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第23話 崩れる静寂

昼休み、給湯室の近くで、何人かの社員が笑い声をあげていた。 「えー、ほんとに? ついに結婚するんですか?」 「うん、プロポーズしたら即OKだった。奇跡だよ、マジで」 声の主は、営業戦略部の若手社員だった。入社三年目、実直な性格で、最近ようやく自分のスタイルを掴み始めた男だ。 「唐津部長、俺の結婚式、絶対来てくださいよ」 「おう。お前の晴れ姿、しっかり見届けさせてもらうよ」 その場が一段と明るくなる。そんな空気の中で、ふと誰かが軽口を飛ばした。 「部長は、結婚しないんですか?」 「ねー、気になりますよね。あんなにモテそうなのに」 「独身主義とか?」 そんな声に、唐津は少しだけ目を細めて笑った。 「いや……別にそういうわけじゃないよ」 「え、じゃあ相手いないだけってことですか?」 「……そうだな。今はいない」 少し沈黙が落ちる。だが、それを和ませるように、唐津が続けた。 「昔はいたよ。札幌にいた頃、同棲もしてた」 「えっ、マジですか!」 「部長が同棲って想像できないな……」 「……まあ、いろいろあって」 それ以上、唐津は何も言わなかった。けれどその表情に、どこか遠くを見るような陰が差していた。 ──その会話を、漆原は偶然通りがかった廊下で聞いてしまった。 気配を消してその場を通り過ぎる。聞いてはいけないものを聞いてしまった罪悪感と、唐津の過去を初めて知った動揺が、腹の底に沈殿していく。 (……同棲してた、って) (あの人が、誰かと暮らしてたことがある) その事実に驚くと同時に、胸がざわつく。 知らなかった。 聞いたこともなかった。 けれど、聞こうともしていなかったのは、自分のほうかもしれない。 (──今は、いない) その言葉が、唯一の救いだった。 でも、彼の中には確かに誰かがいた。 暮らし、日々をともにし、きっと触れ合っていた誰かが。 その記憶の奥に、自分が入り込む余地はあるのか──考えても仕方のないことを考えてしまう。 そして気づけば、唐津が結婚して家庭を持つ未来を想像していた。 隣に立つ誰か。 唐津の帰りを待つ人。 食卓を囲み、眠るときにはその手を取る人。 ──自分ではない誰かが、そのすべてを担うのかもしれない。 そう思った瞬間、呼吸が浅くなった。 その日は終始、心が浮ついていた。 午後の会議。漆原は、提出された資料の数字に目を通し、何の疑問も持たずに了承印を押してしまった。 ──その数字が誤っていたことに気づいたのは、夕方になってからだった。 「……これ、再計算した?」 唐津の声が、いつになく真剣だった。 「すみません。確認が甘かったです」 唐津はそれ以上何も言わなかった。ただ、静かに書類を手元に戻し、自分で計算し直していた。 普段なら、見逃さないような単純なミス。 それを自分がしてしまった。 (どうかしてる……) 心ここにあらずだったのは、明らかだった。 唐津のことばかり考えていた。 どんな女性だったのか。 どのくらい長く一緒にいたのか。 どうして別れたのか。 ──いま、何を考えているのか。 自分には聞けないことばかりだった。 「……漆原」 声に顔を上げる。 唐津が、真っ直ぐにこちらを見ていた。 「どうした? らしくないぞ」 一瞬、言葉が喉に詰まった。 「……すみません。ちょっと、気が緩んでました」 「そういうタイプじゃないだろ、お前」 柔らかな口調だったが、少しだけ、芯が通っていた。 「気持ちの整理、必要なら休んでもいい。抱え込むなよ」 その言葉は、まるで何かを見抜いているかのようだった。 ──だけど、それはありえない。 唐津は自分の気持ちなど知らない。 それなのに、どこか優しさが刺さった。 「……大丈夫です。すぐ立て直します」 そう答えるのが精いっぱいだった。 その夜、21時を過ぎても、漆原は自席から動けなかった。 唐津はすでに帰っていた。飲み会もなかった。 残った照明の下、漆原は静かに書類を眺めていた。 何度も同じ数字を確認し、何度も打ち間違えた。 目は通っているのに、頭がまったく働いていない。 (切り替えろ) 何度も心の中でそう言った。 けれど、どこかでまた唐津の顔を思い浮かべてしまう。 唐津が語った“昔の恋人”。 その人と過ごした時間に自分は敵わない。 それをわかっていながら、今の自分に期待している。 (気持ちを返してもらえるなんて、思ってないくせに) でも、どこかで少しだけ、期待している。 だから、こうして勝手に傷ついている。 (ほんと、自己嫌悪だ) 「……どうすればいい」 誰に向けるでもなく、呟いた。 想いは募るばかりだ。 触れたくて、でも壊したくなくて。 声をかけたくて、でも踏み込みたくなくて。 けれどもう、限界だった。 唐津が誰かといた過去が、こんなにも苦しいのなら。 これ以上、何も言えない今が、こんなにも惨めなら。 ──だったら、いっそ。 スマートフォンを取り出し、深呼吸をひとつ。 「唐津さん、少しだけお話できますか」 送ったLINEには、即座に既読がついた。 返事はすぐにはなかった。 けれど、それでよかった。 同じ会社の部長同士、男同士。 好きだとは言えるはずがない。 それでも、気持ちを抱え続けるのは、限界だった。 ほんの少しでいい。 この苦しさを分かってほしかった。 ──唐津に会いたい。 理性なのか衝動なのか、自分でもわからないままただそう願っていた。

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