29 / 59
第28話 熱を分け合う夜
七月下旬、福岡。日中の蒸し暑さが残る空気のなか、唐津はホテルのロビーでネクタイを緩めた。
地方拠点との共同案件で、漆原とふたり、初めての出張。部長同士という立場上、仕事上の責任は大きいが、それよりも唐津の内心は落ち着かないままだった。
(出張か……あいつと、二人で)
何も起こらない。ただ仕事をこなして、戻ってくる。それだけだ。
けれど、漆原と一緒に過ごす時間が少しでも長くなる、というだけで、いつもの出張とはどこか違うものに感じていた。
***
今回の共同案件は、本社役員から直接指示のあった重要プロジェクトだった。地方拠点と本店、それぞれの営業部門が連携して動く形となり、調整も多岐にわたった。
何日も前から、資料の準備や提案方針のすり合わせを重ねてきた。部をまたいでの作業は容易ではなかったが、それだけに気合も入っていた。
そして迎えた現地プレゼン当日。
会議室には福岡支店長をはじめ、地方の幹部クラスがずらりと揃っていた。唐津も多少の緊張を抱えつつ、漆原に目をやる。
「じゃあ、お願いします」
合図とともに、漆原が資料を開いた。
冒頭の導入から、数字の解説、今後の展望──どれも堂々としていた。特に、相手の業務課題に踏み込んだ提案パートでは、漆原の大胆な攻めが功を奏した。
(やるな……)
唐津は、隣で淡々と相槌を打ちつつ、内心でそう呟いた。
提案が終わると、先方の表情がほぐれていくのが分かる。
「これは……すばらしい内容ですね。よくぞここまで詰めてくださいました」
福岡支店長の声に、場が一気に和やかになった。
「今夜は、どうか我々にお礼をさせてください」
その言葉の通り、夜は盛大な会食が用意された。
唐津と漆原は、何度もグラスを交わされ、地元の名産が並ぶテーブルで、支店長や拠点長たちの感謝の言葉を次々に受けることとなった。
(……こういうのも、悪くない)
唐津は酔いを感じながらも、隣に控えめに座る漆原の横顔を何度も見ていた。
***
夜、拠点のスタッフとの会食を終え、ホテルへ戻る道すがら。
福岡の街はにぎやかだった。
ネオンの灯りが水たまりに揺れて、屋台の明かりが連なる通りには観光客と地元の人が入り混じって歩いていた。
観光客向けの看板、串焼きや明太子の香り。通りを吹き抜ける湿気を帯びた風さえ、この夜には妙に心地よく感じる。
「……あの、唐津さん」
「ん?」
「ラーメンとか……食べたくないですか」
控えめな声だった。
唐津は思わず笑ってしまいそうになった。
「さっき、シメに食っただろ」
「……でも、あれ、なんか接待の一部っていうか……」
漆原は目を逸らしながら、小さな声で付け加えた。
唐津は吹き出しそうになるのを堪えながら、彼の横顔を見た。
「おまえ、食が細いくせに、変なところで頑張るな」
「べつに、無理にとは……」
「行くか」
言ってから、心が軽くなるのを感じた。
***
細い路地裏の屋台に入り、二人並んでカウンターに腰を下ろす。
豚骨の香りが立ち込めるなか、唐津はビールを一本だけ頼んで、漆原は水を一杯。
「……さすがにスープまでは飲めないかも」
漆原がぽつりとつぶやくと、唐津は笑って箸を置いた。
「それで十分だ。俺ももう、腹いっぱい」
ラーメン屋のテレビからは地元ニュースが流れていた。
となりのカップルが小声で何かを話し合っている。
それら全部が遠くに感じる。
唐津の意識は、隣にいる男のほうにばかり向かっていた。
手元の椀にそっと手を添え、静かに箸を運ぶ漆原。その所作にはいつものような自制と、どこか所在なげな揺らぎが混じっていた。
(なんで……こんなに気になるんだろう)
何かを言いたくて、でも言葉にならなくて、視線だけがそっと、そっと彼に伸びていく。
そして、気づけば夜の街に戻っていた。
***
ホテルのエレベーター。
「……今日は、お疲れさまでした」
「おう」
それだけで、しばらく沈黙。
上昇していく箱のなかで、唐津はふと隣を見る。
漆原はいつものように無表情だったが、わずかに耳が赤い。
(……気のせいか?)
無言のまま、それぞれの部屋の前で立ち止まる。
「じゃあ、また明日……」
漆原がそう言ってドアノブに手をかけた、その瞬間。
「──ちょっと、」
唐津は自分の声に驚いた。
漆原が振り返る。その瞳に、問いかけるような色が浮かぶ。
唐津は、心の中で何かがせり上がるのを感じていた。
理屈ではない。ただ、どうしようもなく──その顔に、触れたくなった。
気づけば、手が伸びていた。
「……ごめん」
そう言って、唐津は唇を重ねた。
軽く触れるだけのキス。
けれど、それだけで胸が締めつけられるようだった。
漆原は驚いたように目を見開いて、それからそっと目を閉じた。
ほんの数秒。
触れていた唇を離すと、唐津は言葉を探すように少し息を呑んだ。
「……悪い、間違えたかも」
言ってしまってから、ひどく情けない気持ちになった。
漆原はなにも言わずに、ただ見つめていた。
その沈黙が痛くて、でも、どこか安堵でもあった。
逃げ出したくなるほどの気持ちと、それでも離れがたい想いが、胸のなかでぶつかり合っていた。
(間違えた……本当に?)
唐津はもう一度、漆原の顔を見つめる。
そこにあったのは、拒絶ではなかった。
それだけで、心の奥にずっと刺さっていた棘が、少しだけ抜けたような気がした。
ともだちにシェアしよう!

