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第54話 パンの焼ける音

カーテンの隙間から射す、やわらかな朝の光。 白いシーツの上で、その光がゆっくりと輪郭を描いていく。 目を開けた漆原は、すぐ隣にある体温を確かめた。 唐津が穏やかな寝息を立てている。横顔には影が柔らかく落ち、喉の奥で小さく息を鳴らす。眠っているのに、安心しているのがわかる顔だった。 その姿を見ていると、胸の奥がじんわりと熱くなった。 舞い上がるような幸福が、静かに体の中をめぐる。まるで夢の続きの中にいるようで、現実感が少し遅れてやってくる。 仕事のときには絶対に見せない表情。 強気な言葉も、冗談めかした軽口も、すべて遠くに置いてきたような穏やかさ。 そんな唐津の寝顔を見ていると、昨夜のことが頭をよぎる。あれは確かに現実で、自分の中で何かが変わった夜だった。 シーツの上には昨夜脱ぎ捨てたシャツが絡み合い、テーブルの上には空の缶とグラス。 散らかったままの光景が、なぜか愛おしい。 触れた熱も、声も、そこにあった証のように残っていて、それがたまらなく照れくさくて、嬉しかった。 (パン、焼きますね) 昨夜、唐津の胸に顔を埋めながら、自分がそう言ったのを思い出す。 酔っていたはずなのに、あの一言だけははっきり覚えている。約束を守りたくて、胸の奥があたたかくなった。 静かにベッドを抜け出す。 キッチンに立つと、スーパーで買った食パンが目に入った。届いたばかりのトースターは、もうキッチンの端に収まっている。銀色のボディが朝の光を受けて、まだ新品らしい輝きを放っていた。 (ブラックだよな) そう思いながら、棚からインスタントの瓶を取り出す。豆を挽くほどの余裕も器用さもないが、それでも唐津が飲みそうな味を選んだつもりだ。 湯を沸かし、カップに粉を落とす。 ふと振り返ると、寝室のドアが開く音。 唐津が現れた。 スーツのパンツに白いシャツのまま、髪が少し乱れている。 寝起きの低い声で、「……いい匂いだな」と呟いた。 「おはようございます」 「おう。……パン、焼いてるのか」 「はい」 唐津は少しおかしそうに笑う。 笑みの中に、からかいでも照れでもなく、どこかくすぐったいような優しさがあった。 「……新しいトースターなんです」 「知ってる」 短い言葉なのに、声が柔らかく響いた。 ほんのそれだけで、朝が少し明るくなった気がした。 パンが焼けるまでの間、二人は小さなテーブルを挟んで向かい合った。 漆原はマグカップに湯を注ぐ。 黒い液面から湯気が立ちのぼり、唐津は一口飲んで「熱っ」と笑ってから袖をまくった。 その動作が妙に自然で、視線が離せなかった。 腕から手首にかけて見える筋肉のライン。 昨夜、指でなぞった感触が一瞬で蘇り、思わず目をそらす。 「こういう朝、久しぶりだ」 唐津がぽつりとつぶやいた。 漆原は返事を見つけられず、代わりにパンの皿を差し出す。 唐津はカップを受け取り、「ありがとう」と言う。 その小さな声が、胸の奥に深く沈んだ。 トースターが鳴り、焼き上がったパンを唐津の皿に載せる。 バターがゆっくりと溶けていき、甘い香りが部屋いっぱいに広がった。 唐津は一口かじり、軽く目を細めた。 「なんか変な感じだな」 「……変ですか」 「でも、悪くない」 そう言って笑う。 その笑顔が、パンよりもあたたかかった。 パンの優しい匂いとコーヒーの香りに包まれながら、漆原は息を吸うように胸の内の熱を飲み込む。 唐津はスーツのパンツにシャツという、昨日のままの格好だった。 ネクタイもジャケットもソファの上に置いたまま。 その姿が少し無防備で、どうしても目が離せなかった。 「……服、買っておきます」 「ん?」 「泊まることもあるかと思って」 自分で言いながら、顔が熱くなる。 唐津はパンを飲み込みながら、少しだけ目を丸くした。 「いいよ。今度持ってくる」 軽く言って笑う声が、朝の光よりも柔らかく響いた。 漆原はふと、洗面所の景色を思い出す。 鏡の前に並んだ二本の歯ブラシ。昨夜、コンビニで慌てて買ったものだ。 唐津の青い柄のブラシと、自分の白いブラシ。 (マグカップも、新しいのを買ったほうがいいな。コーヒーメーカーも……。タオルも、皿も……) 頭の中に次々と、生活の絵が浮かんでくる。 見慣れた部屋が、少しずつ“二人の場所”に変わっていくような気がした。 「何考えてんだ?」 聞かれて、慌てて顔を上げた。 「いえ……別に」 「ほんとか?」 「……はい」 言葉が追いつかず、また視線を落とす。 唐津はおかしそうに笑い、「おまえって、ほんと顔に出るよな」と言った。 どう答えていいかわからず、唇がかすかに動くだけ。 けれど、唐津はそれ以上何も言わず、テーブルに頬杖をついて笑った。 「コーヒー、もう一杯飲みますか」 「ああ、サンキュ」 唐津が答え、カップを差し出す。 ふたりの指先が軽く触れ、そのまま吐息がこぼれた。 何気ないやりとりなのに、心の奥が静かに満たされていく。 食卓の上には、パンの香りとコーヒーの湯気。 窓の外では、土曜の光が街を照らしている。 出勤のない朝。 会社では見せられない穏やかな顔が、そこにあった。 唐津がコーヒーを口に運び、「こういうの、落ち着くな」と呟いた。 漆原はうつむきながら、同じように一口飲む。 舌に残る苦みが、不思議と甘く感じた。 窓から差し込む光の中で、唐津の指先が漆原の手にそっと触れる。 ほんの一瞬。それだけで、胸の奥の世界が静かに満たされていく。 トースターの中で、再びパンが焼ける音がした。 その音が、ふたりの新しい朝を告げているように思えた。 パンが焼ける音。コーヒーの香り。 それだけで、恋をしていることを思い出す朝だった。

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