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第33話 失うことに慣れていた

八月のある日。 東京の空は曇っていた。 真夏の刺すような日差しはやや和らいだが、空気は重く湿っていて、オフィスの窓越しに広がる景色もどこかぼんやりと滲んで見えた。 複数部署を巻き込んだ大型案件を、営業第一部が獲った。 劇的な勝利から数日。 フロントに立った漆原の高圧営業は鬼気迫るものがあり、契約を一気にまとめたその姿に、社内外から称賛の声も上がった。 しかし。 その空気は長くは続かなかった。 「営業第一部って、ちょっと強引だよね」 「漆原部長、あのやり方で行くのはさすがに……」 会議室でも廊下でも、聞こえるか聞こえないかのギリギリで、そうした言葉がささやかれていた。 実際、マーケ部や法務部、地方の営業所からはクレームに近い相談も寄せられたらしい。 漆原は、それを冷静に受け止めるふりをした。 眞壁たちも何も言わないが、少し前よりぎこちない。 部下たちの空気が変わった。部全体が、どこか社内で浮いていた。 (俺がとった数字なのに、誰も手放しで喜ばない) (やっぱり俺は、数字でしか価値がない) デスクに腰を据え、モニターを睨みつける。 昼を過ぎても食事をとらず、傍らにあるのは、特茶とコンビニのレジ横で買ったチョコレートバーだけ。 甘い、でも最近は味もよくわからない。 ──そうでもしないと、張り詰めた自分を保てない気がしていた。 唐津とは、あれからほとんど言葉を交わしていない。 挨拶と業務連絡だけ。必要最低限。 自分から歩み寄る理由も、勇気も、持ち合わせていなかった。 あの日、祝勝会の直後に会議室に呼び出された。 「数字はすごかった。だが、社内への配慮が足りなかった。信頼のために動くべきだった」 「俺は、数字のためだけには動かない。信頼のために動く」 唐津の言葉は、今でも胸に残っている。 (全部、正論だった。……でも、あのやり方でしか勝てなかったんです) (俺には、それしかなかった) 一人になった夜のオフィスで、冷めた特茶を口にしながら何度も思った。 悔しさと寂しさと、自分に向けた怒りと。 その日の深夜、ふいに唐津が現れて「手伝おうか」と言ってくれた。 漆原は反射的に「要りません」と答えてしまった。 あれが、最後のチャンスだったのかもしれない。 唐津の背中がドアの向こうに消えていった光景を、今でもはっきり覚えている。 昼休み。 空腹を感じる暇もないまま、漆原はメールチェックとグラフ修正を繰り返していた。 思考はまとまらず、数字だけがかろうじて自分を繋ぎとめてくれているようだった。 「漆原」 その声に顔を上げると、唐津が立っていた。 「……はい」 「昼、空いてるか?」 一瞬の沈黙。 そして、小さく頷いた。 「……大丈夫です」 唐津はそれ以上何も言わず、背を向けて歩き出す。 漆原はわずかに遅れて、その後を追った。 連れて行かれたのは、会社近くの定食屋だった。 以前、偶然ばったり会って「おまえ甘いの好きだよな」と唐津に笑われたことのある店だ。 カウンター席に並んで座り、唐津がメニューを渡してくる。 「ちゃんと食えよ。……プロテインバーだけじゃ、体もたねぇだろ」 その言葉に、漆原は不意を突かれたように固まった。 (見てたんだ……) なぜか、少しだけ涙がにじみそうになった。 味噌汁の湯気が目にしみるふりをして、視線を落とす。 箸を取って、ゆっくりと米を口に運ぶ。 なんでもない定食が、こんなにも温かくて、優しかった。 唐津は、黙って自分の定食を食べていた。 急かすでもなく、見つめるでもなく、ただ隣にいる。 その距離感が、やけにちょうどよかった。 「最近、寝れてるか?」 ふいに、唐津が尋ねた。 「……まあ、それなりに」 曖昧に答えると、唐津はふっと息をついた。 「無理はすんなよ。見てて思ったけど……お前、全部自分で抱えすぎなんだよ」 その声に、漆原の箸が止まった。 「……抱えてないです。俺には、数字しかないんで」 言ったあと、自分の声がやけに乾いて聞こえた。 いつものように感情を押し殺して、事実だけを述べるつもりだったのに、語尾がかすかに震えていた。自分でも気づいていた。 唐津がすぐには返事をしなかったことが、余計にその揺らぎを際立たせた。 「……そうか」 ようやく出てきた唐津の声は、驚くほど優しかった。 責めるでもなく、否定するでもなく、ただ穏やかに、そばに寄り添うような声音だった。 「……でも、こうして飯、食ってるだろ。ちゃんと」 唐津はそう言って、味噌汁の碗を手に取った。 湯気の向こうからこちらを見つめるその視線は、強くも優しく、まっすぐに心の奥へと届いてくるようだった。 気休めじゃない。ただ見てくれている、そんな目だった。 「数字しかないって言うけど、俺には……お前がそれだけにしがみついてるようにしか見えない。ほんとは、数字“だけ”じゃ、足りないんじゃないのか」 漆原の手が、箸の上でぴたりと止まった。 そのまましばらく動かせなかった。 (足りない──) その言葉が、やけに胸に刺さった。 図星だった。図星すぎて、息がつまった。 喉の奥に何かがせり上がってくるような、妙な感覚。 (足りない。……でも、他に何を信じたらいいのか、わからない) 顧客にも、上司にも、後輩にも。 うまくいかないことの方が多かった。 成果が出なければ、評価も信用も消えていく。 だからこそ、数字だけが、自分を守ってくれると思っていた。 「……そうかもしれません」 かろうじて絞り出したその声は、かすかにかすれていた。 「でも、それ以外に……どうすればいいか、わからないんです。俺には、他に……」 そこで言葉が切れた。 言いかけて、止めた。 唐津の前で、自分がこんなにも脆いことを、気づかれたくなかった。 唐津は少しだけ笑って、目線を落とした。 そして、ほんの少しだけ身体をこちらに寄せて言った。 「わからなくてもいいよ、今は。それでも、誰かと一緒に飯を食うだけでも、たぶん違う」 「……はい」 その「はい」には、これまでのどの返事よりも、感情がこもっていた。 言葉を尽くすことはできない。 でも確かに、あたたかいものが胸の奥に灯っていた。 唐津は、それ以上何も言わなかった。 ただ静かに、自分の残りを食べ終え、最後に「ごちそうさん」とだけ呟いた。 漆原は、心の奥で何かがほどけていくのを感じていた。 張り詰めた緊張が、ゆっくりと解けていく感覚。 数字では得られなかった、けれど確かに自分を肯定してくれる何かが、そこにあった。

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