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第32話 勝者の代償

八月半ば、東京。 夜になっても気温は下がらず、湿った空気が高層ビルの谷間に滞留していた。 漆原の営業第一部がフロントを務めた大型案件が決まったのは、ほんの数日前のことだった。 複数部署をまたぎ、各地の拠点まで巻き込む重要案件。 役員指示で始動し、初動から社内でも注目度の高いプロジェクトだった。 一歩間違えれば部全体の評価に響く、そんな緊張感があった。 ──だからこそ、彼は勝ちにいった。 「これで押します。タイミングを逃せば、先方の熱も冷めてしまいます」 ミーティングの席で、漆原は静かに言い切った。 その目は鋭く、周囲の温度を下げるほどの迫力があった。 言葉数は少ないが、目の奥にははっきりとした決意があった。 調整は、最低限。 説明は、結果が出てから。 現場の熱量を信じ、スピードで競合を出し抜く──それが、漆原の選んだ戦略だった。 結果は、勝利だった。 強力な競合もいたなかで、顧客からの信頼を獲得し、即決に持ち込んだ。 担当役員からは称賛とともに豪勢な接待を受け、漆原の上司である本店長も笑顔だった。 だが、その裏で──社内には明確に“ひずみ”が残った。 「聞いてない」「調整されていない」「どうして自分たちが蚊帳の外なんだ」 マーケティング、商品開発、法務、営業戦略部…… どの部署からも、不満と混乱の声が噴き出した。 全体をなだめ、歩いて回っていたのは、提案の相棒役である営業戦略部、その部長の唐津だった。 漆原が走ったあと、各所に頭を下げ、資料を持ち、説明を重ねてまわる。 一言でいえば、尻拭いだった。 けれど、唐津はその言葉を一度も使わなかった。 ただ黙々と、丁寧に、静かに頭を下げ続けた。 営業部の打ち上げは、その週の金曜に開かれた。 関連部署の責任者も招かれ、高層ビル内の中華料理店を貸し切った祝勝会。 だが、どこか空気は重かった。 「唐津さん、乾杯……しないんですか?」 若手が聞いたが、唐津は「まあ、適当にな」と笑ってごまかした。 そして漆原と唐津は、最初から最後までひと言も交わさなかった。 唐津は中ほどの席で、若手と談笑していた。 漆原は少し離れた隅の席で、眞壁とぽつぽつ会話をしていた。 「……部、俺が隣でいいんですか?」 「え?」 「いや、もっと……誰か他に話しやすい人とか」 眞壁が気遣うように笑った。 漆原は、ふと視線を唐津のほうに向けてしまい、慌てて戻す。 「別に、付き合わせたいわけじゃ……」 「いやいや、俺、こういう場そんなに得意じゃないんで。安心します」 眞壁の言葉に、少しだけ救われた気がした。 だが──本当は、誰より苦手なのは自分だった。 いつもなら、唐津がうまく場を繋いでくれていた。 さりげなく話をふり、水を向け、周囲と漆原をつないでくれた。 無理に盛り上げようとせず、けれどちゃんと視線を向けてくれていた。 思い出すと、胸が苦しくなった。 「……数字がすべてなんだ」 自分がそう思い込もうとしていることにも、薄々気づいていた。 ただ、誰かの理解や共感に頼るのが怖かっただけだ。 いつか失うくらいなら、最初から期待しないほうがいい。 ──そう思っていたのに。 「漆原、少し時間くれないか」 飲み会の翌週、唐津にそう言われ、オフィスの会議室へ呼ばれた。 夜九時過ぎ。フロアは静かで、ガラス越しの夜景が滲んで見えた。 唐津は、テーブルの向こう側に立ったまま、切り出した。 「件の案件、まずはよくやってくれた。競合を抑えたことも含めて、評価されてる」 「……ありがとうございます」 「でもな」 その声のトーンが、少しだけ低くなった。 「正直、やり方には問題がある。俺が社内を回って、ずいぶん怒られたよ」 漆原は黙った。 「マーケも、商品部も、戦略部も……誰も話を聞かされていなかった。 “終わったあとに知らされた”って感覚だと、信頼は残らない。次に繋がらない」 唐津は、あくまで淡々と話す。責めるような口調ではなかった。 だからこそ、胸に刺さった。 「数字がとれなければ、意味がないと思いました」 漆原は目を伏せたまま、静かに言った。 「数字をとらなければ、俺の価値はない。そう思っていました」 「……漆原」 唐津は名前を呼んだが、その先の言葉が出なかった。 「どれだけ調整しても、どれだけ根回ししても、負けたら全部無駄になる。  ──そうじゃないですか?」 一瞬、唐津の顔に何かが浮かび、そしてすぐに消えた。 「……俺は、数字のためだけには動かない。信頼のために動く」 その言葉に、漆原は唇を噛んだ。 「唐津さんは、強いですね」 唐津は答えなかった。 「……失礼します」 立ち上がって頭を下げた漆原を、唐津は追わなかった。 会議室を出たあと、背中の奥で「もういいよ」という声が聞こえた気がした。 それからの日々、漆原は自分を追い込むように働いた。 特茶とプロテインバーだけを流し込み、深夜まで資料を作り続けた。 チャットを返す手は早く、口数は少なく、部内でも明らかに“近寄りがたい”存在になっていた。 週の半ば、出張帰りの唐津が戻ってきたのは、夜十時を回った頃だった。 オフィスには漆原ひとり。外は雷鳴が響きはじめていた。 「……まだいたのか」 唐津の声が、背後からかけられた。 振り返ると、シャツの袖をまくった唐津が、少し濡れた髪をかき上げて立っていた。 「資料の修正を……していて」 「……体、大丈夫か?」 その問いに、漆原は一瞬だけ視線を揺らし、すぐにそらした。 「問題ありません」 「……手伝うか?」 その言葉に、思わず胸が詰まった。 「……いえ、大丈夫です」 唐津は何か言いかけたが、やめた。 「……そうか」 数歩歩いた唐津が、ふと振り返る。 「……お疲れ」 「……お疲れさまです」 言葉を交わしたのは、それだけだった。 唐津が去ったあと、漆原は席に戻り、ふと深く息を吐いた。 いつもの椅子。いつもの資料の山。 でも、胸のどこかが、ぽっかりと空いていた。 数字をとっても、失うものがある。 努力しても、取り戻せないものがある。 その事実を、漆原は初めて真正面から受け止めたような気がした。 プロテインバーの包装紙を開きかけて、手が止まる。 いつもなら無機質に飲み込んでいたはずの味が、今日はやけに虚しく思えた。 静まり返ったオフィスのなかで、漆原はただひとり、膝に手を置いて座っていた。

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