47 / 59

第46話 隣にいる理由

漆原の様子が、どこか変わった。 ここ数日、そう感じていた。いや、もう少し前からだ。思い当たる節はある。沙耶が会社に出入りするようになってから、何かが静かに変わってしまった気がしていた。 唐津は、自分の席から漆原のいる営業部をぼんやり眺めていた。机に向かう姿勢、書類を繰る手つき、周囲への指示の出し方。どれも変わらず的確で、そつがない。 けれど、昼になると姿が見えない。以前はなんとなく同じタイミングで食堂に現れて、偶然のように席を並べたりもしていたのに、最近は気づくともう戻ってきている。デスクでプロテインバーをかじっている姿を見かけたとき、少し胸がざらついた。 避けられている。そう思った。 だが、自分が何をすればいいのかは、すぐにはわからなかった。沙耶のことを何か説明すべきなのか、それとも漆原に尋ねるべきなのか。自分の中で整理できていなかった。 漆原といると、居心地がいい。それはたしかだ。気を張らずにいられる数少ない相手。けれど、それが“好き”という感情なのか、自分でもはっきりとは言い切れない。女としか付き合ったことがないのに、どう向き合えばいいのか、正直よくわからないというのが本音だった。 時間がたつにつれて、あの夜が本当にあったことなのか、曖昧に思えてくる。夢でも見ていたんじゃないか、そんな気すらしていた。 沙耶のことは――唐津自身、うまく説明できない。 彼女が何かしらの感情を持っていることは、感じていた。よりを戻そうと言われたわけではないが、少しずつ距離を詰めてきている。ランチの誘いも、相談という名目の雑談も、回数が増えている。 けれど、何かをするつもりはなかった。もう終わった関係だ。やり直す気も、深入りする気もない。ただ、自分から突き放すような真似ができないのは、昔からの悪い癖だった。 好かれると、突き放せない。 嫌われたくない。面倒なことを避けたい。そういう調子のよさが、自分を中途半端にしてしまうことは、十分すぎるほどわかっていた。 ――このままじゃ、よくない。 そう思って、漆原を食事に誘った。 「今夜、どうだ。軽く飯でも」 業務終了後、エレベーター前で声をかけた。 一瞬、漆原の表情がわずかに強張ったように見えた。だがすぐに、わずかに戸惑いながらも、静かに頷いた。 「……はい。構いません」 ホッとした。断られるんじゃないかと、正直ひやひやしていた。 丸の内のスペインバル。店内はカウンターがメインのこぢんまりした店で、ほどよく賑わっている。 カウンターの一角に並んで腰を下ろす。目の前ではオープンキッチンの中でシェフが手際よくタパスを仕上げていた。 「とりあえず、ビールにするか」 「はい。あ、でも、あんまり強くないのがあれば……」 「ああ、じゃあ、ハーフにするか」 店員に注文を伝えると、ほどなくしてグラスが2つ運ばれてくる。 「お疲れさま」 「お疲れさまです」 グラスが軽く触れ合う音。 仕事の話が自然と口をついた。最近の案件、部署間とのやりとり、部下の育成について。 思ったよりも、会話は滑らかだった。漆原の受け答えはいつも通り落ち着いていて、唐津の言葉にもよく反応してくれる。 「あの資料、うまくまとめてたな」 「ありがとうございます。ちょっと時間かかりましたけど、眞壁がよくやってくれて」 こんなふうに、ただ向き合って話すだけで安心する。 もっと、こういう時間が増えたほうがいい。そう思っていたところに、唐津の背後から聞き覚えのある声が飛んできた。 「お、やっぱ兄貴だ。珍しいな、こんなとこで飲んでるなんて」 振り返ると、そこには恭介がいた。部下らしき若い二人を引き連れて、すでにできあがったような表情で立っている。 「おまえ……」 「なに、部下と食事? 邪魔しちゃったかな」 「部下じゃねえ。こいつは漆原。うちの営業部の部長で、会社のエースだ」 「へえ」 恭介は興味深そうに漆原を見た。 「どうも。商社で営業やってます、恭介です。ええと、双子の……兄貴と顔が一緒のやつです」 漆原が少し驚いたように唐津を見る。 「先日、本屋で……」 「ああ、やっぱり。そうだと思ったんですよ。印象、残ってたんで」 にやけながら言うと、恭介は勝手にカウンターの横に椅子を引いて座った。後ろで、彼の部下が困ったように視線を泳がせている。 「で、漆原さんだっけ。ふうん、 なんかきちっとした人だね」 「やめろ、失礼だろ」 唐津が静かにたしなめる。 「え、褒めてんだけど? 金融のエースって、真面目な感じなんだなって」 恭介はそう言いつつ、空の前にある水のグラスを指で弄びながら、どこか軽い調子を崩さなかった。 その横で、漆原が曖昧な表情のまま、そっとグラスを置いた。 「……少し、席を外します」 「……ああ」 唐津がうなずくと、漆原は静かに立ち上がり、奥の洗面スペースのほうへと向かった。 それを見送っていた恭介が、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。 「で、兄貴、さっきの人……どういう関係なの?」 「だから、うちの営業部の部長だって言っただろ。一緒に案件やってんだよ」 「へえ。仲よさそうだったね」 「……普通だろ」 「ふうん……前の兄貴なら、ああいうタイプとは話さなかったんじゃないかなと思って」 「……何が言いたい」 「別に。ただ、ちょっと意外だっただけ」 唐津は少しだけ眉を寄せて、短く息を吐いた。 「おまえな……」 「いや、ほんとに。ただの感想」 「……あいつはおまえみたいにチャラチャラしてないんだよ。あんま絡むな」 「チャラくないって。俺だって仕事は真面目にやってるよ?」 「はっ、どうだかな」 唐津がそう言ったとき、ちょうど漆原が席に戻ってきた。 「お待たせしました」 そのタイミングで、後ろに控えていた恭介の部下が声をかける。 「部長、そろそろ……」 「おっと。放ったらかして悪かったな」 恭介は唐津と漆原を見て、にやっと笑った。 「じゃ、またな。漆原さんも」 「……もう来るな」 「えー、何それ? 寂しいじゃん」 ひらひらと手を振り、恭介は去っていった。 「悪いな、あいつ。ほんと鬱陶しいだろ」 「なんだか、強烈な人ですね」 漆原が小さく笑った。 唐津は、その笑顔にほっとしていた。 「……あいつと俺、一緒にすんなよ」 「しませんよ」 「なら、いいけど」 「だって、唐津さんは――」 「……ん?」 「いえ、なんでもないです」 漆原はそれだけ言って、グラスの縁に視線を落とした。 唐津はその横顔を見つめながら、ビールをひと口飲む。 (言いかけた言葉の続きを、無理に聞き出さなくていい。けど……もう少しだけ、この距離を近づけてもいいのかもしれない) ――また、飲みに誘ってみよう。先のことは、それから考えればいい。 それくらいの間合いで、今はちょうどいい。 唐津はそう思った。

ともだちにシェアしよう!