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第56話 夜に残るもの

唐津が漆原の部屋を出たとき、エレベーターの鏡に映った自分がいつもより肩の力を抜いて見えた。 スーツのパンツにシャツ一枚。開いた襟元が気になって、首元のボタンを留め直しながらロビーに出る。 外は思った以上に涼しく、夜気が肺に落ちていく感覚が妙に心地よかった。 タクシーに乗り込み、運転手に自宅の住所を告げる。 窓の外を流れていく街の灯りを見ていると、ほんの十分前まで隣にいた漆原の姿がふっと蘇る。 あの不器用な目の熱さ、触れたときにかすかに震えた呼吸、嬉しさを隠しきれずに上ずった声。 そのどれもが、想像よりもずっと近いところに残っていた。 コンビニでふと目についた新作のビールと弁当を買って部屋へ向かう。 帰宅時のルーティンは普段と変わらないのに、一人分の買い物袋の軽さだけが妙に意識に残った。 部屋の灯りをつけると、静かな空気がゆっくりと広がっていった。 漆原の家とは違う、自分の生活の匂いがある。 その違いが今夜だけ少しだけ物足りなく感じて不思議だった。 部屋着に着替え、シャツを無造作に放ってソファに腰を下ろした。 ビールのプルタブを開けると、炭酸の弾ける音が室内に広がり、その軽さが妙に気持ちを落ち着かせた。 ひと口流し込む。 冷たさが喉を走り、ようやく自宅に戻った実感が湧く。 そして、不意に笑ってしまう。 「……やっちまったよな」 声に出しても誰もいない。 迷いも戸惑いも、戻れなくなるかもなんて不安がる段階も、とっくに通り過ぎている。 想像以上に自然に、漆原との時間を受け入れていた。 缶を持つ指がゆっくりと緩む。 ふと、昨夜の漆原の顔が鮮やかに浮かんだ。 シーツの上で自分を見つめた真剣な目。 触れる小さく息を呑み、けれど逃げずに求めてくる視線。 朝にパンを焼きながら、恥ずかしそうに目を逸らし、けれど隠しきれない嬉しさが頬に滲んでいた横顔。 どれも唐津が知っている“本店第一部長・漆原崇彦”とは別の人間のようだった。 仕事中の漆原を思い浮かべる。 冷静で、理性的で、数字にも人にも容赦なくシビアな判断を下す。 一切の無駄を嫌い、必要な言葉だけを発し、静けさの中で部下を導く。 唐津の目から見ても、一流の部長だと思う。年齢の割に落ち着きすぎているほどだ。 「なのに、なんであんな顔すんだよ……」 唐津は小さく息を吐き、ビールをもうひと口飲む。 その落差が、自分でも驚くほど胸に響いている。 冷たい会議室で見せる表情と、寝室で必死に感情を押し出してくる顔が、同じ人間とは思えないほど違う。 そこに惹かれてしまっている自分がいた。 浜松で初めて会った頃の漆原は、勢いだけで数字を取りに行くがむしゃらな若手だった。 叱られても引かず、不器用なほど真っ直ぐに顧客へ向かい続ける姿は、若手の中でもずば抜けていた。 “こいつは伸びるな”と思った。 そこは今でも変わらない。 同期の誰よりも早く部長の椅子に辿り着き、部下に頼られている今の姿を見ると、若い頃の勢いを洗練させたような頼もしさがある。 その姿を見るたび、率直に“すごいな”と思う。 だが昨夜の漆原は、どの側面の延長線上にもいない。 仕事の顔とはまるで違い、若かった頃のがむしゃらさとも違う。 ただ、自分に向ける熱だけで構成されたひとりの男だった。 あの顔を思い出すと、胸の奥が妙にあたたかくなる。 「なんであんなに可愛いんだよ」 自分で言って、つい苦笑する。 唐津にとって、恋愛はずっと軽やかに楽しむものだった。 女と食事に行き、話が合えば付き合い、合わなければ自然に終わる。 深追いもしなければ、長くこだわることもなかった。 身体だけで終わろうが、一緒の部屋で暮らそうが、相手に向ける感情にそう大きな違いはなかったように思う。 けれど漆原といると、自然と呼吸が乱れる。 言葉が少しだけ慎重になり、笑われると胸の奥がじんと響く。 弁当を開いたものの、箸はほとんど動かなかった。 テレビをつけても、内容は頭に入ってこない。 漆原が焼いてくれたパンの匂いのほうが、まだ鼻の奥に残っている気がした。 ビールを飲み干すと、喉の奥に冷たさが残る。 唐津はキッチンに立ち、空き缶を軽くすすぐ。その動作の途中で、漆原の顔が追いかけてくる。 来週、誘ってみるか。 飲みに行くか、軽く飯でも。 あいつ、週末空いてるんだろうか。 いや、急に誘ったら迷惑かもしれない。 でも、誘わなかったらそれはそれで気になる。 「……どうしたんだよ、俺」 苦笑しながら独り言を漏らす。 こんなふうに気持ちが行ったり来たりするのは、いつ以来だろう。 面倒でもないし、重くもない。 むしろ、自分でも信じられないくらい軽い。 心の奥だけがぱっと明るくなっているみたいだ。 冷蔵庫から取り出した買い置きのビールを手に取ってソファに戻ると、また漆原の姿が浮かぶ。 少し焼きすぎたパンを皿にそっと置いたときの、気まずそうな顔。 「服、買っておきます」と真剣に言った、妙に真面目な声音。 タオルやマグカップを揃えようとしていた、ぎこちない優しさ。 ああいうところが、どうしても可愛い。 完璧な仕事ぶりの裏に、危ういほど不器用な一面が隠れていたなんて、唐津には完全な不意打ちだった。 (あいつ、本当に俺のこと好きなんだろうな) そう思うと、胸の奥がじわりと熱くなる。 寝るにはまだ早い時間だが、街はもう夜の気配を纏っていた。 自分の部屋から見える外の灯りは、いつもと同じ。 けれど今夜だけ、そこにどこか違う意味が混ざって見えた。 漆原の部屋の灯りが見えるはずもない。 距離は離れているし、方向もまるで違う。 それでも、どこかで同じように今日のことを思い出しているのかもしれない――そんな想像をしてしまう自分が、少し可笑しかった。 「……久しぶりだな、こういうの」 期待と照れが同時に胸の内に広がって、落ち着かない。 恋愛なら、それなりに経験してきた。 だがこんなふうに、“また会いたい”と思って落ち着かなくなるのは、何年ぶりだろうか。 しかも相手は、昔から知っている相手で、普段は冷たくて、仕事には容赦のない男だ。 その冷静な男が、今は自分にだけ無防備になって、子犬みたいに懐いてくる。 (そりゃ、揺れるだろ) 食べかけの弁当を片づけ、シャワーを浴びることにした。 湯に当たっていると、昨夜の漆原の指先の熱が、不意に肌の上に蘇る。 始まりのぎこちない触れ方。 次第に大胆に、強く求める手のひらのあたたかさ。 一つ一つが胸の奥を揺らし、戸惑いながらも気持ちが緩んだ。 シャワーを浴び終え、タオルで髪を拭きながら、また同じことを考えている。 (やっぱり、飲みに誘ってみるか) その想いが、今夜の自分を妙に穏やかにしていた。 急ぐ必要も、無理に距離を詰める必要もない。 漆原のあの不器用な歩幅に、こちらが自然と合わせればいい。 それで十分だ。 照明を落とし、寝室へ向かう。 枕元に置いたスマホを開きかけて、指が止まった。 連絡するつもりはない。 今はただ、この余韻を静かに抱きしめておきたい。 ベッドに横になり、天井を見つめる。 カーテンの隙間から漏れる明かりが、淡い影を作っていた。 その影の中で、唐津はゆっくりと目を閉じた。 胸の奥にはまだ漆原の気配が残っている。 ほんの少し熱を帯びたまま、静かに明滅を続けている。 それが、悪くなかった。

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