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第38話 帰還兵の夜

玄関のドアを閉めたその瞬間、唐津はその場に崩れ落ちた。 靴を脱ぐ余裕もなく、スーツケースを放り出したまま、壁にもたれて床に座り込む。冷たいタイルが背中にじんわりと伝わってきた。 「……生きて帰れたんだな、俺」 思わず漏れた独り言。まるで、戦場から生還した兵士のような心境だった。大阪の空気、お好み焼き、串揚げ、そして――あの夜。すべてが現実だったとは、にわかに信じがたい。 思い出しかけて、唐津は頭を振った。 「いや、もう考えるな」 立ち上がろうと腰を上げた瞬間。 「……っっっっっっっっっ……」 呻きが漏れた。腰が痛い。ズキズキと、じんわりと、全方位的に、鈍い痛みが広がる。 「腰……死ぬ……」 玄関に片膝をつきながら呟いた声が、自分でも情けなかった。 荷物を放置し、スーツのジャケットだけ脱いで、シャツのままソファに倒れ込んだ。首の後ろにクッションを当て、天井を仰ぐ。 「……ほんとに、俺が……」 思い出したくないのに、記憶は鮮明だ。重なった影、熱、汗ばむ肌。耳元に落ちたあの低い声――『逃げるなよ』。あれで全身の力が抜けた。逃げる暇なんてなかった。体が勝手に反応して、結果、今これである。 「……腰、やばすぎ……」 唐津はソファから立ち上がり、よろよろと洗面所へ向かった。棚ではなく、洗濯機の上に置かれたバスケット。その中に、いつ買ったのかも定かでない湿布やロキソニンが無造作に突っ込まれている。 「……貼るって、どこに……。いや、そこじゃない……いや……そこか……?」 一人で小声の葛藤。とりあえず無難に、腰のやや上側――背中寄りの位置に湿布を貼りつける。ビリッという音が虚しく響いた。 「……あとは……ロキソニンか……」 流しの蛇口の水でロキソニンをそのまま飲み込む。 ラベルも剥げかけた銀のパッケージ。効いてくれ、と願う気持ちだけは真剣だった。 ベッドまでたどり着く気力もなく、そのままソファに横たわった。 *** 気づけば、夕方になっていた。 「……腹、減った……」 唐津はようやく体を起こし、Tシャツとスウェットに着替えて、近所のコンビニに向かった。脚が――というか、股関節まわりがやけに重く、足をひきずるような歩き方になる。 「関節って、こんなに使うもんなのか……」 ぼそっとつぶやく声が、夜風にかき消される。 焼き鳥丼と味噌汁、それからサラダをひとつ手に取った。レジで会計を済ませ、外へ出ると、スーパー帰りらしきOLがすれ違っていく。 唐津は、反射的に背筋を伸ばした。 見られてるわけでもない。だが、ほとんど無意識に「痛がってない」ふりをしていた。 「……何やってんだか」 自嘲気味に呟いて、コンビニの袋をぶら下げたまま、ゆっくりと帰路をたどった。 帰宅後、テーブルに買ってきた弁当を並べ、テレビをつける。 「焼き鳥丼、美味そう……」 そう思ったはずなのに、箸を口に運んでも、味がしなかった。 ――味が薄いわけじゃない。味覚が死んだわけでもない。 テレビでは芸人が騒いでいたが、音が耳に入ってこない。 唐津は、箸を置いた。 焼き鳥丼は半分も食べられなかった。 「……なんなんだよ、まったく……」 *** そのままベッドに入る。 電気は消して、スマホも横に置いたまま触らず、目を閉じる。 ――だが、寝られない。 いや、眠いはずなのに、脳がうるさい。 「……なんで俺からキスしたんだっけ」 唐津は天井を見つめる。暗がりの中、輪郭のない天井を眺めながら、例の瞬間をまた反芻する。 自分が――漆原の襟をつかんで引き寄せた。キスをした。その事実はもう否定しようがない。記憶は鮮明で、都合よく改変されてもいない。 唇の感触。少し乾いていて、それでも熱かった。漆原の呼吸がふっと乱れたのを、唐津の耳が確かに拾っていた。あの、戸惑いと覚悟が混じった目。普段、冷静沈着な男が見せた、たった数秒の無防備な表情。 唐津は布団をかぶって、もぞもぞと体を捩った。 「……ちがう、ちがう……そうじゃない」 問題はキスじゃない。そのあとだ。 唇が離れたあとも止まらず、舌が絡んで、息が荒くなって、喉に口づけをされて、ベッドに倒されて―― 「……って、やめろやめろ!思い出すな!!」 思わず枕を抱きしめて、顔をうずめる。なのに脳内には再生される。 漆原の指が、背中を、腰をなぞった感触。熱を持った体温が、肌のすぐ近くにあったこと。あの低くて震えるような声で呼ばれた名前。 ――唐津さん。 その響きだけで、なぜか全身の毛穴が開くような気がした。 「……痛かったのは、間違いない」 唐津は、天井を見上げたままぼそっと呟いた。 じんわりと残る腰の鈍痛が、それを証明している。けれど、それだけだったか――と問われると、少し言葉に詰まる。 「……それだけじゃ、なかった……ような気もする」 どこか釈然としないまま、自分でも曖昧な答えを返す。だが、少なくとも、あのとき“何か”を感じていたことだけは確かだった。 そもそも、「これ大丈夫か?」という不安のほうが先にあった。経験などない。マニュアルもなければ、段取りも準備も、なにひとつ整ってなかった。 いや、整ってないどころか――ゼロだった。 痛いどころか怖いに決まっている。なのに、どうしてあんなふうに体が動いたのか。どうして、あんな顔で見つめ返してしまったのか。 「……バカか」 枕に顔をうずめたまま、小さく悪態をつく。だが、顔の火照りも、胸の奥に残るざらついた熱も、簡単には冷めそうになかった。 「俺、あいつと……」 考えれば考えるほど、唐津の脳は混乱した。漆原が、ああして、自分を―― 「……した、んだよな。間違いなく。した」 枕をぎゅっと抱きしめたまま、再び呻く。 あのとき、漆原が口元に落としたキス。何度も何度も角度を変えて重なった唇。手のひらが頬を撫でて、耳の裏をなぞって、喉元で止まった瞬間の、あの息の重さ。 「……やめてくれ、マジで……」 唐津はシーツをかぶって、布団の中で丸くなる。 そのまま夜が更けていく。時計は1時を過ぎていた。 「……明日、普通に会社行けんのか、これ……?」 そんな唐津の不安をよそに、スマホの画面は真っ暗なままだ。LINEの通知もない。 ――やっぱり、気まずいのか。 そんな考えが一瞬頭をよぎるが、すぐにかぶせるように自分に言い聞かせる。 「別に、気まずいとか……お互い、大人だし。仕事だって普通にするし……」 そう言い聞かせるようにつぶやいた声は、静まり返った部屋の空気にすっと溶けていった。 けれど、言葉を重ねるたび、胸の奥にじわじわと空虚さが広がっていく。 ほんの少しの沈黙のあと、唐津は枕に顔を埋めたまま、ぼそっとひとこと。 「……夢だったってことに、ならねぇかな……」 叶わない願いだと、わかっている。腰の鈍痛が、その現実を何より雄弁に語っていた。 それでも、そう願わずにはいられなかった。 唐津は、痛む身体を持て余すように寝返りを打ち、ようやく瞼を閉じた。 奇妙で、こそばゆくて、どうにもやっかいな夜が、ようやく静かに終わろうとしていた。

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