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第24話 夜風にゆれるもの

「まだ会社にいるのか」 スマートフォンの画面に短く返信が届いたのは、送信してから十五分後だった。 その十五分は、漆原にとってとても長く、苦い時間だった。 送ってから、すぐに後悔した。なにをやってるんだ。何を期待していた? 唐津に会って、どうするつもりだった。 好きだというつもりか? そんなこと言えるはずがない。言ったところで、唐津が困るだけだ。 「……取り消そうか」 そう思ってスマートフォンを手に取るが、取り消しのボタンに指が触れたところで画面が切り替わった。 「まだ会社にいるのか」 唐津からの、たった一行の返事。 その文字列を見たとき、胸が跳ねた。嬉しかった。でも同時に、怖かった。来るとわかっていたら、送っていなかったかもしれない。 唐津が戻ってきたのは、それからさらに十分後だった。 「近くで飲もう。ちょうどいいバーがある」 それだけ言うと、唐津は先に歩き出した。 ふたりは並んで丸の内のビル街を歩いた。夜風が頬をかすめる。唐津の歩幅は少し大きくて、漆原は半歩遅れてついていく。 言葉はほとんど交わさなかった。 バーに着いたときには、軽く汗をかいていた。落ち着いた店内の奥の席。窓際には夜景が広がっている。 「お疲れさま」 グラスが軽く鳴った。 「……今日、大変だったよな」 唐津が静かに口を開いた。 「ミス、珍しかったから驚いたよ。お前が数字を見逃すなんて」 「……俺自身も、信じられなかったです」 唐津はグラスを揺らしながら、少し間を置いてから言った。 「でもさ、漆原のいいところって、ちゃんと自分でリカバリできるところだろ。いつも冷静で、後輩にも信頼されてて、客受けもいいし、書類も正確で早い。俺なんかより、よっぽど整ってる」 「……買いかぶりですよ」 「いや、本気で言ってる。そういう、何が起きても取り乱さないところとか、俺は見習わないとって思ってるよ」 「……そんな風に思われてたなんて、知りませんでした」 「当たり前すぎて言ってなかっただけだよ。お前のそういうとこ、結構みんなに支えになってる。自分では気づいてないかもしれないけど」 唐津の言葉は、柔らかくて、まっすぐだった。 漆原は目を伏せた。何も言えなくなった。胸の奥がじんわり熱くなる。 (……優しくされると、泣きたくなる) 耐えていたものが、すべて音を立てて崩れてしまいそうになる。平気なふりをして、強がっていた心がぐらついた。 (関係を壊すつもりだったのに) 唐津に会いたい、という衝動が自分のものであることが、怖かった。 けれど、そんな自分に対して向けられた優しさが、あまりに純粋で、痛かった。 「……札幌のとき、同棲してたんですよね」 唐津は驚いたように瞬きをして、それから少しだけ目を細めた。 「……だいぶ前の話だけどな」 「どんな人だったんですか」 「どんなって……うーん、まあ、ちゃんとした人だったよ。俺にはもったいないくらい」 曖昧に笑って、唐津は話を終わらせようとする。 「いまは……」 ふと、漆原の口から言葉がこぼれかけた。 ──今は、結婚とか考えてないんですか? ──相手を探してるんですか? 喉まで出かけたその言葉を、飲み込んだ。 (……知りたくない) 口にしたら、戻れなくなりそうだった。 「……何がそんなに気になる?」 不意に、唐津が静かに問いかけた。 漆原は言葉を失ったまま、グラスの底を見つめた。 唐津は、それ以上責めなかった。 代わりに、少し口調を柔らかくして言った。 「お前さ、もし何かあったら……俺に言えよ」 顔を上げると、まっすぐな瞳があった。 「これでも、先輩だろ」 その優しさが、また痛かった。 ──好きだ。でも、それだけじゃない。 ちゃんと、尊敬している。 部長として、人として。 それはたぶん、誰よりも強く思っている。 その想いが、余計に、苦しくさせる。 「……ありがとうございます。でも……」 言葉が詰まりそうになる。 「……でも、言えないんです。唐津さんにだけは……」 自分でもなぜそう言ったのか、わからなかった。 気づけば、視線を落とし、俯いていた。 そして、次の瞬間。 頭に、温かい手が乗せられた。 「……なんだよ、それ」 苦笑混じりの声。 唐津が、そっと撫でるようにして手を引いた。 その手の感触が、優しくて、切なくて、苦しくて。 (……なんで、そんなことするんですか) 心の奥がきゅっとなった。 嬉しくて、幸せで、それなのに泣きたくなる。 この気持ちの出口が見えないことが、余計につらかった。 (これが、憧れだけだったら、どれだけ楽だったろう) そんな風に思う自分も、もう止められなかった。 そのまま、店を出た。 「送るよ」 唐津の声に頷くと、ふたりでタクシーに乗った。 車内には、沈黙が流れていた。 夜の街を滑るように走る車の中で、漆原はふと、思った。 (このままずっと、この人を独り占めできたら……) 叶わないと知っている。 それでも願ってしまう。 (せめて、もう少しだけ……) 唐津の横顔を盗み見る。 灯りの中に浮かぶその横顔は、やっぱり格好よかった。 言葉にできない想いが、胸に積もっていく。

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