51 / 59
第50話 食パンくらい買っとけよ
夜明け前の街はまだ眠っている。
窓の外は群青の影を残したまま、少しずつ薄明るさを帯び始めていた。
漆原は胸の鼓動に促されるように目を覚ました。
隣には唐津がいる。
シーツに沈んだ横顔。前髪が少し乱れて、長いまつげの下で目を閉じている。
まだ眠りの途中にいるその表情は、いつもの研ぎ澄まされた戦略部長の顔ではなく、拍子抜けするほど無防備だった。けれど――どうしてこんなに格好いいんだろう、と胸が痛いほどに思う。
夢じゃない。そう思うと、ますます鼓動が早まった。
幸せで胸がいっぱいになる一方で、同時に不安も押し寄せる。これは本当にいいのか。彼の気まぐれではないのか。答えの出ない問いが心の中をぐるぐる回り、じっとしていられなくなった。
そっとベッドを抜け出す。
床のフローリングの冷たさに、現実を踏みしめている感覚が走る。
キッチンに立ち、冷蔵庫を開けた。
中にあるのは、特茶のペットボトルが数本、プロテインバーの箱、そして少しだけ残った牛乳。それだけ。卵もパンもない。朝食らしいものは何ひとつなかった。
「……やばい」
小さく漏らした声が、静かな部屋に響く。
料理は得意ではない。普段はコンビニや外食で事足りていた。けれど今は違う。唐津に出せるものが何もない。焦りが胸を締めつける。
せめてもと、ケトルに水を入れてスイッチを押す。
湯が沸くまでの間に戸棚を探るが、シリアルの残りが少しあるだけ。
どう取り繕っても「まともな朝食」とは呼べない。
そんなとき、背後で気配がした。
振り返ると、唐津が寝室から出てきていた。
前髪を片手でかき上げ、シャツの袖を片方だけ直した姿。
まだ半分眠っているはずなのに、立っているだけで様になってしまう。
その無造作さがかえって格好よく見えて、胸がどきりとする。
「……起きてたのか」
かすれた低い声が耳に届く。まだ寝起きの響きなのに、ぞくりとするほど心地よい。
「はい……コーヒー、いれます」
努めて平静を装うが、インスタントコーヒーの粉をすくった手元は落ち着かず、少しこぼしてしまう。
二人でテーブルについた。
それぞれにコーヒーを注ぎ、向かい合う。
そのとき漆原はふと気づく。
自分の前にあるのは、長年使っていた黒いマグカップ。
唐津の手にあるのは、最近買った真新しいマグ。
並んでいるのに揃っていない。それだけのことが、妙に心をざわつかせた。
「……どうぞ」
掠れた声で差し出すと、唐津は何も言わずに口をつけた。
コーヒーの香りが、わずかに立ち上る。
しばらくは静かな時間が流れた。昨夜の余韻を引きずるような沈黙だった。
やがて唐津がカップを置き、椅子を引いた。
「……帰るわ」
胸の奥がきゅっと痛む。もっと一緒にいたい。けれど、どう引き留めればいいのか分からない。「ゆっくりしていきませんか」と口に出す勇気は出なかった。
「お気をつけて……」
それだけを言うと、唐津は小さく笑い、曖昧に頷いた。
玄関のドアが閉まる音がして、部屋に静けさが戻る。
漆原はしばらく立ち尽くした。
幸せと不安の波が入れ替わり立ち替わり押し寄せて、胸の奥が忙しい。
本当にこれでいいのか。昨日のことは一度きりではないのか。
答えのない問いばかりが浮かんでは消えた。
時計を見て、慌てて支度を始める。
スーツに着替え、ネクタイを結ぶが、指先が落ち着かず結び目が何度も崩れる。
電車に揺られながらも、頭の中は落ち着かなかった。
スマートフォンを開いてLINEの画面を見る。
「昨日はありがとうございました」と送れば重たいだろうか。
「またお会いしたいです」と打てば、鬱陶しいと思われるだろうか。
文字を打っては消し、消してはまた打つ。その繰り返しだった。
不意に、昨夜の唐津の顔が脳裏に蘇る。
「縛れよ」と告げたときの熱を帯びた視線。
ソファに押し付けられた背中。触れるたびにわずかに震えた肩。
深く交わした口づけの感触。
思い出した途端、胸が熱くなる。電車の窓に映る自分の顔が赤くなっていて、慌てて目を逸らした。
そのとき、スマートフォンが震える。
画面に浮かんだ短い一文。
〈食パンくらい買っとけよ〉
唐津からだった。
一瞬で頬が緩む。笑みを抑えようと唇を噛んでも、どうしてもにやけてしまう。
——また来てくれるんだ。
その事実だけで、胸の奥があたたかく満たされた。
混雑した車内のざわめきが遠のいていく。窓の外の街並みが、少し鮮やかに見える。
会社に着けば、また仕事に追われる日常が待っている。だがその合間に、きっと思い出してしまうだろう。今朝の短いLINEを。
そして、次に唐津が訪ねてくる光景を。
漆原はスマートフォンをポケットに戻し、電車の揺れに身を預けた。
頬の奥に残る熱は、簡単には引きそうになかった。
ともだちにシェアしよう!

