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第35話 衝動の温度
夏の終わりが近づいていた。
東京の夜は、昼間の熱気をじっとりと残しながらも、ほんの少し涼しさを感じさせる風が通り始めていた。湿度を含んだ空気が頬にまとわりつき、アスファルトの上に立ち込める生ぬるい空気が、季節の終わりをゆっくりと告げている。
唐津とふたりで飲みに行くのは、あのビアバーの夜以来、何度目かになる。
気まずさはもうなかった。業務中のやりとりも自然になり、唐津のまなざしにも、かつてのような距離は感じられなかった。とはいえ、どこか互いに様子をうかがっているような空気も、まだ残っていた。
踏み込めない一線が、目に見えない膜のように、静かにふたりの間に漂っている。
だから、ふたりで飲みに行くたびに、漆原は少しだけ期待した。そして、少しだけ肩透かしをくらったような気分で帰路につく。その繰り返しだった。
それでも、こうして唐津がまた「飲みに行こう」と言ってくれることが、今の漆原には嬉しかった。
その夜も、金曜の業務が落ち着いた頃に、唐津が「行くか」と一言声をかけてくれた。漆原は頷いて席を立つ。どこへ行くのかは訊かなかった。
店は、駅から少し離れた裏通りにある、スペインバルだった。こぢんまりとした店内には、ほどよい照明とラテン音楽のリズムが流れていて、厨房から漂うにんにくとオリーブオイルの香りが鼻腔をくすぐる。
「ハイボールでいいか?」
唐津の問いに、漆原はうなずく。
「はい。……あんまり強くないやつで」
「おう。じゃあ、軽めにしとくか」
そう言って唐津が頼んだのは、レモンの風味が強いハイボールと、イベリコ豚のグリル、アヒージョ、ポテトのアリオリソース。どれも漆原には縁遠いメニューだったが、唐津が美味いというなら間違いないのだろうと思った。
グラスが運ばれ、氷の音が耳に心地よく響く。軽く乾杯を交わし、唐津はぐい、と半分ほど一気に飲んだ。漆原は恐る恐る口をつける。シュワッとした炭酸と、レモンの香りが広がって、意外に飲みやすかった。
「ほら、食えよ」
アヒージョの小皿を押し出してくる唐津に、漆原は苦笑しながらフォークを手に取る。
「唐津さん、ほんとよく食べますね」
「食わないと動けねえだろ」
その言い方が唐津らしくて、漆原はどこか安心した。
「……俺、食べるの下手で。昔から、あんまり興味なかったんです」
「知ってる。でも、最近はちょっとは楽しんでるだろ」
「……そうかもしれません」
食べるという行為が、こんなふうに誰かと過ごす時間の一部になっていることに、漆原はようやく気づき始めていた。
料理をつまみながら、仕事の話やマーケットの話をぽつぽつと交わす。唐津は饒舌ではないが、投げられる言葉はどれも的確で、少ない語彙で状況を鋭く射抜いてくる。
三杯目のグラスが空になったころ、漆原はだいぶ酔いがまわっていた。視界が少しぼやける。だが、不快ではない。むしろ、ほんのりと火照った体が心地よい。
「そろそろ出るか」
唐津がそう言ったとき、漆原は少し残念に思ってしまった自分に驚いた。
支払いを済ませて外に出ると、湿った夜風が頬を撫でた。街灯の下、コンクリートがうっすらと光を反射している。
「駅、こっちだよな」
唐津の声に、漆原は「はい」と応え、後ろについて歩き出す。
途中、ふと人気のない路地に入った。細く曲がりくねったその道は、街灯もまばらで、足元に湿気を含んだ夜の匂いが漂っていた。
アスファルトは湿っていて、空気はさらにじっとりと重たくなった。街灯は少なく、足元に落ちる影が長くのびていた。
漆原は、何も言わずにその後をついていった。酔いのせいか、それとも夜の気配のせいか、ふわふわと地面から足が離れていくような感覚があった。
数歩進んだところで、ふたりの足が自然と止まった。
唐津が振り返るわけでもなく、漆原が声をかけるわけでもない。ただ、どちらからともなく立ち止まり、その場に静けさが降りた。
しばらくの沈黙のあと、唐津がゆっくりと横を向く。
漆原も自然と顔を上げ、その視線を受け止めた。
街灯の淡い光のなかで、唐津の目だけがくっきりと見えた。
何も言わないまま見つめ合って、言葉の代わりに呼吸の間合いを確かめるような、そんな時間が流れる。
ふと、漆原の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
もう、わからなかった。
自分の気持ちも、この人の表情も。
でも、このまま終わってほしくなかった。
無意識に伸びた手が、唐津の腕に触れた。
手のひらが、夏の終わりの熱を帯びた皮膚に触れた瞬間、唐津がわずかに目を見開いた。
たったそれだけで、もう抑えきれなかった。
次の瞬間、漆原の唇は唐津の唇に触れていた。
キスだった。
それは、熱を持ちながらも、どこか祈るような静けさを孕んでいた。
まるで何かを壊さずに、ただ確かめたくて触れたような――そんなキスだった。
唐津は何も言わなかった。
拒むことも、驚いて身を引くこともなかった。
ただ、そこにいてくれた。
それだけで、漆原のすべてが満たされそうになった。
数秒のキスのあと、漆原が身を離すと、唐津は一言も発さず、ほんの少しだけ笑った。驚きでも、嘲りでもなく。許しでもなかったけれど、拒絶では決してなかった。
「……もう、タクシー拾うか」
漆原はこくりと頷いた。
そのまま、ふたりで無言のまま大通りまで出る。タクシーを拾う直前、唐津が振り返った。
「じゃあな」
「……お疲れさまでした」
唐津が乗ったタクシーが走り去るのを見送りながら、漆原はしばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥が熱かった。
なぜあんなことをしたのか、自分でもわからない。
後悔と、安堵と、期待と。
全部がぐちゃぐちゃに混ざって、感情の輪郭が曖昧になる。
でも。
(あの笑い方は……俺を突き放した顔じゃなかった)
それだけが、唯一の救いだった。
湿気を含んだ夜風が、熱の残る頬をそっと撫でていった。
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