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第50話 食パンくらい買っとけよ

夜明け前の街はまだ眠っている。 窓の外は群青の影を残したまま、少しずつ薄明るさを帯び始めていた。 漆原は胸の鼓動に促されるように目を覚ました。 隣には唐津がいる。 シーツに沈んだ横顔。前髪が少し乱れて、長いまつげの下で目を閉じている。 まだ眠りの途中にいるその表情は、いつもの研ぎ澄まされた戦略部長の顔ではなく、拍子抜けするほど無防備だった。けれど――どうしてこんなに格好いいんだろう、と胸が痛いほどに思う。 夢じゃない。そう思うと、ますます鼓動が早まった。 幸せで胸がいっぱいになる一方で、同時に不安も押し寄せる。これは本当にいいのか。彼の気まぐれではないのか。答えの出ない問いが心の中をぐるぐる回り、じっとしていられなくなった。 そっとベッドを抜け出す。 床のフローリングの冷たさに、現実を踏みしめている感覚が走る。 キッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。 中にあるのは、特茶のペットボトルが数本、プロテインバーの箱、そして少しだけ残った牛乳。それだけ。卵もパンもない。朝食らしいものは何ひとつなかった。 「……やばい」 小さく漏らした声が、静かな部屋に響く。 料理は得意ではない。普段はコンビニや外食で事足りていた。けれど今は違う。唐津に出せるものが何もない。焦りが胸を締めつける。 せめてもと、ケトルに水を入れてスイッチを押す。 湯が沸くまでの間に戸棚を探るが、シリアルの残りが少しあるだけ。 どう取り繕っても「まともな朝食」とは呼べない。 そんなとき、背後で気配がした。 振り返ると、唐津が寝室から出てきていた。 前髪を片手でかき上げ、シャツの袖を片方だけ直した姿。 まだ半分眠っているはずなのに、立っているだけで様になってしまう。 その無造作さがかえって格好よく見えて、胸がどきりとする。 「……起きてたのか」 かすれた低い声が耳に届く。まだ寝起きの響きなのに、ぞくりとするほど心地よい。 「はい……コーヒー、いれます」 努めて平静を装うが、インスタントコーヒーの粉をすくった手元は落ち着かず、少しこぼしてしまう。 二人でテーブルについた。 それぞれにコーヒーを注ぎ、向かい合う。 そのとき漆原はふと気づく。 自分の前にあるのは、長年使っていた黒いマグカップ。 唐津の手にあるのは、最近買った真新しいマグ。 並んでいるのに揃っていない。それだけのことが、妙に心をざわつかせた。 「……どうぞ」 掠れた声で差し出すと、唐津は何も言わずに口をつけた。 コーヒーの香りが、わずかに立ち上る。 しばらくは静かな時間が流れた。昨夜の余韻を引きずるような沈黙だった。 やがて唐津がカップを置き、椅子を引いた。 「……帰るわ」 胸の奥がきゅっと痛む。もっと一緒にいたい。けれど、どう引き留めればいいのか分からない。「ゆっくりしていきませんか」と口に出す勇気は出なかった。 「お気をつけて……」 それだけを言うと、唐津は小さく笑い、曖昧に頷いた。 玄関のドアが閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。 漆原はしばらく立ち尽くした。 幸せと不安の波が入れ替わり立ち替わり押し寄せて、胸の奥が忙しい。 本当にこれでいいのか。昨日のことは一度きりではないのか。 答えのない問いばかりが浮かんでは消えた。 時計を見て、慌てて支度を始める。 スーツに着替え、ネクタイを結ぶが、指先が落ち着かず結び目が何度も崩れる。 電車に揺られながらも、頭の中は落ち着かなかった。 スマートフォンを開いてLINEの画面を見る。 「昨日はありがとうございました」と送れば重たいだろうか。 「またお会いしたいです」と打てば、鬱陶しいと思われるだろうか。 文字を打っては消し、消してはまた打つ。その繰り返しだった。 不意に、昨夜の唐津の顔が脳裏に蘇る。 「縛れよ」と告げたときの熱を帯びた視線。 ソファに押し付けられた背中。触れるたびにわずかに震えた肩。 深く交わした口づけの感触。 思い出した途端、胸が熱くなる。電車の窓に映る自分の顔が赤くなっていて、慌てて目を逸らした。 そのとき、スマートフォンが震える。 画面に浮かんだ短い一文。 〈食パンくらい買っとけよ〉 唐津からだった。 一瞬で頬が緩む。笑みを抑えようと唇を噛んでも、どうしてもにやけてしまう。 ——また来てくれるんだ。 その事実だけで、胸の奥があたたかく満たされた。 混雑した車内のざわめきが遠のいていく。窓の外の街並みが、少し鮮やかに見える。 会社に着けば、また仕事に追われる日常が待っている。だがその合間に、きっと思い出してしまうだろう。今朝の短いLINEを。 そして、次に唐津が訪ねてくる光景を。 漆原はスマートフォンをポケットに戻し、電車の揺れに身を預けた。 頬の奥に残る熱は、簡単には引きそうになかった。

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