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第53話 パンを焼く前に

タクシーを降りると、歩道の向こうにコンビニの灯りが白く浮かんでいた。金曜の深夜に差しかかる時間。街路樹の葉は風にほとんど揺れず、空気は一日の熱を薄く残している。自動ドアが開くと冷気が押し寄せ、店内の蛍光灯の明るさが目に沁みた。 唐津は真っ直ぐ酒の棚へ向かい、手前の段から缶ビールを二本取ってかごに落とした。迷いのない仕草だった。振り返って、棚の前で固まっている漆原を顎で促す。 「おまえはどうする? ハイボール? 甘いのがいいか?」 声は低く穏やかで、いつもの職場の抑揚よりも少し柔らかい。漆原は、列を埋め尽くす色とりどりの缶の中から、レモンの絵が描かれたサワーをひとつ取り上げ、ためらいがちにかごへ置いた。金属の底がプラスチックに当たり、控えめな音がした。 ――デートみたいだ。いや、デートだ。 思った瞬間、耳の裏が熱くなる。ビールのラベル越しに目が合いそうになり、慌てて視線を外した。 会計を済ませ外へ出ると、夜はさらに静かになっていた。マンションまでの道のりは短い。信号待ちの時間でさえ、どんな会話を挟めばよいのか分からなくなる。沈黙に耐えられないわけではない。ただ、沈黙の意味が今夜はいつもと違いすぎた。 部屋に着いたのは、時計の短針が十二に触れる少し手前だった。玄関の灯りが点く。靴を揃えながら「どうぞ」と小さく言う自分の声が、妙に上ずっているのが分かった。唐津は「おじゃまします」と当たり前の調子で応え、リビングのソファに腰を下ろす。背もたれに寄りかかる角度が、仕事のあとに見せたことのない、力の抜けたもので、それだけで胸が詰まる。 グラスを二つ出し、冷えた缶のプルタブを引く。細い泡が上がる音がやけに鮮明だ。並んでソファに座ると、ふたりの間には腕一本分ほどの空間が残る。テレビは点けていない。窓の外から、遅い車が一台通り過ぎる低い音だけが、間をつないだ。 「来週の会議の資料、修正したほうがいいところはありますか」 いつもどおりの声で口火を切る。話題は安全圏。呼吸が整うのを待つための会話だ、と自分で分かっているのに、唐津はそれを責めるような顔はしない。 「冒頭の比較表はそのままでいい。流れは掴める。後半の事例は、もう一歩踏み込めるだろ」 「踏み込む、というのは」 「勝ち筋の言語化だ。数字で締める前に、全員の頭の中で同じ絵が浮かぶようにする」 言いながら、唐津はビールを一口、長く喉に流し込む。喉仏が上下する動きに視線が吸い寄せられてしまい、慌てて自分のグラスに唇をつけた。酸味のある甘さが舌に広がる。左手のグラスから冷えが指先へ伝わり、そこだけ現実に引き戻される。 会話は自然に続いた。資料の構成、部の数字、来期の見通し。いつもなら、話しているうちに心拍は落ち着いていくはずだ。 だが、今日だけは違う。言葉を積み上げるたび、どこか別の場所で「今夜」という言葉が膨らんでいく。肘がソファの布に触れるたび、その摩擦が皮膚に残り、隣から伝わる体温の気配が、形を持たない期待をゆっくり煽る。 缶が空に近づいたころ、唐津が横目でこちらを見た。 「顔、赤いぞ」 「……そうですか」 言いながら自分でも、声が少し上ずっているのが分かった。軽く息を吸いなおし、当たり障りのない提案の言葉を探す。 「もう一杯、飲みますか」 立ち上がろうとしたとき、手首をつかまれた。驚くほど優しい力だった。止めるのに、十分な強さで。それ以上のことは、何も強いらないような、手の温度。 「強くないだろ。飲み過ぎだ」 低い声が、真正面から来た。叱るわけでもなく、甘やかすでもない。その中間。ちょうどいいところ。なぜか、胸の奥のどこかがそれを待っていたような気がして、喉が詰まる。 キスしたい――そう思った。 営業の場なら、相手の欲を読み取って、一気に攻め込んで奪い取るのが漆原のやり方だ。退路を断つ攻めの一手で、契約をもぎ取ってきた。だが、今この瞬間に欲しいのは勝ち負けでも成果でもない。 ただ、この人を確かめたい。 本当に好きだということを、触れて伝えたい。大事にしたい気持ちが胸の奥から溢れて止まらなかった。 手首はまだつかまれている。唐津の指が、軽く離れた。解放の合図のようにも、続けていいという印のようにも受け取れる曖昧さ。呼吸が浅くなるのを自覚しながら、動けずにいると、唐津がゆっくりと身を寄せた。 「こっち」 そう言って、ひとつ分だけ距離を詰める。その動きで、空いていた腕一本の隙間が半分になる。どちらからともなく視線が交わり、数秒が永遠みたいに伸びた。 唐津の手が伸びてきて、前髪をそっと撫でた。指の腹が額に触れ、漆原の長めの前髪をかきあげる。視界が明るくなる。覗き込まれていると分かっているのに、まっすぐに見返す勇気はまだ出ない。伏せた視線の奥で、どうしても抑えられない熱がにじむ。 「……不器用だな」 笑っているのに、やさしい声音だった。見透かされるのは怖い。けれど、見ていてほしいと思ってしまう。 「唐津さん」 名前を呼ぶ。呼んだだけで、胸の中の何かがほどけていく。唐津の目が、少しだけ丸くなった気がした。数拍の沈黙。唇が乾く。喉が鳴る。 「キスしていいですか」 自分でも驚くほど、正直な言い方だった。唐津は、答えるのに一瞬も迷わなかった。 「いいよ」 短い二音に、余計な色のない肯定が宿る。力は抜けているのに、確かな芯がある声。許可ではなく、受け入れの合図。 唇が触れた瞬間、世界の音が遠のいた。最初は浅く、確かめるように。触れて、離れて、もう一度。緊張で固くなっていた肩の力が、少しずつ抜けていく。唐津の手が頬に添えられ、角度が少し傾く。息が混ざる。深くなる。強くはないのに、遠くまで届くキスだった。時間をかけることが、こんなにも熱を生むのだと、初めて知る。 唇が離れたあとも、額が触れる距離のまま動かない。視線を交わすと、唐津は目尻だけで笑った。そこには、はっきりとした感情があった。昼の会議室では見せない種類のやわらかさ。こちらへ向けられているとしか思えない、あたたかい確信。 「ベッド、行くか」 促されて寝室へ向かう。橙色のランプがやわらかく灯り、ベッドの上に影が二つ落ちる。唐津が腰を下ろした瞬間、漆原はためらわずその肩を押し、シーツへと背を預けさせた。驚いたように目を見開く顔に、迷いを断ち切るように唇を重ねる。 「……ッ、漆原」 掠れた声が喉の奥で震える。抗う気配はなく、むしろその反応が漆原の熱を煽った。唇を深く押し当て、舌を差し入れると、唐津の呼吸が不規則に乱れていく。指先で胸元のボタンを外し、布の隙間から肌に触れると、掌にじかに伝わる温もりに、唐津の身体が小さく震えた。 「触れてもいいですか」 問いかけながらも返事を待たず、指の腹を鎖骨から胸へと滑らせる。唐津の喉が震え、短い声が洩れた。その声を確かめるように、唇を首筋へ移し、吸い付くと、唐津はたまらずシーツを掴んだ。 胸をなぞる手はやがて腹へ下り、さらに下肢へと伸びていく。太腿の内側を撫でると、唐津の腰がかすかに揺れ、抑えきれない声が喉から漏れた。 「……声、隠さないでください」 耳元で囁き、手の動きを早めると、唐津の背が弓なりに反り、押し殺した声が洩れる。漆原はその表情を逃さず見つめ、さらに指を強めに動かした。 呼吸を奪うほどのキスを重ねながら、舌を絡め、荒い息を吸い取る。唐津はシーツを握り締め、顔を歪めて耐えようとしたが、やがて切羽詰まった声を上げた。 「漆原……もう……」 「はい、気持ちよくなってください」 囁きと同時に強く指を動かすと、唐津の身体が大きく震え、声を押し殺しながら果てた。胸にすがるように身を委ねてきたその重みを抱きしめ、熱を確かめるように唇を重ねる。 大きく息を吐きながら漆原の胸に身を沈めた唐津は、それでも意志を残したように手を伸ばし、力の抜けた指先で漆原を探り当てた。 「……唐津さん……」 潤んだ声が漏れる。唐津の指は緩慢でも、確かに漆原を愛撫していた。 掠れた息遣いと重なって、その動きは逆に強烈に響き、あっけなく臨界へと追い込まれる。 「……もうっ、だめです」 押し殺した声とともに漆原の身体が大きく震え、果てた。 唐津にしがみついたまま、熱の余韻に呑まれる。 二人は言葉を交わさず、額を寄せ、髪を撫で合い、汗を拭い合った。 恥ずかしさを紛らわせるように短いキスを繰り返し、やがて深く重ねた唇に静かな確信が宿る。互いの鼓動を感じながら、時間は穏やかに流れていった。 やがて、漆原は唐津の胸に顔を埋めたまま、ふと小さな声で言った。 「……パン、焼きますね」 唐津は目を細め、声を立てずに笑った。 「わかったよ」 その満足そうな表情を見つめながら、漆原の胸に静かな熱が残った。 橙の灯りの下、互いの鼓動を確かめ合いながら、夜は長い余韻を湛えて静かに深まっていった。

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