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第27話 やさしさの輪郭
七月中旬、梅雨明けを知らせる蝉の声が響き始めたころ。
東京の朝はすでに蒸し暑く、唐津はコーヒー片手にオフィスへ入ってきた。
「……おはようございます」
デスクに向かっていた漆原が、少し硬い声で挨拶をする。唐津は軽く会釈しただけで、無言のまま自席へ向かった。
それだけのやりとりなのに、漆原の心拍は僅かに早くなる。
(やっぱり……前と違う)
唐津の態度が冷たいわけではない。ただ、告白をしたあの日から、確かに何かが変わった。
***
漆原がそう感じたのは、挨拶だけではなかった。
唐津の書類の返却方法が変わった。以前はさらりと無言で机に置かれていたのに、最近は「ここ、確認しとけよ」と言葉を添えて渡される。
部署内での打ち合わせでも、ふとした瞬間に視線が合うようになった。しかも、唐津はすぐには目を逸らさない。数秒、確かに見て、それから別の誰かに視線を移す。
(気のせいじゃない。けど……どういう意味?)
そう思ってしまう自分が面倒だった。
期待していいのか、ただの勘違いなのか。それとも──同情か。
そういう唐津の「優しさ」は、たくさん見てきた。部下にも、顧客にも、誰に対しても公平で、けれど時折、気まぐれのように誰かにだけ向けられる熱のようなものがある。
(今の俺に向けられているそれは……)
昼休みのコンビニで、つい缶コーヒーを二本買ってしまい、何食わぬ顔で一本を唐津のデスクに置く。
「ん、サンキュ」
短い一言。それだけで嬉しくなる自分に、何度も自己嫌悪する。
(このままずっと、曖昧なままでいるのかな)
唐津の態度が、はっきりと拒絶であればまだよかった。気まずくなっても、離れる理由になるから。
でも、拒絶ではない。むしろ、ほんの少し近い。
そう感じてしまうのは、思い上がりなのか。それとも、ほんの少しだけ──期待してしまっても、いいのか。
***
午後、資料整理のふとした合間。
漆原は気づけば、何度も唐津の方に視線を向けていた。
斜め向かいの席でパソコンに向かっている横顔。書類にメモを書き込みながら、時折少し眉間に皺を寄せる癖。そんなひとつひとつが、どうしようもなく目に入る。
(……何してんだ俺)
自分に呆れながらも、目で追うことをやめられなかった。
***
数日後、社内の定例ミーティングでのこと。
漆原がプレゼンを終え、質問を受ける中、唐津が何も言わずに手を上げた。
「今の指標、顧客側のファネル定義が前と違うよな気がします。定義の変更点、資料に入れておいたほうが良いのではないでしょうか」
「……はい」
唐津は淡々と話すだけだったが、その言葉はどこかやさしさを含んでいた。
それだけで、嬉しかった。
(あの人は、俺をちゃんと見てくれている──気がする)
でも、それが同情でなければいい、とも思う。
もしこの優しさが、あの告白の余韻から生まれているものなら、耐えられそうにない。
***
その日の夜。
唐津に修正を頼まれていた提案資料を、漆原は会議室で一人見直していた。
「まだやってたのか」
ふいにフロアの扉が開いて、唐津が顔を出す。
「……もうすぐ終わります」
「見せてみろよ」
そう言って、唐津は漆原の隣に腰を下ろした。
パソコンの画面を覗き込みながら、唐津がキーボードに手を伸ばす。画面を見るふりをしながら、漆原の意識は、すぐそばの体温や香りに向かってしまう。
「ここ、表現ちょっとやわらかくしたほうがいいかもな。……ほら、こんな感じで」
「……はい」
距離が、近い。
少し肩が触れるかどうかの位置で、唐津は画面に集中している。
なのに、漆原の胸はどんどん熱くなっていく。
「この部分も、データ補足つけておくと説得力あるな。……だろ?」
「あ……はい、大丈夫です」
口調はあくまで仕事のトーン。でも、その声がすぐ隣から聞こえてくるだけで、心臓が痛いほど高鳴っている。
──好きだ。
その気持ちがまた、痛いほど浮かび上がってくる。
「……じゃあ、あとは修正かけて送っといて」
「はい」
唐津が立ち上がると、ようやく呼吸が戻ってくるような気がした。
「じゃ、帰るぞ」
その一言に、漆原はそっと立ち上がった。
***
オフィスのビルを出て、夜の街を歩く。
日本橋の通りには、背の高いオフィスビルの灯りがまだいくつか点いていて、その合間をぬって吹き抜ける風に、スーツの裾がわずかに揺れた。
蒸し暑さの残る空気の中、遠くでタクシーのクラクションが鳴る。
歩道にはすでに閉まりかけたカフェの前で一人スマホを見つめる女性の姿や、ネクタイを緩めたサラリーマンたちが夜風にあたりながら歩いていた。
そんな中を、唐津と漆原は並んで歩く。
「……ありがとうございます、さっき」
漆原が、ぽつりと漏らす。
「ん?」
「資料、一緒に見てくださって。助かりました」
「別に。ああいうのは、ミスると引きずるからな」
(それだけなのか。……それだけじゃないと、思いたい)
唐津は横を歩いているだけ。言葉は少ない。
それでも、その沈黙が不思議と苦ではなかった。
(こんな時間が、明日も続きますように)
声には出さないけれど、心の中で強くそう願う。
***
東京駅の丸の内側に着くころには、空にはわずかに星が見えていた。
駅前の広場では、観光客らしきグループが写真を撮って笑っている。
光を帯びた赤レンガの駅舎が、夜のなかに穏やかに浮かんでいた。
「じゃあな、お疲れ」
唐津が、いつもの口調でそう言って、ふと笑った。
優しい、少しだけ照れたような笑顔。
「……お疲れさまでした」
漆原はその顔を、まぶしいものを見るような気持ちで見つめていた。
別れたあと、唐津の背中を目で追いながら、漆原は小さく息を吐いた。
(……明日も、また)
そんな願いを胸に抱いて、駅の改札へと足を向けた。
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