35 / 59

第34話 ちゃんと、味がする

漆原が久しぶりに唐津と二人で飲みに行くことになったのは、ある金曜の夕方だった。 日中は普段通り、いや、むしろ普段以上に冷静に業務をこなしていた。けれど、内心はずっとそわそわしていた。 最近の唐津は、以前のような無遠慮な親しさこそ見せなかったものの、自然に接してくることが増えた。 廊下での軽い雑談や、業務チャットに添えられた短い言葉のトーン。あれだけ距離を感じていた数週間前と比べれば、ずいぶん違っていた。 ──たぶん、戻りつつある。 そう思いたかった。けれど、それが“何に”戻るのか、漆原自身もうまく言葉にできなかった。 「今日、少し飲みに行くか」 夕方、部署の片づけをしていたとき、唐津がふいに声をかけてきた。 「……俺とですか?」 「他に誰がいんだよ」 肩の力が抜けたような笑い方をする唐津に、漆原は思わず口の端を緩めた。 「はい。……行きます」 店は、オフィスから徒歩圏内にあるビアバーだった。 テラス席には小さなライトがともり、蒸し暑い夜風の中、グラスに注がれたビールが泡をきらきらと反射させていた。 金曜の夜、席はほとんど埋まっていたが、予約をしていたらしく、彼らは端の落ち着いた席に通された。 隣のテーブルとの距離もあり、静かに話すにはちょうどいい空間だった。 「とりあえず、乾杯だけしとくか」 そう言って唐津がグラスを差し出す。 漆原もグラスを手に取った。 「……お疲れさまでした」 軽く触れ合ったガラスの音が、妙に澄んで聞こえた。 最初のうちは他愛のない話をした。 最近のマーケットの話。別部署の課長が企画を通せず詰められたという噂。 フライドポテトとビールを交互に口に運びながら、漆原はどこか現実感のない時間を過ごしていた。 不思議と、緊張はしていなかった。 けれど、心のどこかでずっと構えていた。 いつか“あの話”が出るのではないか、と。 唐津は、唐津らしく振る舞っていた。 無理に明るくもなく、重くもなく。 けれど、どこか様子を見ているようでもあった。 「なあ」 グラスの三杯目に差し掛かる頃、ふいに唐津が言った。 漆原は身構えたわけではないが、自然と背筋が伸びた。 「最近、少しずつ元に戻ってきた気がするな。お前とも」 「……そうですね」 「ありがとな。まだ距離あるの、たぶん俺のせいだろうけど」 その言い方があまりにもまっすぐで、漆原は言葉に詰まった。 「いや……俺こそ、いろいろ、すみませんでした」 「謝らなくていいよ。俺の方も──うまく向き合えなかったんだと思う」 唐津はグラスの残りを飲み干し、少し黙った。 夜風がテラスのガラスを震わせ、遠くで救急車のサイレンが聞こえた。 その音が消えた頃、唐津はゆっくり言葉をつないだ。 「正直なこと言うとさ。……あの夜のこと、俺、何がどうなってるのかよくわからなかったんだ」 漆原は、咄嗟に視線を落とした。 それでも、胸の奥がきゅっと音を立てたような気がした。 「でも、忘れたわけじゃない。……ずっと、覚えてた」 唐津の声は、いつものように落ち着いていた。 責めるでもない、問い詰めるでもない。ただ、静かだった。 「お前のことが気になる。……それは、間違いないと思う。 でもな、気になるって言葉が、どこまでの意味を持ってるのか、俺自身まだ整理がついてない」 唐津が漆原を見た。 「でも、ちゃんと考えたいと思ってる。逃げずに。……だから、時間をくれ」 その一言が、思っていたよりも柔らかく、けれど確かに胸の奥に届いた。 漆原は、一瞬だけ返事を迷った。 ──そうか。ちゃんと、向き合おうとしてくれてるんだ。 思っていたよりも、唐津は誠実だった。 いや、もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。 自分が勝手に、期待して、焦って、壊しただけで。 気づけば、グラスの中のビールはもうぬるくなっていた。 「……ありがとうございます」 それが、漆原の精一杯だった。 「待ちます。俺も、もうちょっとだけちゃんと向き合えるようになりたいんで」 唐津は、少しだけ微笑んだ。 その笑みが、あまりにも優しくて、漆原は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。 救われた。 本当に、そう思った。 一人で空回って、一人で失敗して、一人で落ち込んで。 その繰り返しだったここ時間に、ようやく終わりが見えた気がした。 「……物好きですね。こんな面倒なやつと飲みに来るなんて」 冗談めかして笑いながら言ったが、どこか本音が滲んでしまった。 唐津は、ポテトをつまんでから、ふっと笑った。 「おまえといると、味がするからな。飯でも酒でも、なんかちゃんと味わえる気がする」 その言葉に、漆原は一瞬、呼吸を忘れた。 「……味、ですか?」 「そう。何食っても、ちゃんと“うまい”って思える」 まっすぐでも、押しつけがましくもない。 けれど確かにそこにある、唐津の言葉。 (俺といると、味がする……) どうしようもなく、不器用なその言葉が、漆原の胸の奥に染み込んでいくようだった。 帰り道。 繁華街のネオンが夜の空気を照らしていた。 肩がぶつかりそうな距離で歩く帰り道は、昔と同じで、少しだけ違っていた。 唐津は、まっすぐ前を見ていた。 漆原は、ふとその横顔を見た。 そして、もう少しだけこの夜が終わらなければいいのに、と思った。

ともだちにシェアしよう!