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第48話 動き出す沈黙

漆原の耳にも、噂は届いた。 最初は廊下の角で拾った断片だった。 「会議室で――」「肩、抱かれてたって」「戻るのかな」。昼の食堂では、隣の列から零れた声が勝手に輪郭を持った。「唐津さん、あの人と」「泣いてたって聞いた」「前、付き合ってたんでしょ」。 言葉の粒は小さいのに、胸の内側には場違いなほど大きな波紋を落としていく。 確かめたい――そう思った。事実かどうか、どう思っているのか、知りたい。けれど、その権利が自分にあるのか、喉元でつまずく。 問えば鬱陶しいと思われるかもしれない。仕事と私事を混ぜる面倒なやつだと見られるかもしれない。恐れが、口を閉じさせた。 唐津は、たしかに誰にでも優しい。 声の出し方が柔らかい。相手の緊張をほどく距離で立ち、必要なときに必要なだけ近づく。だからこそ「話しやすい」と評されている。 それでも――自分に向けられる目線だけは、どこか違うと、そう思いたかった。焼鳥屋の帰りに落とした低い声、会議のあとに向けられる視線の角度、沈黙が自然に流れる時間の密度。少しだけ特別なのだと、静かに積み上げてきた自信は、噂の重みで角を削られていった。 昼は食堂を避けた。腹は空く。 プロテインバーとサンドイッチと特茶。自席で画面を見ながら、噛んでいるのはパンなのか不安なのか、分からなくなる。 LINEのアイコンに触れそうになっては、画面を暗くする。打つべき言葉が見つからない。見つからない言葉の重さだけが、手首に乗った。 退社後。 まっすぐ家に帰る気にならず、足は丸の内の書店へ向いた。空調の冷気は外の熱を残した皮膚をゆっくり鎮める。平積みの新刊、背表紙の列。帯の煽りだけ眺めて棚を移る。そのとき、通路の向こうから、見覚えのある輪郭が歩いてきた。 恭介だった。黒いシャツにジャケット、ノータイ。ノーマルなスーツが主流のフロアでは、やはり目を引く。顎の髭は短く整えられている。 視線が合うと、口の端だけが上がった。 「この前ぶりですね」 声は兄に似ている。けれど芯の温度が違う。唐津の声が人の緊張を解く波なら、恭介のそれは相手の反応を試すように表面を指で弾く。 「……どうも」 会釈で返すと、恭介はわずかに顎を上げた。 「兄貴から、何か話あった?」 思わせぶりな言い方だ。問いの先にあるものを、相手に選ばせる調子。 「部長同士ですから、職務上の連携はあります」 自分の声が、いつもより硬い。恭介は「真面目だなあ」と笑い、両手をポケットに入れた。 「この上で一杯だけ、どう? レストラン入ってるでしょ。乾杯して、すぐに解散。兄貴の悪口は言わないから」 「……いえ」 断る言葉が口を出た瞬間、恭介は肩をすくめた。 「そっか。まあ、俺は兄貴のこと、なんでも知ってるけどね。三十七年、双子やってるから」 軽い調子のまま、重い球を投げてくる。 胸の内側に、わずかな揺れが走った。知らなくていいことまで、彼は知っているのだろうか。知っていて、わざと投げるのだろうか。沈黙が息の上に薄い膜を落としたのを、恭介は逃さない。 「一杯だけ。ほんとに一杯。十五分で帰す。どう?」 押しは強いのに、肌ざわりは妙に滑らかだ。 力ずくではなく、気持ちの置き場を先回りして用意してくる感じ――同じ営業として、共感してしまう自分がいる。断りきれず、頷いていた。 同じビルのレストランは、入口からすぐにカウンターが伸びていた。 夜の始まりの時間、客はまばら。二つ空けて腰かける。店員が持ってきた紙メニューを恭介が受け取り、「ビールと、そっちは軽いハイボールで」とさらりと返す。 ほどなくして、ジョッキの縁に細かい泡が張った。 「兄貴の話、最近何か聞いてる?」 恭介はジョッキを持ち上げ、特に乾杯も求めず口をつけた。 軽い切り出し方。けれど真ん中にはすでに核心が置かれている。 「……いえ。仕事の連携が主ですから」 「またそれか。いや、嫌いじゃないけど」 恭介が笑って、少しだけ肩を回す。 「兄貴ってさ、昔から“いい奴”なんだよ。学生のときの飲み会とかさ、気がつくと仕切って、誰も沈まないように場を整える。女の子にも優しい。でも、踏み込まない。踏み込ませない。居心地は抜群にいいのに、核心はふっと避ける。で、気づいたら距離ができてる。悪者にはならない。ならないように上手くやる」 人当たりがいいから、モテる。いつも誰かと新しく関わっているのに、いまいち長続きしない。ハマりきらない。そういう兄の姿を、恭介は面白がって話した。 漆原の中に、否定したい衝動と頷きそうになる衝動が共存して、結局何も言えなかった。 「……俺に、何を求めてるんですか」 自分でも驚くほど低い声が出た。 営業の場で相手の懐に入るための響きではない。相手の狙いを測るための、直線的な目つき。恭介の笑みが薄れ、代わりに興味の色が濃くなる。 「そういう顔、するんだ。いいな」 唐突に軽さを戻しながら、目の奥は試すように光る。 「俺、男でも、あんたなら抱けるかも」 ふざけた言い草。だが、こちらの反応を測っている。グラスの氷が触れ合って、かすかに鳴った。 浮かんだ言葉はいくつもあったが、そのどれも、この場の正解ではない。 「一杯だけ、の約束でしたよね」 グラスを置き、椅子から腰を上げる。半分以上残るハイボールは喉を通る気配がない。 会計は自分の分だけ置いた。恭介が「あ、払わなくていいのに」と手を振った。 「今日は、失礼します」 短く頭を下げる。恭介は肩をすくめた。 「了解。兄貴には、何も言わない」 「ご自由にどうぞ」 「だよね。――兄貴、あんなやつだけど、よろしくね」 それ以上は追ってこなかった。 外に出ると、夜風は相変わらずぬるい。 熱は引かず、感情の波も収まらないまま、歩みだけが自動的に前へ進む。交差点の青が点滅に変わる。走るでもなく、歩幅を変えずに渡り切ったところで、手の中のスマートフォンが震えた。 LINE。 通知に表示された名前に、心拍が一段強く打つ。 「今夜、話したいことがある」 唐津から。短い文面。句読点のない打ち方も、いつも通りだ。指が自然に返信画面へ滑る。 「今、会社ですか」 送信。すぐに既読がつく。 「家まで行く」 瞬間、呼吸が浅くなる。 家まで――外では話しにくい内容、ということか。いい話と悪い話が同時に芽を出す。悪い話は簡単だ。噂のこと、線引き、距離の管理。いい話は、想像した途端、足が止まる。思考が回転数を上げるのを、意識的に落とす。 「何時頃、来られますか」 「三十分。もうフロアを出た」 準備時間としては短い。けれど、考える時間としては十分長い。 部屋に戻ると、靴を脱いで、何もないはずの床に目がいく。テーブルの上のペットボトルを片付け、洗面所で顔を洗う。 鏡越しの自分の目は、思っていたより疲れていた。髪に手を入れ、シャツの皺を払う。部屋の空気を入れ替えようと窓を少し開け、すぐ閉じる。外の音が、今日はやけに大きい。 ソファの背に手をついて、深く息を吐く。 言葉を用意しようとすると、言葉が逃げる。用意しないで待とうとすると、不安が寄ってくる。手がLINEの画面に戻りかけ、やめる。 冷蔵庫を開けて、特茶のペットボトルを二本出してテーブルに置いた。 インターホンの電子音が鳴る。 指先の温度が少し上がる。玄関のモニターに映る顔は、見慣れた顔だった。ピンと伸びた背筋、視線の高さ、ドア前でも崩れない立ち方。姿ではなく言葉を受け入れるのだと分かっていても、姿が先に胸に落ちてくる。 鍵を回し、ドアを開ける。 「お疲れさま、急に悪いな」 唐津の声は、いつもよりわずかに低い。照明に切り取られた目元の影が濃い。 「どうぞ」 靴を脱ぐ音がひとつ、玄関に増える。リビングへ案内し、テーブルの端に置いていた特茶を唐津の前に差し出した。 「サンキュ」 唐津はボトルを手に取り、開けずに両手で包むように持った。 沈黙が落ちる。以前のように心地よいだけの沈黙ではない。けれど、冷たいわけでもない。 何かが動く前の、止まった空気の温度。 「……話、って」 自分の声が思ったより落ち着いていたことに、わずかに驚く。唐津は一度だけ視線を落とし、真っすぐこちらを見た。 「噂のこと、聞いてるかもしれないけど――」 そこで言葉を切った。 喉が小さく動く。指先が、ボトルのキャップを一度だけ撫でる。言葉を選ぶときの癖だ。 続きを待つ。 身構えるのではなく、受け取る準備だけを少しずつ積む。 良いほうにも、悪いほうにも、どちらにも振れる可能性をそのまま置いておく。 これまで曖昧のなかでやり過ごしてきた距離が、今夜、半歩でも前へ動くのなら。たとえ痛むほうだとしても、立ち尽くすよりは、きっといい。 窓の隙間から入った夜の匂いがわずかに残っていた。 秒針の音は聞こえないのに、時間がきっちり進む気配だけが確かだ。 唐津が、その気配に合わせるように、息を小さく吸う。 言葉は、これからだった。

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