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第44話 たった一歩が遠くて

漆原が唐津と沙耶の姿を目にしたのは、思いがけず蒸し暑い夏の夜だった。 夜八時を少し回った時間。客先との軽い会食から戻ってきた漆原は、部内に忘れた書類を取りに本店のビルに立ち寄った。日中の喧騒が去った後の静まり返ったエントランス。最新のセキュリティシステムが導入された丸の内のオフィスビルのゲートに、社員証をゲートにかざして通過する。 そのとき、通用口の奥の人影が目に留まった。 唐津と、沙耶。 二人は並んで歩いていた。唐津はいつものスーツ姿、沙耶はベージュのワンピースに薄手のカーディガンを羽織っている。仕事終わりにしては、沙耶の服装はやや華やかに見えた。 何を話していたのかは分からない。ただ、唐津の表情がどこかやわらかく、沙耶の口元には微かな笑みが浮かんでいた。 距離は近すぎるわけではなかった。触れ合うことも、見つめ合うこともなかった。 けれど、その空気感から、漆原は予感のようなものを抱いた。 ――食事にでも行くのだろうか。 確信ではなかった。ただの思い込みかもしれない。 それでも、その夜の唐津の立ち居振る舞いには、なにかいつもと違う、静かな余裕のようなものがあった。 そのまま二人が自動ドアを抜け、夜の街に消えていくのを、漆原は立ち止まって見つめていた。 胸が詰まるような、しめつけられるような感覚。 漆原と唐津は、しばらく二人きりで食事に行っていなかった。 きっかけがなかったわけではない。ただ、沙耶の存在が漆原の心に影を落としていた。あの人のそばに、唐津が立っている姿を見て以来、自分から距離を詰めるのが怖くなっていた。 あの曖昧で、けれどあたたかい関係を壊してしまうのではないかと、躊躇していた。 それを破ってしまうのが怖かった。勇気が出なかった。 そんな漆原に、唐津のほうから声がかかったのは、その翌週のことだった。 「漆原、最近飲んでないだろ。今夜、行くか」 何気ない口調だった。いつも通りの、軽い誘い。 けれど、漆原の心にはずしんと響いた。 あの夜の光景が、脳裏によみがえる。 沙耶と並んで歩く唐津。 笑う沙耶。 何も知らない顔で、自分に声をかける唐津。 誘いを断る理由はなかった。だが、受け入れるには覚悟が要った。 それでも、漆原は頷いた。「はい」と。 向かったのは、以前ふたりで行ったことのある落ち着いた居酒屋だった。照明の落ちたカウンター席。控えめな音楽が流れ、木の温もりが漂う空間。 唐津は生ビール、漆原はハイボール。 「おつかれ」と軽くグラスを合わせる。 仕事の話。部下の話。部の進捗。 当たり障りのない会話が続く。 けれど、どこかぎこちなさが残る。 漆原は言葉を選びすぎていた。考えて、喉まで出かけた話題を飲み込んで、そしてまた違う話にすり替える。話すたびに少し間が空いて、グラスを口に運んでごまかすような仕草が増えていた。 唐津は、そんな漆原の様子に気づいていた。 枝豆をつまみながら、ちらりと横目で漆原を見る。 「……なんか、今日のお前、ちょっと元気ないな」 柔らかな声だった。 探るようでも、詰めるようでもない。ただ、気遣う声音。 漆原は一瞬だけ目を伏せ、すぐに微笑んで見せた。 「そんなこと……ないですよ」 そう言いながらも、その笑顔には力がなかった。 「そっか。なら、いいんだけど」 唐津はそう言って、グラスを傾けた。 会話がふっと途切れ、静かな時間が流れる。 漆原は唐津の横顔を見た。 涼しげな目元。無駄な力の抜けた肩。氷の音がグラスに響くたびに、自分の鼓動が高鳴る気がした。 今、何かを言えば、この関係が変わってしまうかもしれない。 でも、何も言わなければ、いつまでもここに留まってしまう気もした。 そんな葛藤の末、漆原はグラスを置いた。 「……すみません。ちょっと気分が悪いので……先に、帰ります」 唐津が、少し目を見開いた。 「え? いや、大丈夫か?」 「はい。少し休めば平気だと思います」 頷くだけで、漆原は鞄を持ち、立ち上がった。 会計をしようとする唐津を制して、手を軽く上げる。 「すみません。明日、払います」 唐津はしばらく漆原の後ろ姿を見送っていた。 夜風が頬に冷たかった。歩道を歩きながら、胸の奥がじくじくと痛んだ。 翌朝。 漆原が出勤してしばらくした頃、唐津が自席の前に立った。 「昨日の、あれ……本当に大丈夫か?」 その声に、漆原は胸が詰まる思いだった。 うれしい。 気にしてくれている。 でも、どうしていいか分からない。 視線を上げられず、デスクの上に視線を落としたまま、漆原は言った。 「……大丈夫です」 それ以上、何も言えなかった。 気になるなら、聞けばいいのに。 あの人と一緒にいたのか、と。 どういう関係なのか、と。 けれど、それを訊ねたら鬱陶しいと思われるかもしれない。面倒なやつだと思われるかもしれない。嫌われてしまうかもしれない。 そう考えると、何も言えなくなる。 好きだと、伝えたのに。 あの日、ちゃんと気持ちを伝えたはずなのに。 唐津は「考える」と言ってくれて、あの夜のことだって「謝らなくていい」と言ってくれた。だから、漆原はこのまま少しずつ距離が自然に近づいて、もう一度気持ちを伝えられる日が来るのを待てばいい、そう思っていた。 けれど、自信は、いつのまにか脆くなっていた。 唐津は優しい。誰にでも。 その優しさを、特別だと感じた自分が、愚かに思える瞬間がある。 けれど、それでも。 唐津がくれる視線。 かけてくれる言葉。 それを、特別だと信じたかった。 誰にも明かせないまま、漆原は一人、感情の迷路をさまよっていた。

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