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第29話 そして月曜が来る

月曜の朝。唐津がいつものように部の島に現れると、漆原はすでに自席でPCに向かっていた。いつも通り。何も変わらない、はずだった。 (……先週の福岡から、まだ三日しか経ってないんだよな) 唐津は、手に持った書類を机に置きながら、ちらりと漆原のほうに目をやる。 向こうも、何かを感じ取ったように一瞬こちらを見たが、すぐに画面に目を戻した。 その一瞬のまなざしに、唐津は言いようのない居心地の悪さと、なぜか安堵に似た感情を覚える。 (……気まずいのか?俺が?) あの夜のこと──唐津の部屋の前、唐津自身が思わず手を伸ばしてしまった、あの数秒。 軽く触れただけのキスだった。けれど、それは彼にとって“軽い”とは言い難い衝動だった。 (いや、あれは……なんだったんだ) キスのあと、漆原は何も言わず、ただじっと唐津を見つめていた。 拒まなかった。 でも、応じたわけでもなかった。 そして、翌朝。 「じゃ、先に行きます」 いつもより少しだけ早口で、ホテルのロビーで唐津にそう告げた漆原の背中が、妙に遠く感じられた。 唐津はそれ以上、声をかけることができなかった。 そして今も、何も言えないまま、目の前に漆原がいる。 その距離は、確かに出張前より近いはずなのに、どこか遠くなった気もした。 *** 「唐津さん、これご確認いただけますか」 昼前、漆原が小さな声で声をかけてきた。 「今朝の全体報告用に調整した数字です。あと、添付資料を少し変えました」 「おう、ありがとう。見るよ」 モニターを覗き込みながら、唐津は何気なく隣の椅子を引いた。 ほんの数十センチ。 それだけのことなのに、内心では妙に落ち着かない。 隣にいる漆原の横顔は真剣そのもので、キーボードを叩く指がいつもより少しだけ速い気がする。 「……ここ、推移の説明を前に出してみたんです。課題の提示の直前に持ってくると、焦点が絞れるかなと思って」 「……なるほど。確かに、数字の流れが見えやすくなるな」 「あとは、補足の注釈を下の余白に……」 「それもいい。おまえ、資料づくり早くなったな」 「……ありがとうございます」 漆原の指が一瞬止まり、少しだけ顔が唐津のほうを向いた。 その横顔の距離が、やけに近く感じる。 唐津は無意識のうちに、椅子をほんのわずかだけ後ろに引いた。 (なにしてんだ、俺) 自分の動作に気づいて、思わず目を伏せた。 「じゃ、これで提出するか」 「はい、じゃあ送ります」 カタカタ、と打たれるキーボードの音が耳に心地よく響いた。 *** 昼休み。唐津は部の島を離れ、コーヒーを買いに一階のラウンジへ向かった。 エレベーターのドアが閉まりかけたとき、「待ってください」と声がして、漆原が駆け込んできた。 「あ……すみません」 「……いや、別に」 沈黙。 (なんだこれ……) ふたりきりのエレベーター。狭い空間に、何か言葉を発しなければいけないような圧が満ちている。 「……福岡、疲れたな」 唐津がぽつりと口にすると、漆原は驚いたようにこちらを見た。 「……ですね。あの支店長、接待が濃厚すぎて」 「そうそう。料理は美味かったけどな」 「……ラーメン、まだ胃に残ってます」 思わず笑ってしまった。 「おまえ、食べきれなかったくせに」 「唐津さんだって、スープ残してました」 「……まあな」 ドアが開き、ふたりでラウンジへ。 自販機前で立ち止まり、並んで缶コーヒーを買った。 「なんか、久しぶりにちゃんと話した気がするな」 唐津がそう言うと、漆原は少し視線を下げて、静かに笑った。 「……俺も、そう思ってました」 ほんの一言。けれど、その言葉の裏に、言いそびれた感情が幾重にも重なっているような気がした。 唐津は返事をしないまま、コーヒーを片手に廊下を歩き出した。 隣を歩く足音が、少しだけ近づいた気がした。 *** 夕方。 唐津は自席で資料をまとめながら、ふと手を止めた。 離れた島に座る漆原が、ふと立ち上がる。 「じゃあ、今日はこれで」 「お疲れさまでした」 部下に声をかけて帰宅促しながら、漆原は静かに歩き出す。 エレベーターに向かうその姿に、思わず声をかけそうになった。 ──なにか、言いたいことはないのか? ──あの夜のこと、どう思ってるんだ? でも、その言葉は喉の奥で霧散した。 (違う。聞きたいんじゃない。……聞くのが怖いんだ) そう思ったときには、漆原の姿はもう扉の向こうに消えていた。 *** その夜。 唐津はひとり、コンビニの袋をぶら下げて帰路についていた。 マンションのエントランスを抜け、エレベーターに乗る。 部屋に入り、シャツを脱いでソファに倒れ込んだ。 何をしているわけでもないのに、やけに疲れていた。 (……どうするつもりなんだ、俺は) あのキスの意味を、まだ言語化できていない。 衝動だった。でも、それだけか? 漆原を意識している自分に、ようやくうっすら気づき始めていた。 ──でも、まだ認めたくない。 ただの同僚。ただの後輩。 きっと、まだその枠のなかに収めようとしている自分がいる。 だが、あの夜。手を伸ばしたのは、他ならぬ自分だった。 漆原のまなざしが、脳裏に浮かぶ。 あれは──拒絶ではなかった。 それだけが、今も胸の奥にひっかかっている。 唐津は缶ビールのプルタブを開けた。 炭酸のはじける音が、静かな部屋に小さく響いた。 (……もう少し、ちゃんと向き合わなきゃな) けれど、まだ自分の気持ちがわからない。 どうしてキスをしたのか。その理由に、唐津自身がまだたどり着いていなかった。 *** 月は雲に隠れていた。 静かな夜。外では蝉が遠くで鳴いている。 唐津はソファに背を預け、そっと目を閉じた。 瞼の裏に浮かぶのは、ラーメン屋の柔らかな灯りと、並んで座る漆原の横顔。 あの夜の湿度のように、彼の存在が肌に染み込んでくる。 (……あいつにとって、俺はどう映ってるんだろう) それを確かめる勇気も、まだ持てないまま。 ただ、こうして、静かに想ってしまう。 それだけが、今はどうしようもなかった。

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