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第42話 名前のない距離

月曜の朝、エントランスフロアに着くと、唐津がロビーの自販機前で缶コーヒーを手にしているのが見えた。缶のタブを開けてひと口。背筋はまっすぐで、週明けにしては珍しく、表情にも余裕があるように見えた。 「おはようございます」 唐津は顎を軽く引いて、「おう」と返した。 それだけの会話だったのに、自然と歩調が合う。唐津の足がこちらの横に並び、何も言わずに並んで歩く。歩幅も、速度も、ちょうどいい。エレベーターホールの床に響く靴音が、交互にリズムを刻んだ。 ステンレスの壁に映る唐津の横顔に、目をやる。少しだけ柔らかくなったような、そんな気配があった。 営業第一部と営業戦略部の協働案件が、ここ最近になって一気に増えている。月例の提案会議には、戦略部のメンバーが席を並べるようになった。同行予定のアポが週に二本。唐津とは週明けに一度、木曜にも会う予定だった。 わざわざ時間を作らなくても、顔を合わせる機会がある。それが、少しだけ安心だった。 週の後半、戦略部との同行で企業年金向けの提案が入った。チームは漆原と眞壁、戦略部からは唐津と本堂。応接の前で四人が揃い、資料の受け渡しや段取りを漆原が確認する。唐津はそれに短く応じ、必要な点を補足してくれた。 面談が始まると、自然と呼吸が合った。資料の提示タイミングも、話の引き取りも、視線を交わすだけで伝わる。顧客がうなずくたびに、唐津が穏やかに補足を入れ、こちらが少し引けば、すかさず相手をつかんでくれる。どちらが主導というわけでもなく、役割が滑らかに行き来した。 打ち合わせが終わると、顧客の担当者が「営業の方々、本当に連携が取れていて助かります」と笑っていた。唐津もわずかに口元を緩め、軽く会釈していた。 昼食のあと、眞壁と二人で社に戻る途中、彼がぽつりと口を開いた。 「部長、最近“角が取れた”って言われてましたよ」 「誰に」 「二部長とか、あと戦略部のメンバーも。『柔らかくなった』『話しかけやすい』って」 「……そうか」 褒め言葉なのは、分かっている。マネジメント評価も上がっていると、本店長経由で耳にした。若い部下が多いチームにおいては、今の空気のほうが正解なのだろう。 唐津と働いているということのおかげだと思うと、少しだけ胸の奥がくすぐったかった。 その翌日。運用会社の担当者が挨拶まわりに訪れたと、総合受付から内線が入った。 顔を出したのは、黒のパンツスーツをすらりと着こなした女姓だった。髪は緩く巻かれ、明るすぎないリップ。堂々とした足取りと、よく通る声。自信のある人間の所作だった。 「宮田沙耶です。御社を担当させていただくことになりました。今後ともよろしくお願いいたします」 名刺を受け取りながら、どこかで聞いた名前だと、うっすら引っかかるものがあった。けれど、思い出せないまま挨拶を終えた。 そのすぐあと。通りすがった戦略部の若手二人が、小声で話しているのが聞こえた。 「……あの人、唐津さんの元カノだったって知ってた?」 「えっ、ほんとに?」 「前の支店で一緒だったんだって」 声は小さかったが、言葉のトーンに確信めいたものがあった。ふざけるでもなく、驚くでもなく、ただ当然の事実を話しているような口ぶりだった。 席に戻ってから、漆原はしばらく手元の書類に集中できなかった。指がキーボードに触れるまでに、一呼吸ずつ余計に時間がかかる。社内チャットを開いて、閉じる。考えごとをしていたわけでもない。ただ、どこかに意識を取られていた。 唐津に、過去の交際相手がいたことなど、今さら驚くような話ではない。噂の通りなら、彼女は元社員で、今は外部の担当者だ。それだけの話。割り切れる。……割り切れるはずだった。 実際、唐津の女性関係には派手な噂もあった。社内恋愛、他社との交際、支店をまたいでのうわさ話。根も葉もないものも含め、何度か耳にしてきた。だから今回も「そんなこともある」と思えばいい。仕事に関係ないことだ。 そう思おうとする一方で、あの女姓の姿が、唐津の横顔と重なって、何度も脳裏に浮かんでは消えた。焼き鳥屋で「また行こう」と言われた声の余韻すら、わずかに滲んでいくような気がした。 週の終わり、木曜の夕方。唐津とエントランスでばったり顔を合わせた。 「今日、あの運用会社、また来てましたね」 唐津は一瞬だけ表情を緩めたが、すぐにいつもの無表情に戻ってうなずいた。 「ああ。今度うちで入れる新規のファンドの件で」 「……以前、同じ支店だったんですか」 声が少し硬くなったのが、自分でもわかった。 唐津は、ほんのわずかに苦笑したように見えた。 「誰から聞いた」 「戦略部の若手が噂してるのが聞こえてきただけです」 「……まあな」 その言い方には、特に感情もなく、言い訳もなかった。ただ事実を受け止めるような、淡々とした口調だった。 「そうですか」 漆原はそれだけを返し、それ以上何も言わなかった。 会話は終わったが、歩く方向は同じだった。唐津が先にボタンを押し、エレベーターが到着する。無言のまま乗り込み、静寂の中で数字がひとつずつ下がっていく。 不思議とその沈黙は、居心地が悪くなかった。会話はなくても、並んだ背中と呼吸のリズムに、妙な一体感があった。 地上階に着いて、扉が開く。 「じゃあ、また」 「……はい」 唐津が先に歩き出す。その背中を見送りながら、漆原はポケットの中のスマートフォンを無意識に握っていた。 その夜。部屋に戻り、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を飲みながら、ダイニングチェアに座る。スーツのジャケットを背もたれにかけたまま、スマホを手に取る。 次の予定を、そろそろ決めたほうがいい。そう思って、メッセージアプリを開きかけた。けれど、指が止まる。 会いたい気持ちはある。だけど、もし自分ばかりがそう思っていたら、と思うと、手が動かせなかった。しつこいと思われるかもしれない。そんな自意識が、胸の奥で足を引っ張っていた。 唐津との距離は、確かに縮まっている。そう実感できる場面は増えている。食事に行くことも、視線が交わることも、沈黙が心地よいことも。 でも、あの夜――あの夜を越えてからの自分の気持ちは、明らかに変わっていた。 次の予定を、そろそろ決めたほうがいい。そう思って、メッセージアプリを開きかけた。けれど、指が止まる。 会いたい気持ちはある。けれど、自分ばかりがそう思っているのではないかという不安が、手を止めさせた。しつこいと思われたくない。その意識が、胸の奥にしこりのように残っていた。 唐津との距離は、確かに縮まっている。そう実感できる場面は増えている。食事に行くことも、視線が交わることも、沈黙が心地よいことも。 でも、あの夜――あの夜を越えてからの自分の気持ちは、明らかに変わっていた。 彼を親しい部長同士としてだけ見ることは、もうできない。触れられたことも、触れたことも、その余韻が、今でも確かに体の奥に残っている。唐津の言葉、表情、背中の温度。どれも簡単に忘れられるものではなかった。 唐津からは、否定も肯定もされていない。 だからこそ、曖昧なままでいることに、時折、胸がざわつく。もっと踏み込みたい気持ちはある。 けれど、それで関係が壊れてしまったら――その可能性が、怖かった。気持ちをぶつけた先に、もし望んでいない結末が待っていたらと思うと、前に進むことを躊躇してしまう。 曖昧なままの関係でいることは、心地よさと引き換えに、自分の奥にある欲を押し殺すことでもあった。そのバランスのなかで、少しずつ苦しくなっている自分に気づきながらも、答えを知ってしまうことへの怯えが、それを止めていた。 曖昧だけど、ちゃんとあたたかい。 それはたぶん、唐津のそばにいるということ。あの夜を知ったうえで、今もそばにいるということ。 その関係が、完成されたものでないことも分かっている。進めるべきか、このままでいるべきか、育てようとしているのか、それともただ守っているのか――自分でも、はっきりとは言えなかった。 けれど――今の漆原には、その曖昧さを受け止めてでも、彼の隣にいたいと思える気持ちが、たしかにあった。

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