38 / 59
第37話 跳ねた髪と静かな朝
唐津が薄明るい天井を見上げたまま、ごそりと体を起こすと、視界の端に人影が動いた。
カーテンの隙間から差す朝の光の中、漆原がスーツのシャツに腕を通している。髪はきちんと整えているようでいて、前髪の端がやや跳ねていた。それが、むしろいつも通りで、唐津はなんとなく安心した。
既にシャワーを浴びたらしく、濡れたタオルが椅子の背にかけられている。
漆原は唐津の視線に気づいたのか、ほんの一瞬こちらを見たあと、すぐに目を逸らした。
「……おはようございます」
わずかにかすれた声。
唐津も「ああ」と返したが、声がうまく出なかった。喉が渇いているだけじゃない。体のあちこちが、妙に重だるい。特に腰と、あまり人に言いたくない場所が、地味に痛んでいた。
――なんで俺が。
思わずそう口の中で呟いたが、声には出さなかった。
「朝、どうしますか」
漆原がそう言ったときも、唐津はしばらく黙っていた。
「……朝メシ行くか。さすがに、粉もんはもういいよな」
唐津はシャツを探しながら答えた。軽口のつもりだったが、どこか声に刺がなく、余韻のようなものが残った。
「……ですよね。昨日、けっこう食べましたし……」
漆原が応じながら、唐津の着替えの様子をちらちらと見ていた。視線の向け方がいつもと違う。気まずさと、気遣いと、それを隠すような遠慮が全部にじみ出ていて、唐津は思わずシャツを強めに引っぱった。
腕を通すたびに腰が痛み、顔をしかめそうになるのをこらえる。
スラックスのボタンを留めるときも、足を少し開いただけで股関節に鈍い違和感が走った。
「……唐津さん、平気ですか?」
漆原が、おそるおそる問いかけてくる。
「何が?」
「いや、ちょっと、動きが……重そうで」
「別に」
そっけなく返すと、漆原はそれ以上言わなかった。
沈黙が落ちる。重苦しいわけではないが、どちらも余計なことを言うのを避けている、そんな空気。
ネクタイを締めながら唐津は、漆原の髪が跳ねているのをもう一度見て、ふっと息を吐いた。
「おまえ、髪、寝癖じゃねえの?」
「……え、そうですか?」
漆原が慌てて鏡を見る。その後ろ姿に、唐津はようやく少しだけ笑った。
「いつも通りだな」
漆原は鏡越しにこちらをちらっと見たが、それ以上何も言わず、ただネクタイを結びなおした。
唐津は上着を肩にかけ、部屋の鍵を手に取る。
「行くぞ。朝メシ。魚がいいよな」
少し先を歩いてドアを開けた唐津の背に、漆原がわずかに肩をすくめる。
その後ろ姿を追いながら、漆原も部屋を出ていった。
***
ホテルを出てすぐ、唐津は「魚がいい」と言ったとおり、和定食が売りの老舗っぽい食堂を選んだ。朝のわりに繁盛していて、二人はカウンターの端に並んで腰を下ろす。
漆原は味噌汁をすすりながら、そっと唐津を見た。
普段よりも饒舌だった。
「ここの焼き鮭、脂のってるな。関西の味噌汁って、やっぱり甘いんだよ。知ってた? だしの取り方が違うんだよな。昆布の比率が高いとか聞いたっけ」
漆原は「へえ」と頷いたまま、箸を動かす。
会話が続かなくても、唐津はめずらしくしゃべり続けた。
「つーか、なんでこの時間に混んでんのかな。あ、これ、しば漬けじゃなくて奈良漬か。おまえ食う?」
「……あ、いただきます」
漆原は、差し出された奈良漬を箸で受け取りながら、どこか不思議な気分になっていた。
唐津がこんなふうに一方的にしゃべるのは珍しい。いつもの軽口ではあるけれど、どこか空回りしているようにも見える。
そして、ふと、思った。
これは、唐津なりの「気まずさ」の埋め方なのかもしれないと。
けれど、それがありがたいと感じる自分もいて。
漆原は、何も言わず、目の前の焼き魚に集中するふりをした。
***
新大阪駅のホーム。夏の陽射しが照り返す中、唐津は缶コーヒーを一本買って、漆原のぶんも黙って差し出した。漆原は受け取りながら、小さく礼を言う。
「……ありがとうございます」
「別に。おまえ、ブラックでいいんだっけ?」
「あ、はい」
新幹線の車内。窓際に唐津、通路側に漆原が並ぶ。
出発のアナウンスが流れる頃には、もう会話は止まっていた。
朝の食堂とは打って変わって、今度は唐津が無口だった。
喋りすぎた反動というより、どこか「言葉が尽きた」ような沈黙。
漆原は、何か言おうとして、やめた。
車窓を眺めながら、唐津が目を閉じてしまうのを見て、そのまま静かに身を引いた。
静かだった。車内も、二人の空気も。
だが、気まずいというほどではない。
唐津の肩が、途中で少しだけ漆原のほうに傾いてきたとき、漆原はそれに気づいたが、身じろぎせずに座り続けた。
***
東京に着いたのは、正午前。
駅の改札を出ると、ふわりとした湿気を含んだ風が頬をなでた。
大阪より、少し涼しい。
「……暑いけど、こっちのほうがまだマシか」
唐津がそう言うと、漆原も「ですね」と返した。
「タクシー乗るか? 」
「いえ、俺は電車で帰ります。荷物、少ないんで」
唐津は一瞬、何か言いかけて、それを飲み込んだ。
そのかわり、どこか穏やかな顔でうなずいた。
「……そっか。じゃあ、またな」
「はい。……お疲れさまでした」
会釈をして、漆原が改札のほうに歩きかけた、そのとき。
「おい」
背後から声をかけられ、漆原はふいに立ち止まる。振り返ると、唐津が、やや口の端を上げて、ほんのわずかに笑っていた。
「髪、まだ跳ねてるぞ」
漆原は、思わず手を伸ばして前髪に触れた。
たしかに、右側が少し浮いている。
「……直したつもりだったんですけど」
「そのままでいいよ。そっちのほうが、おまえらしいし」
漆原は返す言葉を見つけられないまま、ただ目を瞬いた。
唐津はそれ以上何も言わず、背を向けるとタクシー乗り場のほうへ歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、漆原もまた、人混みの中へと歩き出した。
胸の奥に、言葉にしようのない、あたたかくてくすぐったいものが残っていた。
――いつも通りには戻れないかもしれないけれど。
でも、たぶん、壊れたわけでもない。
そんなふうに思えた東京の午後だった。
ともだちにシェアしよう!

