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第57話 本店の男

週が明けると、空気は初日から張り詰めていた。 月末、しかも期末が近い。 本店の役員フロアにある大会議室には、営業担当の役員たちと地方ブロックの担当者、本社ミドル部門の幹部たちがずらりと並び、その最上座に副社長が座っていた。 資料のページをめくる音さえ、やけに大きく響く。 「……で、結論として」 副社長の低い声が、静かな空気を切った。 視線は手元の資料から顔を上げ、テーブルの向こう側に並ぶ役員たちを順に刺していく。 「期末の数字は、本当に“揃えられる”のか」 淡々とした口調でありながら、言葉の一つ一つに鋭さがあった。 国内地方の担当役員が小さく咳払いし、手元の数字をちらりと見下ろす。 目の前のエリア別資料には、積み残された案件のリストと、滑り込みで決まるかどうかのギリギリの案件が並んでいた。 「地方の大型は、もうこれ以上は……」 言い淀む役員の声が細くなる。 沈黙が、会議室の中央に重く落ちた。 そのとき、端の席から、静かな声が重なる。 「本店は、どうなんだ」 副社長の問いに答えたのは、本店営業部を統括する本店長だった。 少し姿勢を正し、手元の資料を閉じる。 「本店第一部、漆原のチームで大口案件が進行中です。期末までにまとまる可能性が高いと見ています」 副社長の視線が、本店長の後ろに控える男へ向けてすっと動いた。 その線上に立っているのは、本店営業第一部長・漆原崇彦。 スーツの襟元をきちんと整え、背筋を伸ばしたまま、何も言わずその視線を受け止める。 「漆原」 名前だけが、鋭く呼ばれる。 問いの意味はそれだけで十分だった。 漆原は手元の資料に一度だけ視線を落とし、それから顔を上げた。 「読み通りに進めば、最終日には間に合います」 声は抑えられていて、感情の色はほとんど乗っていない。 だが、その目の奥には揺るがない確信があった。 「“読み通り”じゃ足りない」 副社長はすぐさま切り返す。 「前倒しで詰めろ。期末ギリギリの読みには、もう乗れん」 一瞬だけ、会議室の空気がさらに冷える。 だが、漆原の目はかえってわずかに光を増したように見えた。 「承知しました」 短い返事。 それ以上の説明も言い訳もない。 ただ、“やる”と言い切るだけの声だった。 自身も役員の陪席者として壁際に座っていた唐津は、その瞬間、漆原の中でふっと何かが立ち上がるのを感じた。 静かな水面の下で、一気に燃料投入されたエンジンが回転を上げたような、目に見えない熱の立ち上がり方だ。 数字を詰められても怯まない。 むしろ、追い込まれた状況を楽しんでいるようにさえ見える。 唐津には、自分にはないタイプの“強さ”だといつも思わされる部分だった。 会議は、その後も厳しいトーンで続いた。 地方の担当役員が追加の手当て策を話し、各店が大型案件や中型小型の積み上げの進捗を答える。 営業戦略部長である唐津も、自部署の施策や支援体制についてコメントを求められ、淡々と応じた。 だが、意識の片隅ではずっと、背筋を正して立っている漆原の存在がちらついていた。 週末の朝、パンを焦がさないように真剣な顔をしてトースターと向き合っていた男と、今こうして期末の数字を背負って副社長に正面から“間に合わせます”と真っ直ぐに返す男が、同じ人物だという事実が、妙に可笑しくて、同時に少し誇らしかった。 会議が終わると、出席者が一斉に立ち上がり、各自一礼する。 役員たちが次々に退出していく中、漆原も一礼し、すぐに踵を返した。 唐津はドアの少し手前で立ち止まり、その背中を目で追った。 背筋は最後まで真っ直ぐで、足取りに一切の迷いがない。 緊張の残る空気をものともせず、自分の戦場に戻っていく兵士のようだった。 「やるか」 エレベーターホールまでの廊下、漆原は言葉を刻んだ。 誰に聞かせるでもなく、しかし自分自身だけにはっきり届く声で。   フロアに戻ると、営業第一部の空気もまた、月末特有の熱を帯びていた。 デスクの上には資料の束が積まれ、電話の着信音が途切れなく鳴る。 一課長の眞壁をはじめとする主力のメンバーが、画面に向かいながらひっきりなしにメモを取り、席を立ち、戻り、また電話を取る。 「戻りました」 漆原が一言告げると、近くの席にいた眞壁がすぐに立ち上がった。 「お疲れさまです、部長。会議、どうでしたか」 「副社長から期末前倒しの指示が出た。例の案件、予定を繰り上げる」 「……繰り上げるって、あのスケジュールを、ですか」 一瞬驚いたように目を見開いた眞壁だったが、すぐに笑みのようなものが浮かんだ。 無茶を言われているのに、それがどこか楽しい、とでも言いたげな顔だ。 「できるか?」 「やるんですよね、どうせ」 眞壁の返事に、漆原はわずかに口角を上げた。 「巻いていくぞ。先方の決裁フローをもう一度洗い直せ。ボトルネックになりそうな部署に、事前の打診を入れる。資料も、今日中に“攻めのバージョン”を用意する」 「了解しました」 眞壁の声に迷いはなかった。 部下たちもそれぞれ自分のタスクに視線を戻し、キーボードを叩く音が一段と激しくなる。 その指示を出しているときの漆原の目は、明らかに輝いていた。 プレッシャーに押しつぶされそうになっているのではなく、むしろその重さを前にして筋肉を伸ばし、戦う準備を整えているようだ。 唐津は、営業戦略部の席へ戻る途中、フロアを横切りながらそれを見ていた。 部下の背中越しに見える漆原の横顔。 いつも通り冷静で、淡々としているように見えながら、目の奥で楽しそうに光っている。 「ああいうところが、強みなんだよな」 唐津は、扉の前で一度だけ小さく笑った。 自分にはない部分だと、素直に認めざるをえない。 営業戦略部は、数字そのものを取りに行く部署ではない。 提案の構成やシナリオを考え、現場を支える縁の下の存在だ。 緊急時には前線に出ることもあるが、基本的には“手札を揃える側”であり、“戦場で剣を振るう側”ではない。 唐津は自分のデスクに戻ると、さっそくPCを立ち上げた。 例の案件―― 大口の法人顧客による、全社での運用見直しプロジェクト。 債券と株式、投信の組み合わせ、そして派生商品も絡む複雑な案件だ。 この案件の骨格設計に、営業戦略部も深く関わっている。 「……前倒し、ね」 ぼそりと呟き、社内システムから必要なデータを呼び出す。 運用報告書の過去分、顧客の決算資料、これまでのヒアリングメモ、社外のリサーチレポート。 それらを横並びにしながら、漆原が提案の場で“ここで決めにくるだろう”というポイントを頭の中でシミュレーションしていく。 画面の上では、グラフと表が組み合わさった資料の下書きが少しずつ形になっていく。 数字だけを並べるのではなく、“勝ち筋”が一目で伝わる構成を意識する。 どこで顧客の懸念を潰し、どこで期待値を上げ、その上で最終的に契約書にサインをさせるか――すべての流れを一本の線にする作業だった。 唐津にとって、こういう時間は嫌いではない。 むしろ好きなほうだ。 ただ今日は、それにもう一つ別の感情が混ざっていた。 (あいつ、こういう時、本気で楽しそうなんだよな) 追い詰められているのに顔つきが少し明るくなる様子を思い出して、苦笑する。 普通なら胃が痛くなって終わるところを、「やってやろう」と前のめりに構えてしまう。 そういうところだから、部下もついていくのだろう。 資料の骨格が固まると、唐津は社内のフォーマットに落とし込み、スライドを整えた。 グラフの色を調整し、見出しを一行だけ増やし、視線の流れが自然になるように図を動かす。 最後に、簡単なメモを一枚、別紙にまとめた。 「決裁フロー想定/想定質問と回答案」 顧客側の決裁ルートを図にして、どこで誰が“ストッパー”になり得るか、可能な限りのパターンを洗い出しておく。 それの横に、短い箇条書きで“キラーフレーズ”を添えた。 “ここで、この一言を出せば通しやすい” それを伝えるための資料だった。 ひととおり見直してから、唐津はファイルを社内メールに添付した。 宛先に「本店営業第一部/漆原崇彦」の名前を指定し、件名に短く打つ。 「【第一部案件】提案用追加資料」 本文は、さらに短い。 『例の案件。  提案の時、使えそうなら使え』 一度だけ読み返して、送信ボタンをクリックした。 送信済みフォルダにメールが移動したのを確認すると、唐津は深く椅子にもたれた。 こうして支えることしかできないが、それで十分だとも思う。 前で剣を振るうのは、あいつの仕事であり、あいつの得意分野だ。 数分後。 唐津のPCの右下に、新着チャットの通知が表示された。 「Urushihara T. からメッセージ」 マウスを動かして、営業部内で使っている業務チャットを開く。 既読のついていないメッセージが一つ、短く並んでいた。 『めちゃくちゃ助かります。  ありがとうございます』 素直なひと言に思わず笑みが浮かんだ。 唐津はキーボードに指を乗せ、少しだけ迷ってから打ち込んだ。 『どうせ巻いてくなら、最初からアクセル全開にしとけ。  契約取れたら、酒奢れよ』 送信。 軽いジョークに見えるように、いつもの仕事口調よりも気持ちくだけた文面にした。 画面の前で見ているのは自分だけだが、なぜか少しだけ背筋がむず痒い。 数秒後、また新しいメッセージが返ってきた。 『はい、本気で取りに行きます。  酒、ちゃんと奢れるように』 読んだ瞬間、唐津は小さく息を吐いた。 チャットの文面だけで、あいつの顔が目に浮かぶ。 仕事モードの真剣な目をしながら、どこか少しだけ嬉しそうに口元が緩んでいる、あの表情だ。 “本気で取りに行く”という言葉に、嘘はない。 それがわかっているからこそ、唐津も余計なことは言わない。 『期待してる』 そうだけ打ち込んで、チャットを閉じた。 画面を閉じても、胸の奥の熱は冷めなかった。 平日のフロアに響くのは、キーボードの音と電話の鈴の音、コピー機の機械音だけ。 その中で、それぞれが自分の役割を果たしている。 部長同士としての距離。 フロアを隔てて交わす、最低限の会話。 業務チャットに紛れる、短い一文。 休日の子犬のような漆原は、そこにはいない。 いるのは、鋭い目で数字と顧客を見据えるトップセールスとしての顔だけだ。 唐津にはわかる。 今、この瞬間も、あの男の胸の奥で燃えている火の温度を。 そして、その火に自分も少なからず影響を与えているのだと思うと、 ──悪くない。 そう思えた。

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