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第30話 触れた熱は、まだ
八月初旬、東京。
梅雨は明けたはずなのに、どこか重たい湿気が空気に残っていた。唐津は、地下鉄の改札を抜け、いつものビルに入る。エントランスでは、夏らしく軽装の社員たちが足早に通り過ぎていく。空調の効いたロビーの涼しさが、逆に外気との温度差で体の芯をだるくさせた。
出張から戻って数日。日常のペースは変わらず流れている。
だが、その「日常」は、確かに少しだけ、何かが変わっていた。
──あの夜のキス。
きっかけも、理由も、いまだにうまく説明がつかなかった。
(……間違えた、って言ったけど)
あれが「間違い」だったのかどうかすら、自分でもわからない。
ただ、唇に触れた感覚と、漆原の静かなまなざしだけが、ずっと唐津の中に残っていた。
エレベーターで部署のあるフロアへ。オフィスに入ると、いつものメンバーがそれぞれの席に散っている。夏休み前ということもあり、スケジュール調整や案件の締め切りで、どこも慌ただしい空気だった。
漆原は、営業戦略部の奥、いつもの席で静かにパソコンに向かっていた。
視線が、ふと交差する。
漆原はほんの一瞬、目を合わせて──すぐに逸らした。
その反応に、唐津は少しだけ、胸がざらつくのを感じる。
(……だよな)
出張から戻った月曜は、案外普通に言葉を交わした。
仕事の報告や案件の整理。いつもと変わらぬ口調で、むしろ少し安心したほどだった。
けれど──火曜以降、何かが明らかに変わった。
報告のタイミングは完璧だし、資料の精度も高い。
けれど、目は合わない。ほんのわずかに躊躇うような間があって、それが唐津には痛いほどよくわかる。
(明らかに、意図的に距離を取ってる)
「唐津さん、これ、今週の案件まとめです」
昼前、漆原が資料を持ってやってきた。
静かな声。目を見ずに差し出された資料を受け取る。
「……ああ、ありがとう」
そっけなくしたつもりはないのに、どこか空回りしてしまう。
本来、漆原は唐津に対してはもっと率直だった。
必要な報告を簡潔に伝え、意見があれば控えめに主張もした。それが今では、必要最小限のやりとりに縮小されてしまっている。
(これが答えなんだろうか)
──「間違い」だった、という言葉を、漆原はそのまま受け取ったのかもしれない。
金曜、デスクに戻ると、営業第一部と戦略部の若手中心に飲み会が予定されているという連絡が回っていた。成約記念という名目だが、実際は交流目的の社内飲み会に近い。部長という立場上、顔出しのために出席することになっていた。
その夜、会社近くのビストロを貸し切った店内は、笑い声とグラスの音で満ちていた。
テーブルはくじ引きで決められたらしく、部署が入り混じった配置だった。唐津は奥の目立たないテーブルに案内された。気楽な位置だ。ワインを片手に部下たちの様子を見渡す。
唐津の視線は、自然とある一点に向かっていた。
──漆原。
少し離れたテーブルに座り、部下の眞壁と何かを話している。表情は淡々としていて、よく見ればグラスの中の氷が溶けきっているのに、ほとんど減っていなかった。
(……あいつ、無理して来たんだな)
周囲の明るさのなかで、漆原だけが少し温度の違う場所にいるように見えた。
無意識に目で追ってしまう自分が情けない。意識するなと思っても、身体が勝手に反応してしまう。
(また……こんなふうに見てる)
何を望んでいるんだろう、自分は。
会話したいのか、謝りたいのか、それとも──
隣の若手が話しかけてくる。
「部長って、赤ワイン派ですか?僕、白の方が好きなんですけど」
「ああ、どっちかと言えば……赤だな。重みがちょうどいい」
「さすがっすね。やっぱ雰囲気から違いますもん」
軽い言葉。笑顔で返しながら、心はどこかうわの空だった。
不意に、笑い声が響く。漆原のほうからではない。別のテーブルの誰かの声。
(……笑ってない)
静かに飲んで、場に合わせて頷いて──でも、明らかに無理をしている。
唐津は、その様子を目で追いながら、また自分に問いかけていた。
(なぜキスした?)
衝動だったのか。
心が動いた結果だったのか。
あのとき漆原は目を閉じた。拒んではいなかった。
けれど、その後の態度は明らかだった。
あれは「なかったこと」にしたい、という無言の意志だったのだろうか。
飲み会が終わるころには、気疲れのような重さが唐津の肩にのしかかっていた。
「あれ、部長帰るんですか?」
「もう十分だ。あとは任せる」
外に出ると、夜風が少しだけ肌に心地よかった。
漆原の姿はすでになかった。
唐津はそのことに、安堵とも落胆ともつかない感情を覚えていた。
(……何してんだ、俺)
答えを出せないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
漆原が気にしていないなら、それでいいのか?
気にしていたら、どうすればいい?
──そもそも、俺はどうしたいんだ。
その問いに、まだ明確な答えはなかった。
ただ、答えを出さないままでいることが、どこかで漆原を傷つけているような気がしていた。
手のひらに残る、あのときの感触。
唇の熱。
そして、何も言わずに目を閉じた漆原の表情が、何度も何度も思い出された。
唐津は、電車の中でそっと目を閉じた。
まだ言葉にならない何かが、胸の奥で静かに燻っていた。
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