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第43話 夏の影

沙耶が、本社への出入りする機会が増えていた。 訪問の頻度は週に一度。最初の挨拶まわり以降も、唐津の部の周辺で彼女の姿をよく見かける。投資信託の新規取り組みに関する打ち合わせや、外部セミナーの企画といった名目で、営業戦略部に滞在する時間が長くなっていた。 それだけなら、仕事上の関係の延長と見なせる。 けれど、ある日、食堂で昼食をとっていた漆原の耳に、こんな会話が入ってきた。 「昨日、戦略部のところ通ったらさ、唐津さんとあの宮田さんが二人で会議室にいたよ」 「え、また?セミナーのときも外出一緒だったって聞いた」 「でもお似合いだよね、美男美女っていうか」 食堂のざわめきの中で交わされたその言葉に、漆原の手が止まった。 この日の昼食は、プロテインバーとサンドイッチ、それに特茶だった。だが、手元のサンドイッチを持つ指に力が入らなくなる。話していたのは別部署の若手二人。どちらも悪意のない、無邪気な様子で唐津の話題に花を咲かせていた。ただ、そこにあったのは興味本位の会話。 漆原は、特茶のペットボトルをぼんやり見つめながら、ゆっくりとサンドイッチを置いた。かすかに耳に残る唐津という名と、宮田という女の名前。わずかな会話の断片であっても、それが彼の隣にある現実を突きつけてくるようで、胸の奥がきゅうっと軋んだ。 唐津に何かを問いただしたいわけではない。けれど、ざわつきは消えない。つい先日まで、あたたかく曖昧な関係を受け入れようとしていたはずなのに、誰かの名前が彼の隣に浮かぶだけで、その温度は不安定に揺らいでいく。 翌週、提案会議の準備で営業戦略部に立ち寄った際、部の前を通りかかると、唐津と沙耶が並んで歩いていく姿が見えた。 何を話していたのかは分からない。唐津はゆったりと歩きながら、視線を前に向けている。沙耶の口元はほんのわずかに動き、唐津の横顔を見上げるように笑んでいた。 その笑みを、唐津が返したのかどうかは分からない。 だが、沙耶が彼に好意をもっているように見えた。それは噂に引きずられている思い込みなのかもしれないと、何度も頭の中で否定しようとした。けれど、否定すればするほど、あの笑みが脳裏に焼きついていく。 エレベーターホールに戻っても、漆原の胸の内では、その一瞬が何度も繰り返された。 ――ああいう風に笑いかけられて、 ――ああいう風に隣に立たれて、 ――何も思わないのだろうか。 いや、思ってもいい。過去に何があったとしても、今の唐津に自由があることは分かっている。 それでも。 唐津の過去と、唐津に向けられる好意が、漆原の中で静かに、けれど確実に波紋を広げていく。 夜、自室のリビングで書類に目を通していても、ふと気づくと目線が止まっていた。 今どこを読んでいたのか分からなくなる。 集中力が続かない。数字の羅列が白紙の上でぼやけて、意味をなさなくなる。部下の進捗報告も、いつもなら的確にアドバイスできるはずが、言葉が出てこない。考えようとしても、意識がどこかへすり抜けていく。 キーボードを打つ指に力が入らない。ミスタイプを繰り返しては、バックスペースを叩き、また止まる。 スマホに手を伸ばして、メッセージアプリを開いては閉じる。何かを伝えたいわけじゃない。ただ、つながっていたいだけ。 それなのに、何も言えない自分がいる。 言葉にした瞬間、今の関係が壊れてしまうかもしれない。その恐れが、何もかもを飲み込んでいく。 そして、週末。 別部署の同僚と飲みに行った帰り道、唐津と沙耶が並んでビルから出てくるのを偶然目撃した――という話が、部内の女性たちの会話の中からふと聞こえてきた。 「普通に話してただけっぽいですけど、なんか、距離近いなーって」 何気ない口調だった。誰かを責めるでもなく、ただの噂話として流れるその会話。漆原はその場で何も反応しなかった。ただ、心のどこかで小さな杭が刺さるような感覚だけが残った。 誰も悪くない。 噂も、笑みも、過去も。 全部、ただそこにあるだけのこと。 けれど。 それらが唐津の周囲にまとわりつくたびに、自分の立ち位置が不安定になるのを、漆原は止められなかった。 彼の隣は、ぬくもりのある場所だった。 でも、それが誰にでも開かれているのか、それとも特別だったのか――答えがないままでは、呼吸が浅くなる。 唐津は誰とでも距離が近く、誰にでも優しい。 けれど、自分だけは違うと思っていた。違うと、信じたかった。 それなのに、そんな自信がぐらつくたびに、胸の奥に溜まっていた静かな不安が、じわじわと広がっていく。 仕事では成果を出している。 部下からの信頼も、上司からの評価も得ている。 けれど、唐津の些細な言動ひとつで、こんなにも気持ちが揺れる自分を、漆原はどこかで恥ずかしいとすら思っていた。 答えが欲しいわけじゃない。 でも、見えないままでも、いられない。 そんな矛盾の中に、漆原は静かに沈んでいった。

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