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第55話 静かな余熱
唐津が帰ってしまうと、部屋の空気が静かに沈んだ。
扉の閉まる音もほとんど響かず、厚い壁の向こうに気配は消えていく。
まるで湖面に落ちた小石の波紋が、音もなく消えていくようだった。
この部屋は普段、静けさが心地いい。
夜でも車の音が遠く、光も柔らかい。
けれど今は、その静けさが少しだけ胸に沁みた。
空気は変わらないのに、さっきまであった体温の余韻が、家具の隙間に残っている気がする。
ソファの背に掛かったシャツの皺、
グラスの底に残る水の跡、
キッチンの端に置かれたトースターの銀色。
それらが不思議なほどに、唐津の存在を思い出させた。
あの人がここにいた。
その事実だけで、部屋の形が少し変わって見える。
もっと一緒にいたかった。
そう思った瞬間、自分の中にふわりと浮かんだ幸福と、言葉にならない寂しさの両方を知る。
仕事なら要点を瞬時にまとめ、交渉も迷わずに進められるのに、
唐津のこととなると途端に呼吸が合わなくなる。
相手の一言に胸が波立ち、沈黙の長さに心が揺れる。
こんなにも不器用になるものかと、自分に苦笑した。
キッチンでグラスを洗い、カウンターを拭く。
整った空間の中に、ふと「足りない」という感覚が滲む。
マグカップは不揃いで、皿は数枚しかない。
タオルも自分の分だけで、客用のスリッパなんて考えたこともなかった。
生活に、誰かを迎える準備などしたことがないのだと気づく。
椅子に腰を下ろし、ノートPCを開いた。
通販サイトの白い画面の上で、器や布が整然と並んでいる。
スクロールする指先が、まるで心の中の空白を埋めるように動いていた。
皿、マグカップ、タオル。
色は白を基調にして、ところどころに深い色を置く。
唐津には黒が似合うけれど、すべてを黒で揃えると冷たくなりすぎる。
薄い藍やグレーを混ぜると、光の陰影が穏やかに映える気がした。
プレートを二枚、ボウルを二つ。
タオルは手触りのいいものを数枚。
スリッパを一組。
マグカップは、手に取った時に少し重みのあるものがいい。
軽すぎると、朝の空気に落ち着かない。
カートに入れるたび、胸の奥が静かに温まる。
買い物というより、生活を少しずつ“二人用”にしていく作業のようだった。
そして、その行為自体が少し怖い。
無意識のうちに、次の時間を当然のように思い描いている自分がいたから。
コーヒーメーカーも探した。
カプセル式で、スイッチひとつで動作するのが便利だ。
朝の光の中で、あの人が何気なくそれを使う姿が、想像してしまってにやける。
そうやって、未来を作るようにひとつひとつ選んでいく。
注文を確定すると、画面に配送予定日が表示された。
来週の土曜。
思っていたよりも早い。
その頃、また唐津に会えるだろうか。
ふとそんなことを考えて、自分でも笑ってしまった。
スマホを手に取り、LINEを開く。
トークの一番上に、唐津の名前がある。
「今日はありがとうございました」
打って、消す。
「パン、美味しかったですか」
打って、消す。
「また来てください」
──打って、消す。
送信のボタンが、思っている以上に遠い。
仕事のメールなら迷わず送れるのに、たった一言が打てない。
こんなにも臆病になるとは思わなかった。
画面を閉じて、深く息を吐いた。
リビングの照明を落とすと、間接光が壁を柔らかく照らす。
天井の白が少しずつ琥珀色に溶けていく。
次はいつ来るだろう。
本社勤務の部長職同士、平日の予定はお互い見えない。
週末のどこか、もし誘えたなら。
けれど、「会いたい」と言葉にするのは勇気が要る。
デートという言葉を口に出すだけで、何かを壊しそうで怖かった。
(唐津さんの私服ってどんな感じだろう……)
ジャケットに白いTシャツ。
腕時計をきちんと着けて、歩く姿は休日もきっと無駄がない。
その隣を歩く自分を想像して、思わず目を逸らした。
甘い気持ちは苦手だ。
けれど、逃げられない。
目を閉じると、昨夜の感触が静かに蘇る。
浅く触れて、離れて、また触れる。
呼吸を分け合うようなキス。
手のひらに伝わる熱。
声を出すと壊れそうで、ただ互いの息の音を聞いていた。
ほんとうに、付き合っているのだと思う。
信じるように、呟くように。
そして、ふいに笑みがこぼれた。
だって、二回もちゃんと──そこで思考が止まり、頬が熱くなる。
数えるな、と自分に言い聞かせる。
けれど、数えるたびに確信が増していく。
この距離を知ってしまった。
焦るな。
唐津のペースで。
唐津のタイミングで。
そう思うのに、心の奥ではもう「もっと」を覚えてしまっている。
もっと知りたい。
もっと触れたい。
もっと、あの人の「悪くない」を別の言葉で聞きたい。
PCの画面がスリープに変わり、黒いモニターに自分の顔が映る。
少し浮かれて、少し照れて、仕事中の自分とは別人の、恋をしている顔だった。
深呼吸して、目を閉じる。
静寂が戻る。
来週には、新しいものたちが届く。
そのひとつひとつが、唐津と過ごす朝につながっていくはずだと思うと、胸の奥がくすぐったい。
次の朝は、もう少し上手にパンを焼こう。
新しいマグに、ブラックの香りを満たして。
唐津はどのフレーバーを気に入るだろう。
そう思いながら、漆原はゆっくりと目を閉じた。
琥珀色の光の中で、
夜は静かに、穏やかに深まっていった。
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