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第58話 九月末、戦場の中心で

期末まで残り二日。 本店の空気は朝から異様な温度を帯びていた。どの部も、誰もが動いている。 電話が鳴り続け、フロアを駆ける靴音があちらこちらで絡み合い、コピー機の排出音すら焦りと期待が入り混じるように聞こえる。 営業第一部から第五部までが一つの巨大な心臓のように脈打つのが、廊下に立つだけでわかるほどだった。 第一部のフロアに足を踏み入れた唐津は、そこに立つ漆原の存在感をすぐに見つけた。 背筋は一直線に伸びて、声は短く静か。だが、その一言で空気が変わる。 「眞壁、昨日のA社は動いたか」 「まだ決裁待ちです! すぐ催促入れます!」 「今日中だ。詰めろ」 その声は冷静なのに、どこか嬉しそうでもあった。 追い詰められた状況を嫌う営業は多い。 だが漆原は違った。ピンチが来ると、その奥に潜んでいた闘志が立ち上がる。 眞壁の返事の瞬間には、すでに次の展開を見ている目だった。 第一部長の背後を通りかかった本店長も、目の端で彼の動きを追いながら、静かに呟く。 「……今日、動くな」 言葉は短く、しかし重い。 本店長自身も期末を読み切っている。 副社長との会議で「第一部で大口が進んでいる」と口にした以上、もう後には引けないのだ。 唐津はフロアの端でその様子を眺め、自然と息を吐いた。 (今日で決める気だな、あいつ) 戦略部の人間として、数字をつくる現場の緊張はもう身に染みていた。 だが第一部の空気は少し違う。 部下たちが漆原のスピードに引きずられ、彼の一言でフロアの動きが加速する。 その熱の中心に立つ漆原の目は、週末の夜、恋をして照れた男と同じとは思えないほど鋭かった。 昼を過ぎる頃には、第二部長が自席で顧客リストを広げながら、柔らかい笑顔で社員に電話の方向性を指示し、本店唯一の女性部長でもある第三部長は得意先へ「会長、お元気ですか?」と甘い声を飛ばしていた。その笑声を聞くだけで、彼女の顧客が財布を開く姿が想像できる。第四部長は部下に向けて「あと一本、絶対いけるぞ!」と熱く背中を押し、第五部長は大規模クレームの火消しを笑いながら引き受けている。 「任せとけ、炎上は五部の名物だろ!」 そんな大らかな声がフロアに響き、若手が少しだけ肩の力を抜く。 しかし漆原は笑わない。 むしろ何度も時計を見ては、配下の課長たちにに淡々と次の手を指示している。 「稟議は十五時。書類揃えろ。修正は俺が見る」 「はい!」 「あと、夕方までにB社とC社、両方押さえる。今日が勝負だ」 日頃な柔和な眞壁の目が大きくなる。 彼が漆原の元で最も鍛えられた理由は、この“無茶ではなく、実現可能な高い要求”を浴び続けたからだと、唐津も知っている。 唐津はフロアを離れ、自席に戻った。 戦略部のフロアは営業より落ち着いているはずなのに、今日はやはりざわついている。 役員や部長クラスの往来も多く、資料作成や数字の整理が止まらない。 席に戻ると、ふとPC上の資料が目に入った。 第一部の大型案件を動かすための最後の後押し。 昨日、漆原に軽く告げておいたものだ。 (うまく噛み合っているといいが) チャットは、唐津が送ったメッセージで終わっている。 漆原から返信がないということは──集中しているということだ。 唐津はふっと笑い、資料を閉じた。 夕刻が迫るにつれ、第一部の緊迫度が増していく。 進捗が気になって営業第一部のフロアに足を向けたその瞬間、唐津は空気を理解した。 課長たちが走り、課員が次々電話をかけ、漆原は端末とメモを同時に動かしながら、淡々と何本もの打ち合わせをこなしている。 さっきまでのざわめきが、いまは一本の太い線に集約されているようだった。 (本気の時の顔だ) 戦場の男の顔。 何かを絶対に取りに行く時の、無駄を一切排した表情。そこに迷いはひとかけらもない。 電話を切った隙に、唐津は漆原に近づいた。 「あと一息だろ」 漆原は横目で唐津を見る。 その黒い目が、ほんのわずかに息を吸い込む。 返事をする代わりに、その呼吸だけが答えになっていた。 それだけで十分だった。 唐津にはわかる。──勝つ時の呼吸だ。 午後五時。 夕陽が窓に差し込む頃、漆原のデスクで電話が鳴った。 発信元を見た瞬間、眞壁の顔色が変わる。 フロアの空気が一気に静まった。 周囲の会話が自然と細くなり、誰もが耳だけをそちらに向ける。 漆原は電話を取り、椅子に背を預けず、まっすぐ前を見たまま、ほんの二言、三言だけ静かに答えた。 「……はい。承知しました。ありがとうございます」 その声が落ち着きすぎていて、逆に緊張が走る。 沈黙の一拍が、やけに長く感じられた。 電話を置くと、漆原は一度だけ深く息を吐いた。 そして正面をまっすぐ見て言う。 「……決まった」 その瞬間、フロアの空気が弾けた。眞壁の拳が震え、若手が「よしっ!!」と椅子を叩き、女性課長が部下に笑顔を向け、まるで試合に勝ったチームのような歓声が起こる。 抑えていた息が一斉に解放され、熱気が一段階上に跳ねた。 漆原は騒ぎの中心で、ほんの少しだけ笑った。 その笑みは控えめなのに、圧倒的に強かった。 決めた男の顔。 誰もがその顔を見て、「この人の部にいてよかった」と思うような笑みだった。 本店長室に報告に向かうと、本店長は書類を確認して、短く、しかし深く頷いた。 「……よくやった。これで本店は全体目標に届く」 「ありがとうございます」 「ほんとうに価値のある一本だ。部下たちにも、ありがとうと伝えてくれ」 「承知しました」 会話はこれだけ。 だがその言葉の重みは、この数日を全力で走った者にしかわからないものだった。 数字の桁だけでは測れない、信頼とプレッシャーと積み重ねの重さがそこにある。 フロアに戻ると、課長たちが待ち構えていた。 「部長、本店長は……?」 「問題ない。あとは数字の付け替えと、締め作業だ」 眞壁の目が潤む。 一番近くで走ったからこそ、この一本の重さを知っているのだ。 「部長……これで達成ですね、さすがです……!」 「お前もよくやったよ」 漆原がぽんと眞壁の肩を叩く。 照れたように笑う眞壁の表情に、周囲の若手がまたざわついた。 第一部の士気は、期末二日前にして、最高潮に達していた。 その頃戦略部で作業していた唐津の端末に、漆原からチャットが届く。 『案件、正式に契約決まりました。ありがとうございます』 唐津は口元を緩めながら返信した。 『よくやったな』 すぐに返ってくる。 『資料、助かりました』 唐津は背もたれに身体を預け、笑いを噛み殺して一言打った。 『じゃあ、酒奢れよ』 ほんの数秒の間のあと、 『はい』 短いけれど、あの男の素直さと照れと嬉しさが全部混ざった返事が返ってきた。 文字数は少ないのに、読めてしまう。 画面の向こうで、きっと真面目な顔をして文字を打っているのだろう。 本店長から全フロアへ「目標達成」のメールが届いたのは、それからほどなくしてだった。 件名のところに並ぶ固い言葉を見ただけで、あちこちのフロアから歓声があがる。 第二部長が立ち上がり、「よし、今日は飲みに行くぞ」と部下を連れてフロアを出ていき、第三部長は香水をつけ直しながら「いつもの店を予約しておいて」と笑い、第四部長は若手にエナジードリンクを配って「まだ片づけあるからな、倒れるなよ」と笑い飛ばし、第五部長は炎上を一気に片づけた勢いで「お前らほんと頑張ったなあ!」と大きな声で部下の肩を叩いていた。 その喧騒の中で、漆原は静かに端末を閉じ、スーツの襟を整える。 視線の先には、さっきの唐津とのチャットの画面がぼんやり浮かぶ。 (……奢らないとな) 心の中でそう繰り返しながら、立ち上がる。 第一部のメンバーが、自然と視線を向けてくる。 「……じゃ、うちも飲みに行くか」 「行きます!」「もちろんです!」と声があがる。 若い社員がすでに店の候補をいくつか挙げていて、部下たちが慌ただしく片づけを始める。 端末を落とし、書類をまとめ、最後のチェックだけ済ませて、フロアの灯りは少しだけ柔らかくなった。 エレベーター前に集まった第一部のメンバーを見渡しながら、漆原は、ほんのわずかに口元を緩めた。 ここまで走ってきた顔、数字に追われた顔、その全部を知っている部下たちと飲みに行く時間は、本店第一部長にとって、戦場の余韻を共有する大事な儀式でもある。 扉が開き、第一部の面々が乗り込んでいく。 その背中を追いながら、漆原はエレベーターの天井を一瞬だけ見上げた。 (週末、空いてるか聞いてみないと) 唐津との約束が、頭のどこかで小さく灯っている。 期末のご褒美としての一杯を、あの人と交わすことを思い浮かべると、胸の奥がわずかにくすぐったい。 高層ビルの灯が外へ滲む夜。 数字が揃い、戦いがひとつ終わった瞬間の静けさと、次の約束へ向かう予感が、同じ胸の中でゆっくりと混ざっていく。 その夜、漆原は、誰にも見せていない小さな笑みを胸にしまったまま、第一部の部長として、そして一人の男としての余韻を連れて、部下たちとビルを後にした。

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