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第52話 金曜日の帰り道
唐津はディスプレイを閉じ、深く椅子の背にもたれた。時刻は九時を過ぎている。金曜の夜ともなれば、大半の社員はすでに退社していた。廊下の照明は半分落ち、フロアには空調の低い音ばかりが響いている。
視線を横に移すと、L字の向こう――営業第一部の島に、まだ灯りが残っていた。漆原のデスクだ。背筋は真っすぐだが、マウスもキーボードも動いていない。冷徹なエースらしい背中のはずなのに、唐津の目には「帰りたいのに帰れない」と逡巡しているように見えた。
唐津は立ち上がり、ジャケットを肩にかけた。歩み寄って声をかけると、漆原がわずかに振り返る。
「……まだ残ってたんですか」
「おまえもな」
いつもの調子で返しながら、唐津は笑みを隠した。帰り支度を済ませてから二十分は動けずにいることを知っているからだ。
「金曜だろ。前に行った焼き鳥屋、行くか」
自然に口をついて出した言葉に、漆原はほんの少し目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「……はい」
返事の短さと耳の赤みに、唐津は内心で笑った。昼の冷徹な顔を知っているだけに、夜のこういう表情はなおさら可笑しかった。
駅前の焼き鳥屋は、相変わらず炭火の煙で満ちていた。奥のカウンターに並び、ビールを頼む。届いたジョッキを漆原はほとんど一息に半分ほど飲み干した。普段の冷静な口調からは想像できない速さだった。
唐津はその横顔を眺め、わざと何も言わず串をつまんだ。漆原が視線を感じているのが分かる。やがて耐えかねたように口を開いた。
「……唐津さん、そんなに見られると食べづらいんですが」
「悪い。珍しかったからな」
「何がですか」
「おまえが緊張してるの」
漆原は一瞬固まり、視線を落とした。耳まで赤く染まっていくのがはっきり分かる。普段は数字で相手を黙らせる冷徹な部長が、目の前では動揺を隠せない。そのギャップが、唐津には可笑しくてならなかった。
「……別に、緊張なんて」
「そうか?」
唐津はジョッキを傾け、炭火の香りのする串をひと口かじった。そこでわざと仕事の話を切り出す。
「来週の営業会議、進行はおまえに任せる。俺は補足だけでいい」
唐突に振られて、漆原は瞬きをしたが、すぐに表情を引き締めた。
「数字は揃っています。課題は示し方だけですね。冒頭で比較表を出して流れを掴む。後半は具体的な事例に寄せて臨場感を出すのがいいでしょう」
冷静に、理路整然とした口調。昼の会議室と同じ、営業第一部長の顔だった。
「真面目だな」
唐津は笑みを漏らした。
「……いや、嫌いじゃないけど」
「仕事ですから」
ぶっきらぼうに返す声。けれど耳の赤みは引いていない。唐津は「切り替えが早いな」と思いながら、心の中で「そういうとこがほっとけないんだ」と付け加えた。
緊張が少しずつ解け、声が普段通りの落ち着きを取り戻していく。串を口に運ぶ仕草も自然になり、漆原は「強気の予測を見せるほうが有効なはずです」「部員の数字は底堅いので」などと淡々と語った。そのたび唐津は頷き、相槌を打ちつつも、心の中で「単純だな」と笑っていた。だが、そうやって素直に真剣さを見せる顔が、どうしようもなく気に入っていた。
二杯目を飲み干す頃には、漆原の表情もほぼ普段通りに戻っていた。だが、その整えた冷静さがまた、唐津には可愛く見える。串を口に運びながら、横目でちらりとその顔を見て、わざと笑みを漏らした。
「……唐津さん、ほんと、性格悪いですよ」
ぼそりと零した声。
「今さら気づいたか」
小さく返すと、漆原は言葉を失って黙り込んだ。ジョッキを持つ手に力が入り、グラスが小さく鳴った。
「顔に出てるぞ」
「……出てません」
「出てる」
意地悪く重ねると、漆原は唇をきゅっと結び、言葉を飲み込んだ。唐津は「このあとどうするか」とはあえて触れず、ただ緊張を測るように視線を送り続けた。期待を煽っていることを自覚したまま、黙っていた。
店を出たのは、二十三時が近かった。夜風が火照った頬に心地よい。駅前のざわめきのなか、二人のあいだに妙な静けさが落ちる。
唐津は歩調を合わせながら、軽く言った。
「電車、まだ間に合うぞ」
漆原は一瞬うつむき、すぐ顔を上げる。
「……帰りません」
その即答に、唐津は目を細めた。
「そうか」
それ以上は言わず、しばし沈黙が続く。街灯の光に照らされながら並んで歩く足音が妙に鮮明に響く。
やがて漆原が、不意に思い出したように口を開いた。
「……トースター、ありますよ。パンも買いました」
急に真面目な顔で言うものだから、唐津は思わず吹き出しそうになった。
「じゃあ、寄ってくか」
穏やかに笑って返すと、漆原がわずかに目を見開く。すぐに視線を逸らしたが、その耳の赤さは街灯に照らされて鮮やかだった。
――ほんと、不器用なやつだ。
昼間は氷のような営業部長として振る舞うのに、夜はこれほど分かりやすい。戸惑いも期待も隠せない。その落差が、どうしようもなく愛おしい。
彼の足音が少し早まる。唐津はその音を聞きながら、胸の奥にひそやかな熱を抱えて歩き続けた。
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