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第37話 跳ねた髪と静かな朝

唐津が薄明るい天井を見上げたまま、ごそりと体を起こすと、視界の端に人影が動いた。 カーテンの隙間から差す朝の光の中、漆原がスーツのシャツに腕を通している。髪はきちんと整えているようでいて、前髪の端がやや跳ねていた。それが、むしろいつも通りで、唐津はなんとなく安心した。 既にシャワーを浴びたらしく、濡れたタオルが椅子の背にかけられている。 漆原は唐津の視線に気づいたのか、ほんの一瞬こちらを見たあと、すぐに目を逸らした。 「……おはようございます」 わずかにかすれた声。 唐津も「ああ」と返したが、声がうまく出なかった。喉が渇いているだけじゃない。体のあちこちが、妙に重だるい。特に腰と、あまり人に言いたくない場所が、地味に痛んでいた。 ――なんで俺が。 思わずそう口の中で呟いたが、声には出さなかった。 「朝、どうしますか」 漆原がそう言ったときも、唐津はしばらく黙っていた。 「……朝メシ行くか。さすがに、粉もんはもういいよな」 唐津はシャツを探しながら答えた。軽口のつもりだったが、どこか声に刺がなく、余韻のようなものが残った。 「……ですよね。昨日、けっこう食べましたし……」 漆原が応じながら、唐津の着替えの様子をちらちらと見ていた。視線の向け方がいつもと違う。気まずさと、気遣いと、それを隠すような遠慮が全部にじみ出ていて、唐津は思わずシャツを強めに引っぱった。 腕を通すたびに腰が痛み、顔をしかめそうになるのをこらえる。 スラックスのボタンを留めるときも、足を少し開いただけで股関節に鈍い違和感が走った。 「……唐津さん、平気ですか?」 漆原が、おそるおそる問いかけてくる。 「何が?」 「いや、ちょっと、動きが……重そうで」 「別に」 そっけなく返すと、漆原はそれ以上言わなかった。 沈黙が落ちる。重苦しいわけではないが、どちらも余計なことを言うのを避けている、そんな空気。 ネクタイを締めながら唐津は、漆原の髪が跳ねているのをもう一度見て、ふっと息を吐いた。 「おまえ、髪、寝癖じゃねえの?」 「……え、そうですか?」 漆原が慌てて鏡を見る。その後ろ姿に、唐津はようやく少しだけ笑った。 「いつも通りだな」 漆原は鏡越しにこちらをちらっと見たが、それ以上何も言わず、ただネクタイを結びなおした。 唐津は上着を肩にかけ、部屋の鍵を手に取る。 「行くぞ。朝メシ。魚がいいよな」 少し先を歩いてドアを開けた唐津の背に、漆原がわずかに肩をすくめる。 その後ろ姿を追いながら、漆原も部屋を出ていった。 *** ホテルを出てすぐ、唐津は「魚がいい」と言ったとおり、和定食が売りの老舗っぽい食堂を選んだ。朝のわりに繁盛していて、二人はカウンターの端に並んで腰を下ろす。 漆原は味噌汁をすすりながら、そっと唐津を見た。 普段よりも饒舌だった。 「ここの焼き鮭、脂のってるな。関西の味噌汁って、やっぱり甘いんだよ。知ってた? だしの取り方が違うんだよな。昆布の比率が高いとか聞いたっけ」 漆原は「へえ」と頷いたまま、箸を動かす。 会話が続かなくても、唐津はめずらしくしゃべり続けた。 「つーか、なんでこの時間に混んでんのかな。あ、これ、しば漬けじゃなくて奈良漬か。おまえ食う?」 「……あ、いただきます」 漆原は、差し出された奈良漬を箸で受け取りながら、どこか不思議な気分になっていた。 唐津がこんなふうに一方的にしゃべるのは珍しい。いつもの軽口ではあるけれど、どこか空回りしているようにも見える。 そして、ふと、思った。 これは、唐津なりの「気まずさ」の埋め方なのかもしれないと。 けれど、それがありがたいと感じる自分もいて。 漆原は、何も言わず、目の前の焼き魚に集中するふりをした。 *** 新大阪駅のホーム。夏の陽射しが照り返す中、唐津は缶コーヒーを一本買って、漆原のぶんも黙って差し出した。漆原は受け取りながら、小さく礼を言う。 「……ありがとうございます」 「別に。おまえ、ブラックでいいんだっけ?」 「あ、はい」 新幹線の車内。窓際に唐津、通路側に漆原が並ぶ。 出発のアナウンスが流れる頃には、もう会話は止まっていた。 朝の食堂とは打って変わって、今度は唐津が無口だった。 喋りすぎた反動というより、どこか「言葉が尽きた」ような沈黙。 漆原は、何か言おうとして、やめた。 車窓を眺めながら、唐津が目を閉じてしまうのを見て、そのまま静かに身を引いた。 静かだった。車内も、二人の空気も。 だが、気まずいというほどではない。 唐津の肩が、途中で少しだけ漆原のほうに傾いてきたとき、漆原はそれに気づいたが、身じろぎせずに座り続けた。 *** 東京に着いたのは、正午前。 駅の改札を出ると、ふわりとした湿気を含んだ風が頬をなでた。 大阪より、少し涼しい。 「……暑いけど、こっちのほうがまだマシか」 唐津がそう言うと、漆原も「ですね」と返した。 「タクシー乗るか? 」 「いえ、俺は電車で帰ります。荷物、少ないんで」 唐津は一瞬、何か言いかけて、それを飲み込んだ。 そのかわり、どこか穏やかな顔でうなずいた。 「……そっか。じゃあ、またな」 「はい。……お疲れさまでした」 会釈をして、漆原が改札のほうに歩きかけた、そのとき。 「おい」 背後から声をかけられ、漆原はふいに立ち止まる。振り返ると、唐津が、やや口の端を上げて、ほんのわずかに笑っていた。 「髪、まだ跳ねてるぞ」 漆原は、思わず手を伸ばして前髪に触れた。 たしかに、右側が少し浮いている。 「……直したつもりだったんですけど」 「そのままでいいよ。そっちのほうが、おまえらしいし」 漆原は返す言葉を見つけられないまま、ただ目を瞬いた。 唐津はそれ以上何も言わず、背を向けるとタクシー乗り場のほうへ歩き出した。 その後ろ姿を見送りながら、漆原もまた、人混みの中へと歩き出した。 胸の奥に、言葉にしようのない、あたたかくてくすぐったいものが残っていた。 ――いつも通りには戻れないかもしれないけれど。 でも、たぶん、壊れたわけでもない。 そんなふうに思えた東京の午後だった。

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