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第46話 隣にいる理由
漆原の様子が、どこか変わった。
ここ数日、そう感じていた。いや、もう少し前からだ。思い当たる節はある。沙耶が会社に出入りするようになってから、何かが静かに変わってしまった気がしていた。
唐津は、自分の席から漆原のいる営業部をぼんやり眺めていた。机に向かう姿勢、書類を繰る手つき、周囲への指示の出し方。どれも変わらず的確で、そつがない。
けれど、昼になると姿が見えない。以前はなんとなく同じタイミングで食堂に現れて、偶然のように席を並べたりもしていたのに、最近は気づくともう戻ってきている。デスクでプロテインバーをかじっている姿を見かけたとき、少し胸がざらついた。
避けられている。そう思った。
だが、自分が何をすればいいのかは、すぐにはわからなかった。沙耶のことを何か説明すべきなのか、それとも漆原に尋ねるべきなのか。自分の中で整理できていなかった。
漆原といると、居心地がいい。それはたしかだ。気を張らずにいられる数少ない相手。けれど、それが“好き”という感情なのか、自分でもはっきりとは言い切れない。女としか付き合ったことがないのに、どう向き合えばいいのか、正直よくわからないというのが本音だった。
時間がたつにつれて、あの夜が本当にあったことなのか、曖昧に思えてくる。夢でも見ていたんじゃないか、そんな気すらしていた。
沙耶のことは――唐津自身、うまく説明できない。
彼女が何かしらの感情を持っていることは、感じていた。よりを戻そうと言われたわけではないが、少しずつ距離を詰めてきている。ランチの誘いも、相談という名目の雑談も、回数が増えている。
けれど、何かをするつもりはなかった。もう終わった関係だ。やり直す気も、深入りする気もない。ただ、自分から突き放すような真似ができないのは、昔からの悪い癖だった。
好かれると、突き放せない。
嫌われたくない。面倒なことを避けたい。そういう調子のよさが、自分を中途半端にしてしまうことは、十分すぎるほどわかっていた。
――このままじゃ、よくない。
そう思って、漆原を食事に誘った。
「今夜、どうだ。軽く飯でも」
業務終了後、エレベーター前で声をかけた。
一瞬、漆原の表情がわずかに強張ったように見えた。だがすぐに、わずかに戸惑いながらも、静かに頷いた。
「……はい。構いません」
ホッとした。断られるんじゃないかと、正直ひやひやしていた。
丸の内のスペインバル。店内はカウンターがメインのこぢんまりした店で、ほどよく賑わっている。
カウンターの一角に並んで腰を下ろす。目の前ではオープンキッチンの中でシェフが手際よくタパスを仕上げていた。
「とりあえず、ビールにするか」
「はい。あ、でも、あんまり強くないのがあれば……」
「ああ、じゃあ、ハーフにするか」
店員に注文を伝えると、ほどなくしてグラスが2つ運ばれてくる。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
グラスが軽く触れ合う音。
仕事の話が自然と口をついた。最近の案件、部署間とのやりとり、部下の育成について。
思ったよりも、会話は滑らかだった。漆原の受け答えはいつも通り落ち着いていて、唐津の言葉にもよく反応してくれる。
「あの資料、うまくまとめてたな」
「ありがとうございます。ちょっと時間かかりましたけど、眞壁がよくやってくれて」
こんなふうに、ただ向き合って話すだけで安心する。
もっと、こういう時間が増えたほうがいい。そう思っていたところに、唐津の背後から聞き覚えのある声が飛んできた。
「お、やっぱ兄貴だ。珍しいな、こんなとこで飲んでるなんて」
振り返ると、そこには恭介がいた。部下らしき若い二人を引き連れて、すでにできあがったような表情で立っている。
「おまえ……」
「なに、部下と食事? 邪魔しちゃったかな」
「部下じゃねえ。こいつは漆原。うちの営業部の部長で、会社のエースだ」
「へえ」
恭介は興味深そうに漆原を見た。
「どうも。商社で営業やってます、恭介です。ええと、双子の……兄貴と顔が一緒のやつです」
漆原が少し驚いたように唐津を見る。
「先日、本屋で……」
「ああ、やっぱり。そうだと思ったんですよ。印象、残ってたんで」
にやけながら言うと、恭介は勝手にカウンターの横に椅子を引いて座った。後ろで、彼の部下が困ったように視線を泳がせている。
「で、漆原さんだっけ。ふうん、 なんかきちっとした人だね」
「やめろ、失礼だろ」
唐津が静かにたしなめる。
「え、褒めてんだけど? 金融のエースって、真面目な感じなんだなって」
恭介はそう言いつつ、空の前にある水のグラスを指で弄びながら、どこか軽い調子を崩さなかった。
その横で、漆原が曖昧な表情のまま、そっとグラスを置いた。
「……少し、席を外します」
「……ああ」
唐津がうなずくと、漆原は静かに立ち上がり、奥の洗面スペースのほうへと向かった。
それを見送っていた恭介が、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「で、兄貴、さっきの人……どういう関係なの?」
「だから、うちの営業部の部長だって言っただろ。一緒に案件やってんだよ」
「へえ。仲よさそうだったね」
「……普通だろ」
「ふうん……前の兄貴なら、ああいうタイプとは話さなかったんじゃないかなと思って」
「……何が言いたい」
「別に。ただ、ちょっと意外だっただけ」
唐津は少しだけ眉を寄せて、短く息を吐いた。
「おまえな……」
「いや、ほんとに。ただの感想」
「……あいつはおまえみたいにチャラチャラしてないんだよ。あんま絡むな」
「チャラくないって。俺だって仕事は真面目にやってるよ?」
「はっ、どうだかな」
唐津がそう言ったとき、ちょうど漆原が席に戻ってきた。
「お待たせしました」
そのタイミングで、後ろに控えていた恭介の部下が声をかける。
「部長、そろそろ……」
「おっと。放ったらかして悪かったな」
恭介は唐津と漆原を見て、にやっと笑った。
「じゃ、またな。漆原さんも」
「……もう来るな」
「えー、何それ? 寂しいじゃん」
ひらひらと手を振り、恭介は去っていった。
「悪いな、あいつ。ほんと鬱陶しいだろ」
「なんだか、強烈な人ですね」
漆原が小さく笑った。
唐津は、その笑顔にほっとしていた。
「……あいつと俺、一緒にすんなよ」
「しませんよ」
「なら、いいけど」
「だって、唐津さんは――」
「……ん?」
「いえ、なんでもないです」
漆原はそれだけ言って、グラスの縁に視線を落とした。
唐津はその横顔を見つめながら、ビールをひと口飲む。
(言いかけた言葉の続きを、無理に聞き出さなくていい。けど……もう少しだけ、この距離を近づけてもいいのかもしれない)
――また、飲みに誘ってみよう。先のことは、それから考えればいい。
それくらいの間合いで、今はちょうどいい。
唐津はそう思った。
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