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第45話 似て非なるもの

唐津と沙耶の関係について、結局何も聞けなかった。 あの夜の光景は、漆原の中に棘のように残っていた。けれど、直接確かめる勇気はなかった。もし望まない答えが返ってきたら、きっと自分は耐えられない。その怖さが、口をつぐませていた。 以降、唐津に顔を合わせるのがどこか怖くなった。仕事は滞りなくまわっている。会議も打ち合わせも、指示も連携も、これまでと何ひとつ変わりない。それでも、昼食の時間になると足が食堂に向かなくなった。唐津がそこにいるかもしれない。そう思うだけで、心臓の鼓動が速くなる。 自席に戻ってプロテインバーをかじる。甘すぎる味と紙のような食感に、小さく舌打ちして、水を流し込んだ。 唐津は、ときどき声をかけてくる。「この資料、いつまでに出せる?」「会議の件、共有しといて」――どれも仕事の域を出ない。過不足のないやりとり。曖昧に揺れていた距離は、ほんの少し、遠くなったような気がした。 自分から誘えばいい、と何度も思った。前みたいに、軽い感じで「飯でも行きませんか」と言えばいいだけのこと。けれど、うまく話せる自信がなかった。沈黙が怖かった。思うように言葉が出てこず、気まずくなる未来ばかりが頭をよぎる。 このまま待てばいいのか。あきらめるべきなのか。それとも、もう一度、正面からぶつかるべきか。浮かんでは消える選択肢のなかで、漆原は答えを出せずにいた。 週末、取引先との面談を終え、帰路の途中でふらりと丸の内の本屋に立ち寄った。特に目当てがあったわけじゃない。ただ、気持ちを切り替えたかった。店内は涼しく、静かで、平日の疲れがふっとほどけていくような気がした。 なんとなく足が向いたのは、ビジネス書のコーナーだった。書籍の背表紙を眺めていると、少し離れたところに立つひとりの男が目に入った。 黒いシャツにグレーのネクタイ。堅実なスーツスタイルが多い丸の内では、ひときわ目を引く装いだった。そして、よく見れば――顔が、唐津にそっくりだった。 髪型は少し違った。わずかに長めで、無造作に流している。顎には整えられた髭があり、その印象をさらに鮮やかにしていた。目元や輪郭、身のこなしには、確かに唐津と似た雰囲気があった。 思わず視線を奪われた。 その男がふいにこちらを見た。鋭さのある視線が、真っすぐに漆原をとらえる。 「……何か?」 低く、はっきりとした声だった。言い方にとげがあるわけではない。ただ、距離の詰め方に迷いがない。声のトーンも、どこか唐津に似ている気がした。 「いえ、すみません……」 漆原は目を逸らし、軽く会釈してその場を離れた。心臓が妙に早く脈打っている。どこか気まずさと、ざわついた思いが残っていた。男の佇まいは華やかで、すれ違う人の視線を自然と集めるような印象だった。着こなしや立ち姿に自信があり、その存在は、ただそこにいるだけで際立っていた。 ――誰だったんだ? 翌朝。漆原がパソコンを開いていたところに、唐津がやってきた。 「……もしかして、昨日の夕方、本屋で弟に会った?」 「弟……ですか?」 唐津の言葉に、驚きで目を見開く。 唐津は少し眉を上げ、肩をすくめるようにして笑った。 「たぶん、丸の内の書店。あいつから連絡きてさ。『兄貴のとこの社章つけたやつに、ガン見された』って」 「……あの人、弟さんだったんですか」 「うん。双子なんだ、俺ら」 唐津は、ゆったりと続けた。 「恭介っていう。商社の営業マンで、海外行ったり来たりしてる。あいつ、言いたいことは何でも言うし、遠慮がない。怖いもの知らずっていうか、何事も平気で突っ込んでいくタイプだな」 「そう……なんですね」 「派手だろ。商社マンのくせに、あんな格好して」 漆原は思い出すように目を伏せ、小さく頷いた。 「はい、ちょっと……驚きました。似てるけど、違いました」 「だろ。俺はあんな服着ないし」 唐津が少し笑って、最後にぽつりと呟いた。 「あいつ、ろくでもないから、関わるなよ」 何気ない言い方だったが、その声音にはどこかひっかかりがあった。 「……そういうものなんですか?」 「仲が悪いってわけじゃねえけど、まあいろいろな。あんな格好して、会社で何か言われても『結果がすべて』とか平気で言うタイプだし、空気とか読まないから、悪気なくなんでもズバッといく」 唐津は、そこまで言って一拍おいた。 「……まあ、女関係でも、いろいろあるしな」 「そう……なんですね」 漆原は曖昧に笑いながらも、なんだかんだ唐津と普通に話せていることに、ほっとしている自分に気づいた。こうして隣で話しているだけで、ほんの少し心が軽くなる。 唐津の弟、恭介。似ている顔、似ていない雰囲気。 けれど、漆原はふと思った。 ――同じ顔だけど、唐津のほうが格好いい。 優しさとか、ふとした瞬間の静けさとか、そこにある温度まで含めて。 情に厚いところや、飄々としているようで実は照れ屋なところ。誰かに似ているだけでは埋められない何かが、唐津にはある。 その想いを、また伝えることができるのだろうか。 伝えて、届くのだろうか。 いまだ答えの見えない問いが、胸の奥で静かにくすぶっていた。

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