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第40話 特茶ってなんなんだよ
八月の朝。
昨夜、決めたことがあった。
――逃げない。ちゃんと顔を上げて挨拶をする。
それだけのことを、たしかに胸の奥に置いて、家を出た。
ビルのエントランスに入ると、冷房の涼しさが肌を撫でた。外から連れてきた熱が、足もとからほどけていく。
自動ドアの横で、フロアのコンビニのドアが「ピン」と鳴った。
中から、唐津が出てくる。片手にアイスコーヒー、もう片方に小さな紙袋。口元はいつも通りで、眠そうでも機嫌が悪そうでもない。
「……おはようございます」
思ったよりまっすぐな声が出た。
唐津は軽く顎を引く。
「おう。おはよう」
それで会話はいったん途切れる。けれど、足は同じ方向へ動いた。
エレベーターホールの床は丁寧に磨かれていて、靴音がよく響く。並んで立つと、唐津の立ち方の微細な変化に気づいた。
片足に重心をかけ、腰を庇うような――一般の目には拾われない程度の癖。
呼吸が、ほんの少し浅い。
(……やっぱり、痛いんだ)
言葉が喉の奥まで上がってきて、そこで固まった。
大丈夫ですか、と言えばいい。言えばいいのに、朝いちばんの密度の濃い沈黙に、最初の一歩を置く場所が分からなくなる。
到着音。
箱が開く。唐津が手首で小さく合図した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
二人で乗る。上昇が始まる。ステンレスに映る肩の高さの差。
唐津はカップのフタを親指でなぞり、正面の数字を見ている。
こちらは、声を選び損ねたまま、数字がフロアを示した。
「じゃ、後で」
「はい」
扉が開いて、朝がそれぞれの持ち場へ散っていく。
午前の会議は、定刻どおりに始まった。
議題は三つ。決裁案件が一つ、以降は進捗共有。
唐津の声は、いつも通り落ち着いている――そう聞こえる。必要なところだけを拾い、余分を落とす手際も変わらない。
けれど、耳を澄ませるとほんのわずかに精度が甘い気がした。
こちらの出した案に「いや、それはいい」と短く返したものの、そこから先に続くはずの言葉が薄い。
否定ではない。むしろ肯定に近い響きなのに、そこから広げるための鍵を見つけられていないように見える。
(痛いんだな)
確信は強くなる。けれど、会議が一区切りすると、言えるタイミングは遠ざかる。
言い方を間違えたくない、と思えば思うほど、握っている糸が細くなる。
昼前、別部の部長に呼ばれた唐津は、そのまま会議室から出た。
僕も資料を抱えたまま自席に戻り、積み上げたメールの山に順番をつける。
社食の鶏そぼろ丼は、今日に限って味が薄く感じた。湯呑みのお茶が、やけに熱い。
午後の仕事が一段落した頃、プリンターの横を通ったとき、ふと喉が渇いたことに気づいた。ビル一階のコンビニを思い浮かべる。どうせ行くなら――と、机の上のスマホと財布だけを持ってエレベーターに乗った。
冷蔵棚のラベルが目に入る。特茶。手に取って、もう一本。理由は自分でもはっきりさせないまま、会計を済ませた。
袋を提げて戻ると、ちょうど廊下の向こうから唐津が歩いてくる。ファイルを小脇に抱え、書類に目を落としながらの足取りは、やはりどこか庇うように見える。
「唐津さん」
顔を上げた唐津に、袋から一本を取り出して差し出す。
「これ、どうぞ」
「……なんだこれ」
「特茶です」
「特茶ってなんなんだよ」
「健康にいいんです」
唐津は「ふん」と鼻で笑い、キャップを開けてひと口飲む。わずかに目を細め、もう一口。
「……まあ、悪くないな」
「それはよかったです」
短いやりとりなのに、胸の奥に少しだけ空気が入った気がした。張りつめた午後が、ほんのわずかに緩む。
退社時刻、PCを落とし、書類を整えていると、唐津が先にフロアを出て行くのが見えた。慌てて後を追う。エレベーター前で、ちょうど追いついた。
「どうした?」
「……あ、コンビニにプロテインバーでも買いに行こうかと思って」
口をついて出たのは、本心とは関係ない言葉だった。唐津は鼻で笑い、エレベーターのボタンを押す。
「ちゃんと食えよ。そんなもんで腹満たすな」
「じゃあ……今度、何かおごってください」
「逆だろ。俺におごれ」
「……わかりました」
そう返すと、唐津はにやりと笑った。
エレベーターが静かに降りていく。数字が一つずつ減り、エントランスフロアで扉が開く。
「お疲れさまです」
「おう、お疲れ」
唐津はそのまま自動ドアの向こうへ。
背中が夜の街に溶けていく。
手の中には、まだ冷たい特茶のボトル。何をおごろうか――あの焼き鳥屋か、それともあの寿司屋か。思い浮かべる店はいくつもあった。
明日が、少しだけ待ち遠しい夜だった。
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