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第34話 ちゃんと、味がする
漆原が久しぶりに唐津と二人で飲みに行くことになったのは、ある金曜の夕方だった。
日中は普段通り、いや、むしろ普段以上に冷静に業務をこなしていた。けれど、内心はずっとそわそわしていた。
最近の唐津は、以前のような無遠慮な親しさこそ見せなかったものの、自然に接してくることが増えた。
廊下での軽い雑談や、業務チャットに添えられた短い言葉のトーン。あれだけ距離を感じていた数週間前と比べれば、ずいぶん違っていた。
──たぶん、戻りつつある。
そう思いたかった。けれど、それが“何に”戻るのか、漆原自身もうまく言葉にできなかった。
「今日、少し飲みに行くか」
夕方、部署の片づけをしていたとき、唐津がふいに声をかけてきた。
「……俺とですか?」
「他に誰がいんだよ」
肩の力が抜けたような笑い方をする唐津に、漆原は思わず口の端を緩めた。
「はい。……行きます」
店は、オフィスから徒歩圏内にあるビアバーだった。
テラス席には小さなライトがともり、蒸し暑い夜風の中、グラスに注がれたビールが泡をきらきらと反射させていた。
金曜の夜、席はほとんど埋まっていたが、予約をしていたらしく、彼らは端の落ち着いた席に通された。
隣のテーブルとの距離もあり、静かに話すにはちょうどいい空間だった。
「とりあえず、乾杯だけしとくか」
そう言って唐津がグラスを差し出す。
漆原もグラスを手に取った。
「……お疲れさまでした」
軽く触れ合ったガラスの音が、妙に澄んで聞こえた。
最初のうちは他愛のない話をした。
最近のマーケットの話。別部署の課長が企画を通せず詰められたという噂。
フライドポテトとビールを交互に口に運びながら、漆原はどこか現実感のない時間を過ごしていた。
不思議と、緊張はしていなかった。
けれど、心のどこかでずっと構えていた。
いつか“あの話”が出るのではないか、と。
唐津は、唐津らしく振る舞っていた。
無理に明るくもなく、重くもなく。
けれど、どこか様子を見ているようでもあった。
「なあ」
グラスの三杯目に差し掛かる頃、ふいに唐津が言った。
漆原は身構えたわけではないが、自然と背筋が伸びた。
「最近、少しずつ元に戻ってきた気がするな。お前とも」
「……そうですね」
「ありがとな。まだ距離あるの、たぶん俺のせいだろうけど」
その言い方があまりにもまっすぐで、漆原は言葉に詰まった。
「いや……俺こそ、いろいろ、すみませんでした」
「謝らなくていいよ。俺の方も──うまく向き合えなかったんだと思う」
唐津はグラスの残りを飲み干し、少し黙った。
夜風がテラスのガラスを震わせ、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
その音が消えた頃、唐津はゆっくり言葉をつないだ。
「正直なこと言うとさ。……あの夜のこと、俺、何がどうなってるのかよくわからなかったんだ」
漆原は、咄嗟に視線を落とした。
それでも、胸の奥がきゅっと音を立てたような気がした。
「でも、忘れたわけじゃない。……ずっと、覚えてた」
唐津の声は、いつものように落ち着いていた。
責めるでもない、問い詰めるでもない。ただ、静かだった。
「お前のことが気になる。……それは、間違いないと思う。
でもな、気になるって言葉が、どこまでの意味を持ってるのか、俺自身まだ整理がついてない」
唐津が漆原を見た。
「でも、ちゃんと考えたいと思ってる。逃げずに。……だから、時間をくれ」
その一言が、思っていたよりも柔らかく、けれど確かに胸の奥に届いた。
漆原は、一瞬だけ返事を迷った。
──そうか。ちゃんと、向き合おうとしてくれてるんだ。
思っていたよりも、唐津は誠実だった。
いや、もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。
自分が勝手に、期待して、焦って、壊しただけで。
気づけば、グラスの中のビールはもうぬるくなっていた。
「……ありがとうございます」
それが、漆原の精一杯だった。
「待ちます。俺も、もうちょっとだけちゃんと向き合えるようになりたいんで」
唐津は、少しだけ微笑んだ。
その笑みが、あまりにも優しくて、漆原は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
救われた。
本当に、そう思った。
一人で空回って、一人で失敗して、一人で落ち込んで。
その繰り返しだったここ時間に、ようやく終わりが見えた気がした。
「……物好きですね。こんな面倒なやつと飲みに来るなんて」
冗談めかして笑いながら言ったが、どこか本音が滲んでしまった。
唐津は、ポテトをつまんでから、ふっと笑った。
「おまえといると、味がするからな。飯でも酒でも、なんかちゃんと味わえる気がする」
その言葉に、漆原は一瞬、呼吸を忘れた。
「……味、ですか?」
「そう。何食っても、ちゃんと“うまい”って思える」
まっすぐでも、押しつけがましくもない。
けれど確かにそこにある、唐津の言葉。
(俺といると、味がする……)
どうしようもなく、不器用なその言葉が、漆原の胸の奥に染み込んでいくようだった。
帰り道。
繁華街のネオンが夜の空気を照らしていた。
肩がぶつかりそうな距離で歩く帰り道は、昔と同じで、少しだけ違っていた。
唐津は、まっすぐ前を見ていた。
漆原は、ふとその横顔を見た。
そして、もう少しだけこの夜が終わらなければいいのに、と思った。
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