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第36話 熱の臨界
大阪出張の朝は、空気が重たかった。
前日、ふたりは早めに新大阪に入り、天満でお好み焼きをつついた。唐津が見つけてきた老舗の店で、鉄板から立ちのぼる香ばしいソースの匂いに誘われ、漆原は一応箸をつけたものの、味を覚えている暇などなかった。
「明日、俺から話します」
そう言ったのは、ホテルへの帰り道だった。
提案先は、関西の地場大手企業。M&A案件の本格的な交渉に入るための初回提案。先方には大阪支店長が同席するが、主戦は漆原の営業第一部。
「出たな、”漆原部長”の強気スタイル」
唐津がそう返したとき、漆原はふっと笑った。
「ええ。数字で黙らせます」
唐津はそれ以上何も言わなかった。夜風がぬるく吹き抜け、通りの街路樹がさやりと音を立てていた。
翌日、9時きっかりに取引先の応接室へ入る。スーツの袖口まで神経を張りつめさせた漆原は、ひと言も無駄にせず、ロジックと資料で押し切るスタイルを貫いた。
「現在の資本効率、ROICに対する正味のリスクプレミアムは、貴社にとって許容範囲を超えています」
「今後、競合が同種事業に進出する可能性も含めて、今が決断のタイミングです」
言葉が鋭く、容赦がない。そのプレッシャーに、相手の部長が思わず視線を落とした瞬間、唐津が口を挟んだ。
「ただ、我々としても、あくまで選択肢として提示しているだけです。御社の判断が最優先ですから」
唐津の声は柔らかいが、語尾に芯がある。笑顔の裏に、「でも本気でやれる用意はある」という意思が滲んでいた。
場の空気がほぐれ、再び漆原が一歩踏み込む。
まるでコンビプレーだった。
唐津のフォローを盾に、漆原が攻める。攻め過ぎないためのギリギリの緩衝材を唐津がつとめる。提案が終わるころには、相手の重役たちの表情は、警戒から納得へと変わっていた。
「では、前向きに検討させていただきます」
そのひと言が出た瞬間、漆原はようやく姿勢をゆるめた。
唐津が小さくうなずき、会議室の時計を見やる。
予定より30分、早く終わっていた。
**
提案の成功を受けて、夕刻からは大阪支店長による接待が始まった。
場所はミナミのど真ん中にある、カウンター席だけの串揚げ専門店。職人が一本ずつ揚げては皿に乗せてくれるスタイルで、老舗らしい趣がある。
「いやあ、まさに“数字の暴力”ってやつやな。いや、褒めてるで」
そう支店長に笑われたとき、漆原は一瞬目を伏せた。
「恐縮です」
隣で唐津が苦笑いしてグラスを掲げる。
「漆原の強さがちょうどいい緊張感を生んでましたね。僕も勉強になります」
「おたくら、ええコンビやねえ。部長二人、華があってええなあ」
ビールを飲み干した支店長は、串カツを二本追加しながら満足げに笑った。
漆原はあまり飲んでいなかった。食欲もなかった。戦闘モードのまま身体が切り替わっていない。グラスにはまだ最初のハイボールが残っていた。
だが唐津は違った。串揚げをひと通り楽しみ、ビール、チューハイ、ハイボールと順に飲み進めている。ときおり冗談を交えながら、支店長との距離感を自然に縮めていくのが巧い。提案のときの頼もしさとはまた違う、接待の顔だ。
(本当に器用な人だ)
漆原はその背中を、黙って見つめていた。
**
接待が終わったのは、夜10時過ぎだった。
「お先に、失礼します」
ホテルへ帰る流れになりかけたそのとき、唐津がぽつりと呟いた。
「もう一杯だけ、行くか」
支店長と別れ、ふたりで歩き出した。難波の喧騒を抜け、やや外れにある、照明を落としたジャズバー。ウイスキーの香りと低音のサックスが迎えてくれる。
席につくと、唐津は迷わずボウモアを頼んだ。
「ここ、前に来たことあるんですか?」
「いや。適当に歩いてたら、よさそうだった」
そう言って、唐津はグラスを傾ける。照明がその頬のラインに影を落とし、いつもの軽やかな印象とはまた違う表情がそこにあった。
漆原も、ようやく少し緊張がほどけた。
「……俺、今日ちょっと、強すぎましたよね」
「いや、あれでよかったと思う」
唐津は即答した。グラスの氷が静かに鳴る。
「相手もちゃんと刺さってた。だからこそ、俺が少し丸められたし。そういう役割分担だったってことじゃないか」
「……ありがとうございます」
唐津は、二杯目を注文した。グレンモーレンジのソーダ割。漆原はミネラルウォーターを口にしていた。
「飲まないのか?」
「……もう、ちょっと、きつくて」
「そっか。俺が飲むぶんには、許される?」
「もちろん。今日は、唐津さんがいなかったら無理でしたから」
そう言った漆原の声は、少しだけ柔らかかった。
しばらく、ふたりは無言で音楽を聞いた。カウンターの奥で静かに演奏が続いている。グラスの中で揺れる琥珀色を見つめながら、唐津はふと呟いた。
「……なんか、もう夏が終わる感じだな」
「ええ、そうですね」
会話がまた途切れる。
けれど、それは居心地の悪い沈黙ではなかった。ようやく、ふたりが肩の力を抜いて並んでいられる時間だった。
**
ホテルまでは、タクシーで戻った。
車内でも、ほとんど言葉はなかった。酔いが回ってきたのか、唐津はシートにもたれながら、ぼんやりと車窓を眺めている。
ホテルのエレベーターで上がり、部屋の前まで来て、ふたりとも自然と足を止めた。
唐津の部屋は手前。漆原の部屋はそのひとつ奥。
「……じゃあ、また明日」
漆原がそう言った時、唐津がふいに立ち止まり、振り向いた。
そのまま襟元をつかまれるように引き寄せられ、熱い唇が重なる。
じっとりと湿った夏の空気が、一瞬で沸騰した。最初は戸惑いが先に立ったが、舌先が触れ合った瞬間、互いの理性はあっさり焼き切れる。
角度を変え、さらに深く――呼吸を奪い合うたび、ふたりの胸が激しく上下した。漆原の背に回った唐津の手が、緊張なのか興奮か、かすかに震える。
止まれない。
唐津が息継ぎにわずかに唇を離すと、今度は漆原が首筋を甘く噛み、火照った吐息を吹きかけた。夜気の中に衣擦れと荒い呼吸が混ざり合い、薄闇がさらに濃くなる。
視線で合図し合うと、漆原が探り当てたドアノブを捻り、勢いのまま室内へ――閉まった扉の音さえ意識に届かない。
背中が壁に当たった瞬間、漆原は再び唐津の唇を奪った。
そのまま唐津の胸元を押し、足が自然に後ろへ下がる。
ベッドの縁に踵がぶつかり、唐津はバランスを崩してシーツの上へ倒れ込んだ。
腰のあたりに重みがかかる。
唐津は反射的に片肘をついて起き上がろうとしたが、その瞬間、両肩を漆原の手が押さえつけた。指の力は容赦がない。
視線を合わせる前に、漆原の低く掠れた声が落ちた。
「逃げるなよ」
息が詰まる。
命令のようで、しかしどこか懇願にも似た響きが耳に残る。
肩から伝わる圧が、背をシーツへと沈めていく。
唇が喉元に触れ、鎖骨へ、さらに下へ。
触れられた箇所だけが熱を帯び、そこからじわりと広がっていく。
抗おうとすればするほど、その熱が絡みついて離れない。
いつの間にか、シャツのボタンが外されていく感触があった。
指先が胸元から腹へと滑り、空気よりも熱い掌が肌をなぞる。
片手が、漆原の背へ回った。
押し返すためだったはずの動きが、気づけば支える形になっている。
「……好きです。本当に……好きだから」
耳元で囁かれた言葉が、熱を一段と濃くする。
返す言葉は出ず、代わりに背に沿って指が滑った。
触れられるたび、微細な震えが身体の奥にまで届き、呼吸が浅くなる。
深い口づけが繰り返され、境界が溶けていく。
短い息――そしてふっと力が抜け、全身がベッドに沈んだ。
夜の大阪は遠くでざわめいている。
しかしこの部屋には、二人の熱と鼓動しかなかった。
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