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第47話 本当に欲しいもの

唐津は、会議室の隅に立つ沙耶の背を黙って見ていた。 高層階の静かな部屋。外の景色は硝子窓に映るだけで、余計な装飾はない。新商品の提案――名目はそうだったが、沙耶が本題に入るまでには随分と時間がかかった。何度も口を開きかけては閉じ、ようやく言葉が出たのは唐津が椅子に腰を下ろしてから十分以上が経ったころだった。 「……今の部署、ちょっと合ってないのかもって思うんだ」 小さな声だった。取り繕うような強さも、無難な建前もなかった。 「知識と……語学。会議が全部英語だし、ついていくのが大変で。人に聞いても、迷惑そうにされると、つい縮こまってしまって……」 唐津は視線を机の無機質な天板に落とした。 「……そうか」 「転職して、環境が変わるのが怖いっていうのは、覚悟してたつもりだった。でも、こんなに不安になるなんて思わなかった」 沙耶の声はかすかに震えていた。 「頑張ってるのは、見てればわかる」 そう口にして、唐津は胸の奥で苦く笑った。 まただ――相手が欲しがっている言葉を、つい差し出してしまう。 癖のようなものだった。場の空気や相手の表情を読むと、自然に口から出てしまう。 それで何度も人に“勘違い”をさせてきたことも、自分が一番よく知っている。 「……ごめん、変なこと言って」 「いや、変じゃない」 沙耶は小さく首を振ったが、瞳に涙がにじんでいた。唐津はポケットからハンカチを取り出した。 「……使えよ」 「ありがと……」 受け取った沙耶が目元を押さえたそのとき、会議室のドアがわずかに開いた。ほんの一瞬、通りすがりが中をのぞいた気配がした。沙耶が顔を伏せ、唐津が立ち上がって歩み寄った、その瞬間だった。 ――翌日から、妙な噂が流れ始めた。 「見たんだって、唐津さんが沙耶さんを会議室で……」 「寄り戻すんじゃない? なんかそんな雰囲気だったって」 どこから始まったのかもわからない。けれど“誤解”は広がっていた。 昼休み、本堂が唐津に声をかけてきた。 「部長、あの……ちょっと聞いてもいいですか?」 「……なんだ」 「もしかして、宮田さんと……何かあったんですか?」 唐津は短く息を吐いた。 「仕事の相談を受けていただけだ。個人的な関係はない」 「……すみません、変なこと聞いて」 「いい。ただな、本堂。おまえもそのうち職位が上がれば、あることないこと言われるかもしれない。おかしな噂に振り回されると損をするだけだ」 本堂は神妙にうなずいた。唐津は言いながらも、むなしさを覚えていた。否定の言葉が欲しかったのは、本当は自分のほうだった。 その週、唐津は沙耶を来客用の応接室に呼んだ。人目につかない場所だ。 「……この距離感、お互いのためにならないと思う」 唐津が切り出すと、沙耶は逡巡ののち、真っすぐに視線を向けてきた。 「私は……涼介のこと、忘れてない」 職場では“唐津さん”と呼んでいたはずなのに、付き合っていた頃の呼び方で。唐津の胸の奥がざわついた。 「弱ってるときって、やっぱり頼りたくなる。涼介が、いちばんわかってくれる気がするから」 沙耶の声は震えていた。唐津は返事をしなかった。言葉を出せば、余計に絡まっていく気がした。 ――社内の空気は息苦しくなっていた。 誰とも飲みに行く気になれず、唐津は弟・恭介に連絡を入れた。 「飲まねえか」 「めずらしいな、兄貴から誘うなんて」 駅近くの雑居ビルにある居酒屋。気取らないカウンターで、二人はビールを手にした。 「で、何悩んでんの。女のこと?」 唐津は苦笑し、グラスを傾けた。 「……違う」 「ふーん。じゃあ、漆原さんのこと?」 唐津は思わず、手を止めた。 「……何言ってんだ」 「なんとなく。あの人、兄貴のこと好きなんじゃない?」 「……」 「俺は男だからとか偏見ないけど、兄貴はあるんだ?」 「そういうわけじゃない。でも、あいつは……」 「好きな相手なら、それでいいじゃん」 唐津は黙り込んだ。 「俺なら気にしないね。会社でも、仕事仲間でも。万が一好きになったなら、相手が男でも。先のこととか気まずくなるかもとか、考えない。欲しいと思ったら欲しいって言う。諦めない」 恭介はビールをあおり、わざとらしく肩をすくめた。 「じゃ、違うなら、あれか。沙耶ちゃんか。元カノに仕事で会ったって前に言ってたろ?」 唐津は顔をしかめた。 「あるわけないだろ。とっくに終わった相手だ」 「へえ。まあ、兄貴って中途半端に優しいからな。どうせ告白でもされたんだろ。で、断れなくて曖昧にしてんじゃねえの?」 「……違う」 「そう? 顔見りゃわかるんだよ。兄貴って、器用そうで不器用だよな。他人の目とか先のこととかばっかり気にして。結局、自分が何を欲しいのかだけは言わない」 「おまえな……」 「ま、俺が何言っても兄貴は変わんないだろうけどさ。でも、たまにはらしくないことしてみたら、何かわかるかもよ」 軽口めいた恭介の言葉が、妙に胸に残った。 店を出ると、夜の風が熱を奪っていくはずなのに、酔いはちっとも冷めなかった。 ビル街のネオンの下、唐津はポケットに手を突っ込み、足を止めた。 沙耶の言葉より、涙より先に、漆原の顔が浮かび、心がざわつく。 沙耶との噂が広まってもいい。 他の誰にどう思われても構わない。 ――あいつの耳にだけは、入ってほしくない。 それは単なる意地ではない。 取り繕えない感情の正体を、もうごまかすことはできなかった。 唐津は、とうに気づいていた。 嫌だと思ったその瞬間に、自分が何を欲しているのかを。

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