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第1話
最も本能的な嫌悪が働くのが、匂いだと思う。動物は匂いで見分けていて、相手の好き嫌いに大きく関係すると聞く。
嗅覚過敏を持つ安田陸 は、目の前で深く頭を下げる男の匂いに、目を少し細める。一体、この人は、何日間体を洗っていないだろうか。鼻がもげそうだ。
「ごめんね。女の子は無条件で好きだけど、男は無理なんだよね」
にっこりと笑顔で、男の愛の告白を拒絶する。同性愛に偏見はないが、陸は生粋の異性愛者である。
来るもの拒まず、去るもの追わずの、下半身が弛い男。そう評されている陸だが、相手の性別は気にする。女の子のやわらかい胸、なめらかな肌、そして匂いが好きであって、男のは好きでない。
特に、この相原燈真 の匂いは、最悪だ。
「す、すすすこしの間でも駄目ですか」
燈真は、声を裏返して小さい声で懇願する。
「可愛い女の子に生まれ変わったら、その時に声をかけてね」
今世では無理、満面の笑みで言うと、陸は踵を返して教室に戻った。自分の席に戻った陸に、幼馴染みの菊池和弥 と片岡秀 が近寄る。
「お前のストーカー、諦めねえな」
秀が面白がるように口笛を吹く。陸は、がくりと肩を落として去る燈真を一瞥する。
燈真は先月の4月、高等部1年に入学した生徒である。伝統のある有名なこの私立中高一貫校は、高等部からの入学を募集していない。但し、特別な事情や理由があり、且つ、入試で満点を取った場合は入学が認められ、授業料の全額免除を受けられる。
燈真はその超難関試験に合格した。
だが、全員が裕福な生徒の中、燈真は奨学金を貰っていても貧しかった。制服も持ち物もボロボロで、お風呂に何日も入っていないせいか、匂いもする。
明らかに栄養不足な身体。小さく、オロオロしている燈真を見ていると少しは同情するが、触れることなどできない。気持ち悪い。
───好きです。付き合って下さい。
三年生の階まで来て、頭を下げて告白する燈真に、同級生達は見下し嘲笑う。少し驚いた陸だが、笑顔で丁寧に即お断りした。だが、燈真は諦めなかった。
毎日毎日、陸に告白を続ける。陸を待ち伏せをしたり、周りをうろついたりし始めた。
貧乏で不潔な燈真は、ストーカー化した。
「一度、抱いたらいいじゃねえ?」
ニヤニヤ嗤う秀は、陸の肩に腕を回す。異性と同性の両方に対して性的な欲求を抱く秀は、陸以上に下半身が弛い。
「俺は、君と違って女の子しか抱けないだよ」
ね、そう言って目が合った女子生徒に、陸は片目を瞬かせて合図を送る。クラス中の女子生徒が黄色い声が上げる。相変わらずの軽い調子の陸に、和弥は呆れた表情をした。
日本最大の製薬会社、安田薬品工業株式会社の跡取り息子の安田陸 は、フランクで飄々とした性格である。いつも笑顔が絶えない。
容姿は、顔のパーツの形や大きさ、位置などのバランスが完璧に整っており、185cmを超える長身は、まさにモデルも顔負けである。
大層モテる為、毎月のように違う彼女を腕に絡ませて、学校に登校する。噂では、クラスの女子生徒の半分は、既に陸と寝ているらしい。まだ5月である。
「匂いフェチの陸が、あのストーカーの悪臭に堪えれるわけないだろ」
和弥が肩を小さくすくめる。すると、陸の従姉妹の[[rb:鈴木咲桜 > すずきさくら]]が、背後から陸の肩に腕を回した。他の女子生徒に見せつけるように、咲桜は陸に密着する。
「彼、週に一回しか、風呂に入っていないと聞いたよ?」
「夏はどうするんだろうね」
ふくよかな胸を背中に押し付けられても、陸は顔色ひとつ変えない。従兄弟の陸に対して、距離感がおかしい咲桜に、和弥は目を細める。和弥は何かを言おうとしたが、チャイムが鳴り、秀と一緒に隣のクラスに戻って行った。
「咲桜ちゃんも席に戻った方がいいよ」
「はーい」
甘い声で返事すると、咲桜は陸の頬にキスすると離れた。薄い口紅が付いた頬を拳で軽く拭うと、陸は窓の外を眺めた。
咲桜の匂いは、甘過ぎて胸焼けしそうだった。
+++
やっぱり、今日も駄目だった。
相原燈真は沈んだ気分のまま、帰途につく。人気者で、物腰が柔らかく、端整な顔立ちの安田陸は、燈真にとって雲の上の存在である。
何年間も寝る間も惜しんで勉強し、奇跡的にこの高等部に入学が出来た。全て、陸に会う為だった。
だから、何度告白を断られても、燈真は諦めることができなかった。一度でいい。一日でもいい。陸に選ばれたい。
長いため息を吐き出し、夕日が沈んだ暗闇道を歩く。その時、子供の悲鳴が微かに聞こえた。燈真は小走りで周辺を探すと、路肩に停めてある黒いワゴン車を見つけた。
燈真が目を細めて注視すると、道端に立っていた男と小学生の男の子が目に入った。男に腕を掴まれ、男の子はワゴン車の後部座席に無理やり押し込まれていた。
反射的に燈真は駆け出し、男に全力で体当たりをした。不意打ちを食らった男の体は、柵を越えて道路に吹っ飛ぶ。燈真は男の子の手首を掴むと、一目散に逃げた。脇目も振らず、がむしゃらに走る。
だが、病弱で小柄な燈真と、恐怖に震えている小学生ではそんなに早く走れない。燈真は男の子を守るように肩を抱き、近くの公園の生垣に隠れた。
黒のランドセルを背負った男の子は、顔が真っ青だった。人通りがなく、スマホを持たない燈真は、助けを呼ぶことが出来ない。男の子も抵抗した時にスマホを落としたらしい。追いかけて来た二人の男の気配に、小学生の男の子はついに涙をポロポロ流した。しゃくりを上げて泣く男の子に、燈真は迷うことなく決意する。
「僕が囮になるから、その間に逃げて」
男の子の背中からランドセルを下ろさせると、燈真はそれを背負った。驚く男の子に笑顔を見せる。
「僕は背が低いから、きっと誤魔化せれるよ」
「で、でも、それだと、お兄ちゃんが───」
燈真のことを心配する声に、なんて優しい子供だろうかと燈真は思う。
「僕は大丈夫。それよりも、名前を教えてくれるかな」
「つ、翼です」
燈真が余りにも平然と大丈夫と断言するから、翼の涙が止まった。
「翼君に、重要なミッションを与えます」
ゲームをするような調子で、燈真はわざと表情を険しくした。
「何があっても振り向かずに、真っ直ぐと走ります。そして、誰かに会ったら、助けを求めて下さい。僕はそれで必ず助かります」
翼は言葉を失う。
「翼君は、僕を助けてくれますか」
「っ………は、はいっ」
再び涙を流した翼の両手を、強く握り締める。
「翼君が今、一番会いたい人は誰ですか?」
「ぼ、僕の、お兄ちゃんです」
涙が止まらない翼に、燈真はもう一度断言する。
「必ず会えます。僕を信じて下さい」
「はいっ」
堪えきれずに、翼は燈真に抱き付いた。燈真は優しく翼の背中を撫でると、立ち上がった。
+++
弟の翼が警察に保護されたと聞くまで、陸は生きた心地のしなかった。
翼を送迎する運転手が突然襲われ、意識を失う怪我を被った。塾が終わり、待機しているはずの運転手がいないことに、翼は陸に電話しようとした。しかし、同じ塾の生徒に誘われ、そのまま、途中まで一緒に帰ることなった。誘拐犯は、それを狙っていた。
タクシーで病院に駆けつけた陸は、翼の姿を見つけた瞬間、骨が砕くほど強く抱き締めた。瞼が腫れるほど泣いていた翼は、再び大泣きした。
「怪我は、怪我はないか」
両手で翼の顔に触れ、念入りに頭から足先まで確認する。涙腺崩壊した翼は、必死に頭を振る。その時
翼から微かに、相原燈真の匂いがした。
「ぼ、僕を助けてくれたお兄ちゃんが、お兄ちゃんが………!」
号泣した翼はショックが大き過ぎて、それ以上、言葉を続けることが出来なかった。翼を落ち着かせるように背中をさすると、傍にいた刑事が近付いてきた。
翼を助けたのは、あの 相原燈真であること。燈真は囮になって、誘拐犯の矛先が自分に向くようにしたが、結局捕まってしまったこと。怒り狂った誘拐犯に、燈真は壮絶な暴行を受けたこと。
黙って刑事の話を聞いた陸は、翼の肩を抱き寄せた。それから、案内された燈真の病室に入った。
ベットの上で横たわる燈真は、想像以上にむごい状態だった。
顔の半分以上が包帯に巻かれているが、複数の暴行の跡が腫れ上がっていた。蹴られ、右腕の骨やあばら骨も骨折している。何よりも、右の眼球打撲による視力低下や視野障害が起きる可能性があった。
翼は堪えきれずに、燈真の傍に駆け寄った。燈真の左手を握り締める。ヒクヒク泣く翼の声に、燈真はゆっくりと左目の瞼を開いた。翼を視界に捉えた途端、燈真の左目から次々と涙が頬を伝った。
「ぶ、無事だったんだね。よかった………本当に良かった」
心の底から笑って喜ぶ燈真に、翼は「わあああああ!!」と号泣した。大人しく謙虚に育った翼がここまで感情をさらけ出す姿を見るのは、陸も初めてだった。
「ミッション、クリアしたね。僕を助けてくれて、ありがとう」
燈真の無邪気な笑顔に、翼は何度も何度も頷く。
陸には意味が理解できなかった。何故、燈真が礼を言うのか。こんな姿になって嘆くどころか、翼が無事だったことを何よりも喜ぶ。目の前の男の思考が、本気で理解できなかった。
「お兄さんには会えましたか?」
燈真の問いに、翼は泣き顔で「はい」と返事をし、陸に振り返った。燈真も翼の視線先を何気に見る。
その時、初めて陸と燈真の視線が合った。
「わ、わ、わわわわ!!!」
悲鳴に近い声を上げて、燈真は驚いて後ろに飛び退いた。鳩が豆鉄砲を食らったような燈真の顔に、陸は無意識に小さく笑ってしまった。
「なななななんで、安田さんが……!」
「僕の兄の陸です」
「え、え、えええええええ」
燈真にとって、まさに、青天の霹靂のようだ。赤くなったり青くなったり、頭を混乱させている。陸のストーカーのくせに、全く陸に気が付いてなかった。翼しか見ていなかった。
「初めまして 。翼の兄の安田陸です。───翼を助けてくれて、本当に感謝しています」
丁寧に深く頭を下げる陸に、燈真は慌てる。
「い、や、あ、あの」
「医療費や今後の生活ついても、安田家の方で全て面倒を───」
「だだ、大丈夫です!!!」
燈真は思わず大声で、陸の提案を断った。
「た、只でさえ、ぼ、僕は安田さんに迷惑かけていますのでで、です」
恐れ多いと首を振る燈真を見つめたまま、陸は弟に先に帰るように促す。
「翼、もう深夜だから、先に桐原と家に帰ってくれる?」
「………明日、また、燈真お兄ちゃんに会いにきてもいい?」
我が儘を滅多に言わない翼のお願いを、陸は断れない。頷くと、翼はパッと表情を明るくし、燈真に「また、明日に来ます」と抱き付いた。
どうやら、翼には燈真の匂いは気にならないようだ。当然か。燈真は自分の命を引き換えにして、翼を救ったのだから。
翼が帰った後、陸は先に口を切った。
「病院から、君の身元保証人が見つからなくて困っていると聞いたけど、ご両親はどこにいるの?」
少しの沈黙の後、燈真は申し訳なさそうに頭を下げた。
「すす、すみません。ぼ、僕には親はいません。ひとり、保証人をお願いできる、僕が前にいた施設の施設長がいるのですが………そ、その、迷惑をかけたく、なくて………」
どんどん声を小さくなる。燈真の服装や持ち物から、経済的貧困層の中で生きているとは思っていたが、まさか孤児だったとは。同情はするが、陸はこれ以上、燈真の環境に踏み込むわけにはいかなかった。
心から感謝はしているが、これを機に、例え同情でも応えることなどできない。性行為が出来るか、出来ないか、条件はそれだけだ。陸は、これから何が起きようと、燈真とセックスはできない。
「わかったよ。保証人は俺の方で用意するよ」
微笑んで言うと、燈真は何度も頭を下げて礼を言う。
「もう遅いから、また明日、手続きに来るよ」
「ありがと、とうござい、ます」
何故か、燈真は陸と話す時だけ、よく言葉がつっかえる。踵を返して病室を出て行こうとした時
「───安田さん」
静かな声で呼ばれ、陸は振り返らずに足を止めた。
「つ、翼君は勇敢でした」
「………有り難う」
陸は礼を言うと、病室を後にした。
次の日、翼と一緒に病院に行くと、既に燈真は退院していた。燈真は警察の事情聴取が終わると、医者や看護師の反対を押し切って、退院した。
会えなかったことを悲しむ翼を慰め、ふと、燈真は誰もいない家に帰ったのだろうか、と陸は考えた。
それから、燈真は2週間も学校を休んだ。
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