と笑いながら、銘柄を変えつつぐい呑みを空けていく。漆原はペースをだいぶ落とし、ちびちびと付き合う。
日本酒の香りと魚の脂に包まれた席で、時間が少しゆっくり流れ始めたころ、ふいに唐津が箸を置いた。
「期末のおまえ、格好よかったな」
唐突に落ちたその言葉に、手元の箸が止まる。
「……え?」
思わず顔を上げると、唐津はぐい呑みを指先でくるりと回しながら、ほんのり赤くなった頬でこちらを見ていた。
酔っている。
けれど、目はまっすぐだ。
「会議んときもそうだしさ、あの大口、最後まで崩さず持っていったの、普通にすげえからな。ああいう局面で目が輝いてるやつ、今どきそういないぞ」
さらりと言われたはずなのに、その一つ一つの言葉が重くて、耳の奥で反響する。
「いや……あれは、唐津さんが資料、出してくださったからで……」
「いや、それは俺の仕事。あの場で仕留めたのはおまえだよ。こっちはただ矢を研いだだけだ」
軽く肩をすくめてみせる仕草が、いつもの“人たらし”のそれなのに、今は妙に色っぽく見える。
頬の赤み、日本酒で少し緩んだ目尻、酒のせいだけではない柔らかさ。
それを正面から見せつけられて、漆原の情緒は、完全に処理能力の限界を迎えつつあった。
期末の激闘を褒められて嬉しい。自分の仕事をちゃんと見てくれていることも嬉しい。資料でサポートしてくれたことを改めて認識して、胸のどこかで熱が増す。
目の前でほろ酔いの男が、自分のための時間をこんなふうに使ってくれている事実に、また別の熱が重なる。
情報が多すぎて、どの感情から処理していいのかわからない。
何か言おうとして、口がうまく動かない。ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど情けないほど小さかった。
「……ありがとうございます」
その様子を見て、唐津がふっと口角を上げた。
「ほんと、わかりやすいな。期末の戦場に立ってたやつと同一人物とは思えないくらい、今かわいいぞ」
「…………」
「顔、真っ赤だ」
何か言い返そうとしても、適切な語彙が見つからない。
俯いて箸先を見つめるしかない自分に、自覚だけはちゃんとある。その自覚が、余計に恥ずかしさを増幅させてくる。視界の端でぶりしゃぶの鍋が静かに煮立っているのが見える。
現実逃避のように追加の具材を鍋に入れてみても、火照った顔は元に戻らない。
そんな漆原の様子を、唐津はどこか楽しそうに眺めている。
からかうようでいて、どこか優しい視線だった。
ぶりを一切れ摘まみながら、唐津がふいに言う。
「なあ、今日さ」
「……はい」
「うち、来るか?」
箸を持つ指先から、力がすっと抜けそうになる。
聞き間違いであってほしいような、そうでないでほしいような、不思議な感覚が一瞬で胸に広がる。
「……えっ」
情けない返事が漏れる。
唐津は、ぶりをポン酢にくぐらせながら、事も無げに続けた。
「ほら、一本タクシー捕まえちまえば早いしさ」
本当に「ついで」のような口調だった。
仕事で「その案件、ついでに拾っといてよ」と言うときと同じくらいの軽さ、同じくらいの自然さ。けれど、漆原にとっては、全く別の意味を持っていた。
(……うち、来るか)
頭の中で、その言葉だけが何度も再生される。
週末の部屋に、二人。そこから先に続く光景を想像しないようにしても、どうしても脳が勝手に描き始めてしまう。
「……行きます」
声を出した瞬間、自分でも驚くほど上ずっているのがわかった。
「行きます、ぜひ」
慌てて言い直すと、唐津が「そんなに?」と笑う。
その笑いが、酔いと一緒に少しだけ滲む。
そこから先は、ほとんど無意識のうちに食事が進んでいった。ぶりしゃぶの鍋はきれいに片づき、最後にご飯を投入した雑炊が卓上に運ばれてきたときには、二人ともかなりお腹が張っていた。
「でもこれは食わないと締まらないからな」
そう言いながら、唐津がレンゲを動かす。
昆布とぶりと野菜の旨味がしみこんだ雑炊は、驚くほどやさしい味だった。一口ごとに、胃のほうからも心のほうからも、熱がじんわり広がってくる。
やがて、唐津がレンゲを置いて、深く息を吐いた。
「……もう食えねえ。こんなに食ったの久しぶりだわ」
笑いながら腹をさすってから、ふと視線を漆原に向ける。
「おまえと一緒だと、飯がうまいな」
時間が止まったような気がした。
雑炊の湯気がゆっくり立ちのぼるのを、ただ見つめてしまう。
意味は単純だ。難しい比喩でも何でもない。けれど、その言葉が持つ重さと温度は、あまりにもまっすぐで、あまりにも危うい。
「……」
返事ができない。
返事をした瞬間に、何かが決定的になってしまいそうで、喉が固まる。けれど、胸の内側では、別の自分が騒いでいた。
(これってやっぱり、付き合ってるってことだよな)
今日の店選び、仕事の話の続き方、日本酒の注ぎ合い方、鍋をつつく距離、唐津の「うち来るか」という誘い、そして今の「おまえと一緒だと飯がうまい」。
ひとつひとつをいちいち噛みしめてしまう自分が、少し情けなくもあり、どうしようもなく幸せでもある。
会計を済ませ、店を出ると、夜風が火照った頬に心地よい。
金曜の九時過ぎ、オフィス街から少し離れた通りは、人通りがまばらで、タクシーの流れだけが一定のリズムで続いている。
唐津が片手を上げると、すぐに一台停まった。
後部座席に並んで腰を下ろす。
ドアが閉まり、区切られた狭い空間に、さっきまでの酒と魚の匂いと、二人分の体温が静かに混ざる。
運転手に住所を告げる唐津の低い声を、横から聞く。
その声は、昼間の会議室で聞くものとも、さっきの居酒屋の少し甘い声とも違って、どこか落ち着き払っていた。
車が走り出す。
フロントガラス越しに流れていく夜景の光が、窓に反射して、唐津の横顔を複雑に照らし出す。ネオンの赤や信号の青、街灯の白が、そのたびに彼の頬を別の色に染める。
ふと、その横顔を盗み見る。
期末の会議で役員とやり合うときと同じ目をしているようでいて、少しだけ瞼が重そうに見える。仕事の話をしているわけでもない時間に、その距離の近さだけが妙に意識に残る。
沈黙が、甘い。
言葉がなくても居心地が悪くならない沈黙は、そう多くない。耳に入るのは、エンジンの音とタイヤが路面を滑る音、遠くのクラクション、そして隣から聞こえる呼吸だけ。
(このまま、この人の部屋まで行くんだ)
タクシーのルートを頭の中でなぞりながら、期待と緊張の混ざった熱が、また胸の奥で静かに膨らんでいく。
期末の戦場で研ぎ澄ませていた集中力とはまったく別の意味で、心拍数だけが確実に上がっていた。
期末の戦場を駆け抜けた第一部長は、もういない。
今、ここにいるのは、一人の男に「奢る」と約束し、その約束を果たして、ついでのようにそれ以上を期待してしまっている、ただの恋をしている男だった。
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