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第41話 水曜の約束
翌週の水曜、昼下がり。第一部の島から戻ってきた漆原は、廊下の角で唐津を見つけた。片手に紙カップ。黒いプラスチックの蓋から、浅く焙煎した豆の匂いがふっと立ちのぼる。食堂フロアのカフェのコーヒーだ。先週の帰りがけに交わした「おごれ」「わかりました」が、まだ胸の内側で形を保っているうちに、漆原は口を開いた。
「唐津さん。――あの約束なんですけど」
唐津は足を止め、カップを持たないほうの手でポケットを探るような仕草をしてから、視線をこちらに寄越した。瞬きがひとつ、顎が半分だけ引かれる。
「約束?」
「先週の帰りに、おごれって。今週、いかがでしょうか」
「ああ、言ったな」口元に小さく笑いが出て、紙カップがわずかに傾く。飲み口が唇に触れて、喉の動きが一度だけ上下した。「水曜なら空いてる」
「ありがとうございます。お店はこちらで探しておきます」
「頼む。変なとこはやめろよ」
短く頷いて、唐津は営業戦略室の島へと歩き出す。スーツの裾が足の動きに合わせて遅れて揺れる。重心の置き方はほとんど普段どおりだが、よく見れば右の踵が床を離れる瞬間だけわずかに遅い。庇う動きは、日常の癖のなかに巧妙に紛れ込んでいた。
デスクに戻ると、眞壁からの未読が三つ。返事を打ち、必要な資料を二つ並べてから、ブラウザの検索窓に指が落ちる。眞壁に店を聞く手もあった。営業部の課長らしく外で使える店の札をやたら持っている。だが、眞壁は勘がいい。余計な推測の材料を渡さないに越したことはなかった。
「丸の内 焼き鳥 カウンター 静か」。星の数より、長いレビューの文面を見る。写真の露出、カウンターの木目、皿の縁の擦り減り方、グラスの水滴。二名、十九時で確定する。確認メールの受信を確かめてから、漆原はスマートフォンを伏せた。
約束の時間。エントランスフロアで待っていると、人の流れを縫って唐津が現れた。上着は腕に掛け、白いシャツの袖を二折り。ネクタイは緩めない。首筋の肌に、夕方の光が薄く乗る。歩幅は普段のままだ。
路地の角を曲がり、木の扉を軽く押す。檜のカウンターが幅広く伸び、その向こうで炭の火が赤く呼吸していた。焼き台の脇に立つ大将が「いらっしゃいませ」と会釈し、手元で串をひっくり返す。炭がひとつ、乾いた音で弾けた。通された二席は焼き場の正面。唐津は視線を一巡させ、鼻で短く息を吐く。
「……良さそうな店だな」
椅子に腰を下ろす前に、漆原は少しだけ肩の力を抜いた。最初のジョッキが汗をまとって運ばれる。卓に置かれる瞬間の、底のガラスが木に触れる音が柔らかい。二つのジョッキが軽く当たって泡が一段上がる。
「おつかれ」
「おつかれさまです」
一口目の泡が喉の手前でほどける。仕事と私事の境界が薄く混ざった。
さび焼き、ねぎま、手羽先。串が出るたびに唐津の表情はわずかに和らいだ。「ここのタレ、甘すぎなくていいな」「口コミ通り、という感じです」「口コミ?」と横目が寄せられ、「はい。いろいろ見ました」と漆原が応じると、「眞壁にでも聞いたのかと思った」と唐津。「いえ。自分で探しました」「ふうん」。それ以上は追及されず、唐津は串の根元を噛み切った。
仕事の話に移る。第一部の数字、若手の案件、戦略室の資料。唐津は焼酎のグラスを指でなぞりながら、短く的確に言葉を差し込む。「眞壁、ようやく数字に執着し始めたな」「はい。詰めの場面だけ、まだ言葉が雑になります」「お前が横に立てば直る」。声は淡々としているのに、芯が通っていた。
二杯目の焼酎を持ち上げた唐津が、座り直す。座面にかける体重が少し浅くなる。右の腰に手を添える動きが滑らかで、眉がほんのわずかに寄った。その寄り方が、先週の朝と同じだった。
「……すみません」
唐津の目がこちらに向く。火の赤が瞳の奥に一点落ちた。氷がからんと鳴る。
「何を謝る」
「……いえ」
唐津は数秒見つめ、それから肩をすくめた。口角が片方だけ上がる。
「変なやつだな」
反射で出かかる「すみません」を噛み殺す。グラスを傾け、焼酎の温度を舌で受ける。唐津はもう串に戻り、皮の焦げ目の薄いところから順に噛んでいた。
二時間ほどで会計を済ませる。唐津は「本当に奢ってもらっちまって悪いな」と言ったが、遠慮の色はなかった。外に出ると、夜の空気は少し湿っていて、襟に炭の香りが薄く残る。唐津は両手を頭の後ろで組んで一瞬伸びをし、肩を回した。右の肩が半拍遅れて落ちる。ポケットに手を突っ込み直して、視線は前だけを向いている。
「また行こう」
真正面に向けられた低い声。振り返らずに放たれた四文字が、火に透かされたように残った。
「……はい」
返事は小さかったが、空気の重さにちょうどよかった。
角を曲がり、大通りへ出る。唐津は人の流れに溶け、姿が駅の明かりに紛れていく。「お疲れさまでした」「おう、お疲れ」。同じ挨拶でも、意味は少し違って響いた。
また行こう――その残像を抱えたまま、漆原は帰路についた。街の灯りを背に、家へ向かう道はひどく静かだった。玄関の鍵を回す音がやけに大きい。靴を脱ぎ、部屋の明かりを点ける。机の上にスマートフォンを置いて、メモアプリを開く。候補を三つだけ打ち込んだ。小さな割烹、蕎麦で締められる店、季節の小皿を出す酒場。眞壁に聞けばもっと増える。けれど、増やさない。選ぶこと自体が約束の一部だと思えた。
窓を少し開けると、夜風がカーテンを揺らす。手の中にはまだ特茶の冷たさが残っている。曖昧な余白に、確かな期待だけが漂っていた。
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