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第25話 止まったままの心
六月の終わり。唐津は、部下の結婚式に出席していた。
新郎は営業戦略部の若手、実直で素直な性格で、三年目にしてようやく数字もついてきた努力家だった。唐津にとっては、少し手がかかったぶん、可愛い部下だった。
挙式のあと、披露宴の会場でスピーチを終え、乾杯のグラスを手に取りながら周囲に軽く笑顔を見せる。
(あいつも、ああいう笑顔をするようになったんだな)
新郎が新婦の手を取りながら、親族席に頭を下げる姿は、思いのほか様になっていた。
──その視線の先で、ふと視線が合った。
新婦側の会社席。
黒髪をアップにした女性が、目を細めてこちらに微笑んでいた。落ち着いたドレスと、控えめなアクセサリー。派手ではないが、顔立ちは整っている。
二次会が終わるころ、声をかけられた。
「……あの、よかったら連絡先を交換してもいいですか?」
少し照れたような笑顔。唐津は、迷うふりすらしなかった。
「もちろん」
慣れた手つきでスマートフォンを取り出し、穏やかな声でIDを伝える。相手の緊張を和らげるように、自然に視線を合わせる。
「披露宴のとき、ずっと笑ってたでしょう? あれ、すごくいい表情だった」
さりげなく褒める。目の奥に驚きと喜びが浮かぶのが見える。そういう反応を引き出すのも、嫌いではなかった。
LINEのIDを交換すると、すぐに連絡がきた。
「少し、時間あります? お茶でもどうですか」
──こういう展開は、久しぶりだった。
彼女の名は、里香。今日の新婦と同じ都内の法律事務所で働いている先輩らしい。話題の引き出しも豊富で、初対面の緊張を感じさせない相手だった。
歩きながら、唐津はふと考える。
(このタイミングで誘ってくるってことは……まあ、悪くないと思ってるってことだよな)
それを無意識のうちに読んで、対応している自分にも気づいていた。
お洒落なカフェのテラス席に着くと、彼女の好みに合わせて注文を聞き、自然とエスコートするような仕草を挟んだ。視線は相手の反応を逃さず捉えつつ、時折あえて外す。
「──唐津さんって、彼女とかいるんですか?」
「今はいないよ」
里香の目に安堵と期待の光が走ったのがわかる。
「じゃあ、結婚したいとか……」
「うーん、なくはないよ。でも、そういうのってタイミングだろ」
「じゃあ、タイミングが合えば……?」
にっこりと笑う里香。その目に好意があるのは、明らかだった。
唐津は笑って、視線を軽く合わせる。
「そんなこと言われたら、タイミング合わせに行きたくなるかもな」
わざとらしくない程度に、軽口を挟む。
こういう駆け引きも、嫌いではなかった。むしろ、ある程度流れを読みながら会話を運ぶのは、営業と似たようなものだ。
(俺ももう、いい歳だしな……)
頭のどこかで、冷静な判断を下していた。
年齢も若すぎず、経済的にも自立している。話していて違和感もない。表情のひとつひとつに、悪い意味での駆け引きがなく、ストレートに好意がにじむ。
(悪くない。むしろ、楽しい)
そんな折、ふいに彼女が言った。
「このあと、もう一軒行きませんか? お酒、付き合ってほしいな」
──そのときだった。
ふと、漆原の顔が浮かんだ。
数日前、静かに俯いていた横顔。冗談のように頭を撫でた時、ふいに見せたあの苦しそうな笑顔。
──「……言えないんです。唐津さんにだけは」
その言葉の意味が、なぜかずっと引っかかっていた。
(……なんで、あいつの顔が浮かぶ?)
唐津は、グラスを持つ手を止めた。
少し間を置いて、言葉を選ぶ。
「ごめん、明日朝早くてさ。今日は、これで帰るよ」
里香の表情が一瞬だけ曇ったのを見て、少しだけ胸が痛んだ。
けれど、自分でも理由がわからないまま、帰りのタクシーに乗り込んでいた。
──翌日。
里香からは、軽いトーンのLINEが届いていた。
「昨日はありがとうございます。楽しかったです。また今度、ぜひ」
返さない理由もない。少し考えてから、丁寧に返事をした。
「こちらこそ。落ち着いたらまた連絡します」
そのやり取りは、数日続いた。
昼休みや、退勤後の空き時間に返信をする。どれも当たり障りのない、軽いやり取りだった。
悪くはない。彼女も、誠実そうだった。
けれど、そこから踏み込もうという気持ちには、なぜかならなかった。
(年、なのかな……)
唐津は、自嘲気味に笑った。
昔なら、こんなとき、もう少し勢いで進んでいたはずだった。
けれど今、心のどこかに、引っかかっている存在がいた。
夜風の中で見せた、あの沈黙。
──「……言えないんです。唐津さんにだけは」
静かに、まっすぐに、そして苦しげに。
あれは、ただの同僚が口にするには、あまりにも重たく、切実だった。
(あいつ、何を抱えてたんだろうな……)
……ただの同僚。いや、仲間だ。
でも、仲間という言葉では言い切れない気がする。
あの夜、肩をすくめながら手を伸ばしたことを、何度も思い出す。
撫でたとき、驚いたように動かなかった頭。頬をかすめた温度。
忘れようとしても、思い出してしまう。
漆原の、まっすぐすぎる瞳。
あの夜から、どこかで自分は止まってしまっているのかもしれない。
──このまま、動けないのか。それとも──。
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