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第51話 「トースター、買いました」

唐津はデスクに腰を下ろすと、背もたれに浅く体を預けた。 まだ朝の空気が少し湿っている。つい数時間前まで漆原の部屋にいたのに、もうここは日常の匂いに満ちていた。 まずペットボトルの水をひと口飲む。冷たさで喉を潤すと、モニターの電源を入れる。眩しい白光が立ち上がり、未読メールがずらりと並んだ。 順に開封し、要点を確認して短く返信する。チャットにも数件通知が来ていた。外回りに出るチームからの進捗、顧客対応の相談、システム関連の小さなトラブル。椅子に深くは座らないまま、キーボードを打ち込み、指示を送る。 部下の名前を打ち込むたび、脳が完全に「部長」としてのモードに切り替わっていく。そうしているうちに、いつも通りの一日が始まったと体が覚えていった。 ――縛れよ。 昨夜の自分の声が、頭の奥でまだ熱を持っていた。 あれは普段なら絶対に言わない言葉だった。笑ってごまかすか、別の話題にすり替える。そうやって感情を避けるのが癖だ。けれど謝る漆原を前にしたとき、どうしても飲み込めなかった。あの瞬間だけは、理屈より感情が勝っていた。 午前の定例会議。営業戦略部のスタッフを前に、新ファンド導入のスケジュールを詰める。運用会社との調整、研修、販売ツール。要素を期限に落とし込む作業は慣れている。だが、ふと集中が切れる。手にしたペン先が同じ行を二度なぞっているのに気づき、軽く首を振った。 顔に出さなければ誰にもわからない。それでも、自分の中に揺らぎがあることだけは誤魔化せなかった。 昼前、本堂が資料を抱えてやってきた。 「部長、午後の取締役会資料ですが、最終版をご確認いただけますか」 「ああ、わかった」 ファイルを受け取り、数字の桁を確認し、文言の揺れを直す。赤ペンを走らせて返すと、本堂は神妙な顔で頷いた。 「ありがとうございます。すぐ修正します」 「頼む」 短いやり取り。それだけなのに、胸の奥で少しだけ落ち着いた。 当たり前に部下が出入りして、仕事の話を運んでくる。そういう時間がありがたかった。昨夜の余韻を抱えていても、部長としての顔は崩せない。むしろこうした日常のリズムが、自分を再び整えてくれる。そんな安堵を覚えた。 午後は営業第一部との合同会議。 会議室に入ると、漆原が窓際に座っていた。姿勢はいつも通り正しく、資料を広げてペンを走らせている。視線が一瞬合い、すぐ逸れる。その一瞬が妙に長く感じた。 「――こちらで集計を取りまとめています」 漆原の声は硬質で、会議の場にふさわしい響きだった。 唐津も即座に返す。 「そのまま全社展開に回せる形にしてくれ。日程は重ねないように調整する」 「承知しました」 言葉は必要最低限。だが、呼吸は合っている。こちらが言えば、あちらが補足する。無駄がない。仕事の進め方は昔から変わらない。 ――それだけでいいはずなのに。 渡された紙が触れそうで触れない距離に止まった瞬間、胸がざわついた。視線や指先の反応の奥に、昨夜の余韻が宿る。顔には出さない。出すわけにはいかない。だが、体のどこかが熱を思い出していた。 夕方。メールを片づけ、週明けの段取りを整理する。窓の外の色が青から灰に変わり、蛍光灯の白が濃くなる。 噂のことが一度だけ頭をかすめた。けれど、気にしないと決めている。経験上、放っておけばそのうち消える。否定も肯定もせず、仕事で上書きしていけば、やがて人は別の話題に飛びつく。それが会社という場所だ。 定時を過ぎてしばらく、デスクを片づけて廊下に出る。外に出た瞬間、夜風が頬を撫でた。熱気をわずかに残す、夏の匂い。 歩幅を一定に保ちながら駅へ向かう。今日も一日が終わった――そう思った矢先、信号待ちでスマホが震えた。 画面に浮かんだ名前に、思わず足を止める。 「トースター、ネットで注文しました」 ……なんだそれ。 声に出しそうになって、慌てて喉を閉じた。報告するようなことじゃない。だが、わざわざ伝えてきた。きっと今朝のことを気にしていたのだろう。あの不器用さが、妙に胸に残った。 胸の奥で、不意に笑いがこぼれそうになった。 律儀すぎて、不器用で。そんなことまで言ってくるのかと考えた瞬間、かわいい――と素直に感じている自分に驚いた。 正しいとか間違っているとかじゃない。ただ、そうやって動いてくれることが、単純にうれしかった。昨夜の熱を思い出すよりも、今はそのことに安堵している自分がいた。 いや、安堵どころか――。 これが正解かどうかは、わからない。取り返しのつかないことをしたのかもしれない。だが、もう迷ってはいなかった。 漆原が嬉しそうで、それが自分を安心させる。 その単純さを受け入れている自分に、唐津は内心で驚いていた。 「……ほんと、手がかかる」 誰にも聞こえない声で吐き、ポケットにスマホを戻す。 表情は崩せないのに、口元が緩むのをどうしても抑えられなかった。 夜風が少し冷たくなった気がした。

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