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第31話 触れられない場所
八月の朝。
空は白く霞んでいて、湿った空気がスーツの裾にまとわりつくようだった。
いつも通り、出社して、端末を立ち上げて、朝礼資料に目を通す。
コピー機の音、誰かが椅子を引く音、電話が鳴る音。
──日常。
部長としての漆原の一日は、慌ただしい。
営業数字の進捗管理、提案資料のレビュー、若手の面談に、関係部署との調整。
立ち上がるたびに誰かに呼び止められ、戻るたびにチャットが積まれている。
けれど、そういう「役割」に救われてもいる。
意識的に身体を動かし、目の前のことに集中することで、考えないようにしているのだ。
火曜以降、唐津との距離が明らかに変わった。
月曜の朝は、まだ普通だった。
「これ、提案先の資料です」「ありがとう、早いな」
そんなやり取りをして、デスクの間を往復した。
唐津は、どこかぼんやりしてはいたが、それでもいつも通りだった。
気まずさも、よそよそしさも、決定的なものではなかった。
それが、火曜の朝。
出社して視線が合ったその瞬間──唐津は、ほんのわずかに目を逸らした。
たったそれだけだった。
でも、全身が冷えた。
(……やっぱり)
戸惑っている、というのはすぐにわかった。
あの人は優しいから、無下にしたりはしない。けれど、曖昧なまま近づくこともできない。
その不器用さが、余計に刺さる。
自分がそうさせたのだとわかっているのに、
思考はぐるぐると同じところを巡り続けた。
仕事では、今までと変わらないようにふるまった。
案件で確認すべき点をリストアップし、数字を分析し、次の提案に向けての仮説を整理する。
眞壁の質問に答え、若手の相談に耳を傾けた。
「やっぱ、部長って、そういうとこっすよね」
「どこ?」
「いや、理詰めで、でもちゃんと熱もある感じ。バランスっすよ、バランス」
「……ありがとう」
笑って返す。
部下としての眞壁の評価に恥じないように、理知的な部長であり続けた。
でも、唐津の姿を見つけるたびに、どこか身体の奥がざわつく。
あの人がこちらに目を向けないたびに、胸のなかに小さなざらつきが増えていく。
木曜には、提案資料のレビューで意見が食い違った。
唐津の修正指示は的確だったが、どこか冷たかった。
(いつもなら、言い方が違ったのに)
あの人は、必要なときには鋭いことを言うが、それでも言葉の端に柔らかさがあった。
今回は、それすらなかった。
(……分かってる。全部、自分がやったこと)
それでも、傷つく。
そして金曜日。
営業戦略部との合同打ち上げ。
唐津は、奥のテーブルにいた。
若手に囲まれ、場を回しながら笑っている。
ネクタイを少し緩め、グラスを傾けて、自然体で場を支配していた。
その姿を、漆原は少し離れた端の席から見ていた。
話題は、今期の反省や顧客との面白エピソード。
部内の女性社員が「部長、あのときすごかったですよね」と笑いながら話しかけている。
その隣で、本堂が調子に乗って同調しているのが聞こえた。
(……わかるよ)
漆原は、苦く思う。
唐津のその魅力は、誰だって好きになる。
一緒に仕事をしたら、誰だって惹かれる。
それが、他の誰かでも、おかしくない。
でも──自分も、その「誰か」のひとりだった。
だからこそ、今の笑顔を見るのが、少しだけ、つらい。
眞壁が気を遣ったのか、漆原の隣の席にやってきた。
気の利いた話題を提供しようとするが、漆原の反応が薄いため、やがてふたりでぽつぽつと仕事の話に戻る。
「……すみません。なんか、付き合わせてしまって」
眞壁が苦笑しながら言う。
「いや、ありがとう。助かってる」
それは本心だった。
けれど、どこかで自分自身が場に馴染めていないことにも、うすうす気づいていた。
こういう飲み会は、あまり得意ではない。
輪に入るのが遅れて、会話のテンポに追いつけず、どこか居場所を探してしまう。
思い出す。
以前の飲み会で、やはりひとり取り残されかけたとき。
「漆原、おまえここ来い」と唐津がさりげなく席を詰め、間に入れてくれたことがあった。
それが自然すぎて、周囲にも違和感を与えず、
でも、ちゃんと救われた。
あのぬくもりが、ふいに胸に蘇って、息が苦しくなる。
飲み会が進み、グラスが何杯目か分からなくなっても、唐津はこちらに視線を向けなかった。
話しかけられることもなく、話しかけることもできなかった。
(結局、そういうことなんだろうな)
唐津のことを嫌いになったわけじゃない。
でも、近づけなくなった。
あの人は、戻ろうとしている。
「なかったこと」にしようとしている。
そのやり方が優しさだと、わかっている。
でも、自分はそこまで強くない。
最後の一本を飲み干し、早めに席を立った。
何人かに軽く頭を下げ、「お先に」と言って店を出る。
駅までの帰り道、東京の夜はまだ蒸し暑く、湿気が喉に張り付いてくる。
横断歩道の向こうに、唐津らしき背中が見えた気がした。
でも、追わなかった。
もう、これ以上期待したくなかった。
(俺のことなんて、見てないんだよ)
そう言い聞かせて、真っ直ぐ駅へと歩いた。
足音だけが、やけに大きく響いていた。
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