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第39話 特茶と夜風と、あなたのこと

鍵を回して、ドアを閉めた瞬間、漆原はふっと小さく息を吐いた。 東京の空気。無機質で整然とした、自分だけの部屋。 誰の気配もない、いつも通りの静けさ。 スーツのまま靴を脱ぎ、かちゃりと揃えながら、なんとなく指先が震えていることに気づく。 上着を脱いでハンガーにかける。そのとき、襟元に触れた指がふと止まった。 「……跳ねてた、んだっけ」 ぽつりと呟いて、ひとりで苦笑する。 唐津に言われた“寝癖”。「そのままでいいよ、そっちのほうが、おまえらしいし」――あの言葉が、不意に蘇った。 無意識に髪を整えようとして、途中でやめる。 跳ねていたとしても、もう直す必要はない。唐津が「いい」と言ってくれたのだから、それでいい。 冷蔵庫を開けると、整然と並んだ特茶のペットボトルが出迎えた。 一本を手に取り、キャップをひねる。しゅっ、と小さな音が、静まり返った部屋に響いた。 冷凍庫の奥から、買い置きのカルボナーラを取り出して電子レンジへ。 スマホは伏せたまま、テレビもつけずに、ただ湯気の上がる音とタイマーの電子音だけが空間を満たす。 温め終わった皿をテーブルに置き、フォークを手にする。 一口食べてみる。味はちゃんとする。するはずなのに、心はどこか遠くにいた。 「……唐津さん、ちゃんと食べたかな」 つぶやいた瞬間、自分でも驚くほど、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。 別に、心配してどうにかなるわけじゃない。けれど――そういう感情が浮かんでしまう。 特茶をひと口。冷たい液体が喉を通る感覚に、ようやく少しだけ現実に戻ってくる。 食器を片づけ、風呂の湯を沸かしはじめる。 湯気が立つまでのあいだに、着替えを用意して、脱いだ衣類とタオルを洗濯機に放り込む。 洗剤を入れてスイッチを押すと、低い駆動音が部屋に響いた。 湯船につかりながら、ぼんやりと天井を見上げた。 「……何て言ったら、よかったんだろうな」 思わず漏れた声は、小さくて頼りなかった。 あの朝、何かを言わなきゃ、とは思っていた。 でも、何を言ったらいいのか、わからなかった。 唐津に、どんな顔で返されるのかも、想像できなかった。 それでも、あのとき逃げずにいた自分を――ほんの少しだけ、肯定したくなる。 風呂から上がると、部屋着に着替え、髪をドライヤーで乾かす。前髪に風を当てながら、唐津の顔がまた浮かんだ。 ベッドで見た唐津。 照明の下でわずかに汗ばんだ肌、いつになく熱を帯びた目、そして戸惑いながらもこちらを見つめてくれた視線。 「……あんな顔、するんだ……」 思わず口にして、少し照れくさくなって苦笑する。 普段の唐津は、どこか飄々としていて、器用で、優しくて、大人の余裕がある人だった。 誰に対しても公平で、怒鳴ったりもしないし、冷静な判断をする――そういうタイプだと思っていた。 けれど、あの夜の唐津は違った。 色気があって、強引で、でもどこか不器用で。 熱に浮かされたような目でこちらを見て、言葉も呼吸も、少しずつ荒くなっていくのが分かった。 その目が、ずっと忘れられない。 まっすぐにこちらを見て、迷いながら、それでも逃げずに手を伸ばしてきたあの瞬間。 あの目に、自分は煽られた。 唐津の中に隠されていた衝動が、確かに“自分に向いていた”ということが――どうしようもなく嬉しかった。 背中に触れた指の熱。 名前を呼ぶ声の低さ。 重なる唇と、交わる呼吸。 体を預けてくれたときの、わずかな震え。 「……可愛かった、な……」 そう呟いて、自分で少し照れたように笑ってしまう。 可愛い、なんて。 あんなに男らしくて色っぽい人に、何を言ってるんだと自分で思うのに、 それでも、確かにそう感じてしまったから仕方がない。 あのときの唐津は、自分だけが知っている姿だった。 ――たったひと晩の、特別な夜。 けれど、心のどこかに、ずっと残る。 ――全部、嘘じゃない。ちゃんと、そこにあった。 ソファに腰を下ろし、スマホが目に入る。 手に取り、LINEを開いて、指が止まる。 “ちゃんと休めました?” 打ちかけて、数秒見つめて、やめた。 送るのが怖いわけじゃない。 ただ、唐津がどう思うか、それがわからない。 いまは、言葉じゃない。 いまは、そっとしておいたほうがいい。 スマホを伏せ、テーブルの上に戻す。 その瞬間、部屋の空気がふと軽くなったような気がした。 窓は開けていない。風が入ってくるはずもない。 けれど、洗濯が終わって静まり返った部屋の中、部屋着のやわらかな肌触りと、乾きかけた洗濯物の温もりに、少しだけ日常が戻ってきたような気がして―― 目を閉じると、心がゆっくり静まっていくのがわかった。 冷蔵庫を開けて、もう一本特茶を取り出す。 ラベルの冷たい感触。カチリと開けたときの音。 「……明日、ちゃんと顔、合わせられるかな」 ぽつりと漏れた声は、自分に向けた問いだった。 でも、もう決めている。 逃げない。 ごまかさない。 ちゃんと、「お疲れさまです」って言う。 それが、自分にできることなら。 ベッドに入り、布団をかぶる。 エアコンの静かな駆動音が耳に心地よく、ようやくまぶたが重くなってきた。 「……おやすみなさい、唐津さん」 誰にも聞かれない、でもちゃんと届いてほしいと思いながら、静かに呟いた。 それは、願いでもあり、ほんの少しだけ――覚悟のようなものでもあった。

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