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第26話 好きだったんです
七月が始まり本格的な夏が近づく頃、蒸し暑さが夜の街に残っていた。
唐津は社内の会議室で資料のチェックを終え、時計に目をやる。
「……もう二十時か」
廊下を歩いていると、まだ灯りのついた島に漆原の姿を見つけた。ディスプレイに顔を近づけ、眉間にしわを寄せている。
「終わった?」
唐津が声をかけると、漆原は少し驚いたように顔を上げた。
「……あ、はい。もうすぐです」
「飯、行くか。ちょっと軽く」
唐津はそれだけ言って、踵を返す。漆原は一瞬躊躇し、それから「あ、行きます」と立ち上がった。
向かったのは、日本橋の駅から少し離れた裏路地の居酒屋だった。木のぬくもりを感じる内装と、控えめな照明が落ち着いた雰囲気をつくっている。
カウンター席に並んで座り、ビールを注文すると、漆原は少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「遅れてた案件、最近ちょっとマシになってきた気がします」
「へえ、やっとか」
ふたりはしばらく、共通の部下たちの話や最近の案件について他愛ない会話を交わした。会話のペースは心地よく、気づけばグラスは二杯目に入っていた。
ただ、そのうちに漆原の声が少しずつ少なくなってきた。最初は資料の進捗や部内の報告体制についてなど、きちんと話していたが、気づけば相槌だけが多くなっていた。
唐津がグラスを傾けながらふと思い出したように言った。
「──そういえば」
「この前の結婚式、花嫁側の人に誘われてさ」
「……あ、そうなんですか」
漆原の声色が少し硬くなる。
「綺麗な人でさ。年も近くて、話も合ったし、悪くなかった」
唐津は特に深い意味もなく話していた。
「そういうの、しばらくなかったからな。なんていうか、素直な子でさ。しっかりしてて、自分の考えをちゃんと持ってる。法律事務所の人なんだけど、仕事もちゃんとしてて。表情も明るくて、好意を隠さないタイプ」
「……で、付き合うことにしたんですか」
「いや、なんとなく……やめた」
唐津はビールのグラスを口に運びながら、静かに言った。
「……そういう人、たぶん合ってると思いますよ。唐津さんみたいな人には」
「なんだよそれ」
冗談めかして笑うが、漆原は笑わなかった。
それからは、ふたりとも少しずつ口数が減っていった。会話が弾まなくなったのは、その一言が原因かもしれない、と唐津も薄々感じていた。
「そろそろ帰るか」
唐津が言うと、漆原は「……ありがとうございます」と短く返した。
帰り道。日本橋の繁華街から外れた通りを並んで歩く。
街は週末の夜にしては静かだった。江戸通り沿いの喧騒から少し離れた場所にあるせいか、人通りもまばらだ。居酒屋の灯りがぽつぽつと並び、閉店準備に入る店先からは、箒の音や食器を片付ける音が微かに聞こえてくる。蒸し暑い空気の中に、時折、焼き鳥の焦げる匂いや生乾きのアスファルトのにおいが混ざる。
信号待ちの間、隣に立つ漆原がふと風に髪を揺らす。その横顔を唐津はちらと見たが、声はかけなかった。
駅へ向かう途中、ふと漆原が足を止める。
「……ちょっと、いいですか」
唐津も立ち止まる。
「ん?」
「今日、言わないと、たぶんずっと言えない気がして」
唐津が黙って頷くと、漆原は一度目を伏せて深く息を吐いた。声が震えていた。
「……俺、多分、ずっと前から唐津さんが好きだったんです」
言葉が夜気に溶けた。
「でも、それだけじゃなくて。仕事で尊敬してて、唐津さんみたいになりたいって、ずっと思ってた。俺、誰よりも……」
俯いたまま、唇を噛むようにして言葉が詰まる。
「だからこそ、自分でも分かんなくなって。好きなのか、憧れなのか、近づきたいだけなのか。でも……」
ふるえる息のまま顔を上げて、まっすぐに唐津を見た。
「唐津さんが、誰かと付き合ったり、誰かのものになるのが、嫌なんです」
唐津はそのまま黙っていた。その表情は、普段の無表情とは違っていた。驚き、戸惑い、そして何かを悟るように、目の奥に一瞬揺らぎが浮かんだ。
「……わかってます。迷惑だってことも、多分叶わないってことも」
「でも……この気持ちだけは、嘘にできないんです」
言いながら、漆原の声は小さくなった。最後の言葉は、喉の奥でかすれていた。
「別に、返事がほしいわけじゃないです。でも、このまま黙っていられるほど、強くないです」
言い終えた瞬間、まるで力が抜けたように、漆原の肩がかすかに震えた。
静寂がふたりを包んだ。
唐津はゆっくりと顔を上げた。その瞳は何かを探るように漆原を見つめ、やがて微かに緩んだ。口元に浮かんだのは、どこか照れくさくもあたたかい苦笑だった。
「──馬鹿だな」
そのまま、漆原の頭に手を置いた。撫でるように、ゆっくりと。
驚いた漆原が動けずにいる。
「……とりあえず、タクシー拾うぞ」
そう言って、もう一度、撫でる。
「はい……」
返事は、少し涙ぐんだような声だった。
車内では、ふたりとも何も言わなかった。
ただ、夜の街の灯りの中で、漆原は窓に映る唐津の横顔を見つめながら思った。
(この人を好きになってよかった)
(たとえ報われなくても、それでも)
黙っていても、そばにいるだけで満たされてしまう──そんな夜だった。
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