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第49話 ここにいる証
「噂のこと、聞いてるかもしれないけど――」
唐津がそう切り出して、いったん言葉を飲んだ。
声はいつになく真剣で、余計なものを削ぎ落とした響きだけが残っていた。
「あいつとは、何もない」
飾り気のない断定だった。誤解を解こうとする必死さでも、言い訳でもない。ただの事実として置かれた響きが、漆原の胸にすとんと落ちた。
「……おまえに避けられるのが、一番きつい」
唐津の視線が、まっすぐに向けられる。
普段なら冗談にすり替えてしまう彼が、正面から感情をさらけ出した。その事実だけで、胸の奥が強く揺れた。
返事ができなかった。喉がからからに乾いて、声が形になってもそこから先に出てこない。視界の端に、テーブルの上の特茶のラベルが白く光る。意味のないところに目を奪われているのは、動揺の証拠だと分かっていながらも、視線はそこから離れなかった。
「……すみません」
ようやく出たのは、癖のような謝罪だった。
唐津は目だけで笑ったように見えた。
「謝ることじゃない」
「でも――」漆原は言いかけ、言葉を変えた。
「唐津さんを、縛りたいわけじゃないです」
本音だった。自由でいてほしい。縛りつけたくはない。けれど、その裏に隠れているのは“他の誰のものにもなってほしくない”という、どうしようもない我儘に近い感情だった。
唐津の目が強く光る。
「……縛れよ」
短く息を吐いて、低い声が落ちた。
「おまえが言ったんだろ。他のやつに渡したくないって。だったら、縛れ」
熱を帯びた声。苛立ちではなく、焦りに近い切迫感だった。
漆原の胸の奥に、ぐらりと波が立つ。呼吸が荒くなり、喉がひりつく。頭で考えるよりも早く、身体が反応していた。
唐津の腕を強く掴み、衝動のまま口づける。
最初は触れるだけのはずだった。それなのに、唇が重なった瞬間、堰が切れたように深くなっていく。舌が絡み、呼吸が奪われ、熱が一気に押し寄せた。
ソファの背に唐津の体が押し付けられる。腕の中でわずかに動く肩、その硬さごと抱き込むようにさらに唇を重ねた。
視界の端がにじみ、世界が唐津だけになる。触れるたびに熱は膨れ上がり、抑えようとすればするほど溢れ出す。
そのとき、唐津の肩が一瞬だけ強張った。
漆原はすぐに気づき、唇を離す。額をそっと寄せて、吐息が触れ合う距離で囁いた。
「唐津さんの嫌なことは、しません」
静かに、しかし真剣に。
唐津は細めた目でしばらく漆原を見て、それからわずかに頷いた。
「……信用する」
短い答え。
けれど、その短さの裏に、確かな意思があった。
二人はゆっくり立ち上がり、絡めた指を解かぬまま寝室へ向かう。
照明を落とすと、白い壁が柔らかく見えた。
ベッドの端に腰を下ろし、肩が触れる距離で並ぶ。
再び口づけを交わす。今度は急がない。
浅く、深く、また浅く。呼吸が重なり、互いの温度がひとつに溶けていく。
布が少しずつずれていった。
襟を開いた肌に指が触れると、唐津の喉がわずかに震える。
シャツの布越しに伝わる熱が、二人のあいだに広がっていく。
漆原の手が唐津の背を撫で、唐津もまた漆原を抱き寄せた。
キスは、吐息を呑み込むほど深くなる。
そのまま漆原が唐津を押し倒し、二人はベッドに横たわった。
「っ……」
触れるたび、唐津の身体がかすかに強張る。
だからこそ、漆原は急がない。一つひとつを細かく切り分けるように、慎重に。
シャツを脱がせても、すぐには下着に触れない。
肩に口づけ、腕をなぞり、手のひらで胸の鼓動を確かめる。
唐津が呼吸を深めるたび、漆原は撫でる手を止め、目で「大丈夫か」と問いかけた。
腰骨をゆっくり辿り、指先で温度を確かめる。
シーツの上で唐津の手が動き、布をぎゅっと掴む。
その仕草に気づいた漆原は、唇を鎖骨に押し当て、呼吸を合わせるように間を取った。
緊張がわずかに緩んだのを確かめ、ようやく下着の上から触れる。
熱を持った部分に手をあてられて、唐津はかすかに腰を浮かせる。
その反応を見て、漆原の胸の奥もじんと熱を帯びた。
「……唐津さん、好きです」
告げる声は震えていたが、手つきは驚くほど迷いがなかった。
「ッ、あ……」
唐津の吐息が、喉の奥からこぼれた。
やがて彼も応えるように漆原へ手を伸ばし、その指先がためらいながらも確かに下肢を辿る。
触れられた瞬間、漆原の身体がわずかに震えた。
互いの熱が掌を通じて伝わっていく。
強弱を探り合い、導き合うように、二人の手は自然と同じリズムを刻んでいった。
唇を重ねながら、呼吸さえ飲み込むほど深い口づけを繰り返す。
吐息と鼓動が混ざり合い、境界がほどけていく。
視界は揺れ、音は曖昧になり、ただ触れ合う感覚だけが研ぎ澄まされる。
指先がわずかに強くなれば、返す手も応えるように動き、声にならない声が喉で震えた。
そのたびに口づけが深くなり、熱がさらに高まっていく。
やがて張り詰めた糸が、ふいにほどけるように切れた。
同じ瞬間に、熱が頂点を超えて溢れ出す。
押し殺すような声と、震える吐息。互いの胸が大きく上下し、腕の中で確かに相手の鼓動を感じていた。
強い熱のあと、余韻の静けさが訪れる。
重なる呼吸と体温だけが確かな現実で、それが何よりの安堵だった。
漆原は額を唐津の肩に預け、唐津は浅く息を吐きながらその背を撫でる。
汗を拭い合い、額を寄せる。唐津の瞼が閉じ、静かな吐息が唇をかすめた。
熱と安堵が溶け合う、不思議な余韻が胸に広がっていく。
「唐津さん……」
小さく呼びかけると、唐津がゆっくり目を開けた。
言葉はなく、どちらからともなく唇が重なる。
確かめるためでも、約束のためでもなく、ただここにいることの証だった。
やがて二人は並んで横たわり、同じ天井を見上げる。
まどろみに沈む直前、漆原は思った。
――夢のようだ。
奇跡のように重なった体温のあたたかさに胸がいっぱいで、不安も迷いも消えていた。
唐津の呼吸に合わせて目を閉じる。
夜は、まだ続いていた。
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