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第6話
従兄弟の安田陸がいつもと違う。
鈴木咲桜は今まで感じたことがない不安に苛まれた。今日、陸が学校を突然休み、メッセージアプリでも咲桜のメッセージに返信しない。漸く夕方に電話で陸と少し話せたが、その後直ぐに、電波が届かなくなった。
こんなことは初めてだった。
彼女がいても、陸は弟の安田翼の次に、咲桜を優先してきた。咲桜が彼女達に嫌がらせをしても、少し困った笑顔で流していた。
ああ、やっぱり、陸は彼女達より咲桜が好きなのね。ずっとそう信じて生きてきた。
なのに………漠然とした恐れに、咲桜は夜9時過ぎに陸のマンションをアポなし訪問した。玄関ドアを開けた陸は、「こんな遅くにどうしたの」と笑顔を浮かべていたが、咲桜を部屋に入れようとしない。
玄関で知らない汚れた靴を見た時、咲桜は無理やりに部屋に押し入った。リビングに行った咲桜が見たのは、4月から陸を付き纏うストーカーの相原燈真と、燈真に嬉しそうにひっついてテレビゲームしている翼の姿だった。燈真は咲桜に気が付き、挙動不審な態度で「こんばんは」と小さい声で会釈してきた。
咲桜は、驚き過ぎて声がでなかった。
「何で、あんたがこ───」
思わず燈真を指差したのを、陸が手首を掴んで遮る。
「咲桜ちゃん、何か用事かな」
にっこりと笑っているが、陸の目は笑っていない。歓迎されていないのは、燈真の方ではなく、明らかに咲桜の方だった。翼も咲桜の剣幕に戸惑うように、燈真の後ろに少し隠れる。自尊心をぐちゃぐちゃにされた咲桜は、陸の手を振り払って、燈真と翼の向かいのソファに足を組んで座った。
燈真の匂いに、嫌悪感が勝手に溢れだす。
風呂に入っていない人間の体臭は、耐え難いものだ。咲桜は鼻を手で押さえた。燈真を透明人間のように無視して、翼を見る。
「翼、その男から離れた方がいいわよ。匂いが移るわ」
首まで真っ赤にした燈真は、羞恥に堪えきれずに俯いた。陸が何か言う前に、翼が前に出た。
「僕は気になりません」
大人しく従順のはずの翼が、咲桜を睨む。咲桜から滲み出た燈真への悪意を、敏感な翼は感じ取っていた。
目を見開いた咲桜は下唇を噛む。
険悪な雰囲気に、燈真が血の気がない顔色で急に立ち上がった。
「く、臭くて、ほ、ほほんとうにすみませんっ、ぼぼ、僕はもう、もう帰ります、色々、あありがとうございました」
深くお辞儀すると、床に置いていた通学カバンを持って、燈真は逃げるように玄関に行く。追いかけた陸に、咲桜が名を呼んで引き止めるが、陸は無視をした。
+++
安田陸が相原燈真に追い付いたのは、エレベーター前だった。腕を掴んで振り向かせると、燈真は泣きそう顔だった。汚くてすみません、と何度も謝る燈真に、陸は胸が傷んだ。
「駅まで送るよ」
本当は家まで送りたかったが、翼を情緒不安定の咲桜と長く二人きりにしたくなかった。ずっと俯く燈真をちらりと見る。
多分、燈真が今住んでいる部屋に浴室はない。燈真は不潔な人間ではなく、風呂すらまともに入ることができない状況ではないだろうか。
痩せた手足。小さい身体。
今日の病院の検査でも、怪我や目の視力より、栄養状態を何度も指摘された。
授業料の全額免除を受けているが、燈真はどうやって生活費を捻出しているのだろうか。生活保護を受けているのだろうか。生活保護を受けていたら、医療費を心配する必要ないはずだが………疑問は次々と溢れだす。
「ぼ、僕は身体が弱かったので、就学猶予で中学校に入学したのが、3年遅くなったのです」
陸の疑問を察したのか、燈真は小さく笑った。驚いた陸に、悪戯をする子供のように目を細める。
「僕はもう成人なんです。安田さんより、歳上なんですよ」
「へえ、じゃあ、敬語使うべきかな?」
笑ってからかうと、燈真は恐れ多いとブルブルと頭を横に振った。陸はクスリと笑う。
「………高校一年生になったばかりなのに、施設を出たのは、もう18歳を過ぎているから?」
少し間を置いて、陸は聞いた。今まで、誰かのプライベートに踏み込んだことなどなかった。燈真は軽く首を横に振る。
「今は18歳を過ぎても、進学する場合、まだ施設に残ることが出来るのですが、僕がいた施設は規模が小さかったので………施設を必要とする小さい子供達がいっぱい、待っていましたし」
今日の落下事故に遭った小学生や、翼への接し方を見ていると、燈真は常に年下の子供達を優先して生きていたに違いない。
───一緒に棲む?
自分でも信じられない言葉が、喉元まで出かけた。
「きょ、今日は本当に色々ありがとうございました。翼君に会えて、とても嬉しかったです」
改札口に着くと、燈真は再び頭を下げた。
「少し妬けたよ」
苦笑いした陸に、燈真は無邪気な笑顔になった。
「翼君にとって、安田さんは不動の一番ですよ」
陸は少し屈むと、燈真の耳元に唇を寄せた。
「そっちじゃないよ 」
唇が少し触れる。左の耳を手で押さえた燈真は、真っ赤になって後ずさる。
「え?えええ、え?」
「また、来てね」
楽しそうに笑った陸は、茫然自失した燈真の腰を腕で引き寄せる。今度は燈真の左耳にはっきりと唇で触れ、甘く囁いた。
+++
「翼は、咲桜の味方じゃないの?」
二人きりになった部屋で、安田翼は咲桜に咎められた。大きい目に涙を浮かべた咲桜は、今日一日中、兄の陸に連絡が取れずに、どれだけ心配したかをまくし立てた。
だけど、翼にはどうして燈真への侮辱が許せなかった。躊躇いなく、命を投げ出して自分を助ける人間を、翼は兄以外知らない。父親ですら、翼を操り人形として見ている。
「何よ、生意気になったわね」
いつまでも怒った顔をする翼に、咲桜は顔にかかる髪を払いのけて、視線を逸らす。
「言っとくけど、あの男が翼を助けたのは、翼が陸の弟だからよ」
「違います。燈真お兄ちゃんは、僕が誰か、知らなかったです」
即座に否定した翼を、咲桜は鼻で嗤う。
「そんなの嘘に決まっているじゃない。そんな偶然あると思う?あの男は陸にずっと付きまとっている変態ホモよ」
「止めて下さい!!」
生まれて初めて怒鳴った翼は、ソファから立ち上がった。
「───今日の咲桜ちゃんは嫌いです」
言い捨てた翼は、走って自分の部屋に入った。唖然となった咲桜は、無意識に右手首にはめたリストバンドを左手で触れた。
+++
7月に入った。
久々の晴天に、菊池和弥はいつもの顔触れで食堂で昼食を取る。相変わらず、女たらしの幼馴染みの陸の周りには、沢山の女子生徒が集まっていた。
軽い調子で微笑みかけたり、思わせぶりな態度で、女子生徒に黄色い声を張り上げさせる。
「まだ、あの一年生と続いているのか」
大切な弟の命を救った燈真に恩義を感じるのは理解するが、陸が男との交際を受け入れたのは心底驚いた。ただ、肉体関係のない、条件付きの交際は直ぐに解消されると、和弥は思っていた。
次の女が現れたら、終わる。
今までも、そうだった。付き合っては、陸に執着する鈴木咲桜の嫌がらせで別れ、直ぐに次の新しい彼女が出来る。無限ループだ。
だが、今回は、なかなか次の彼女が出現しない。
「お前が1カ月以上も禁欲できるなんて、奇跡かよ」
「モテ期が終わっただけだよ」
陸が肩を軽く竦めた。
「枯渇の間違いだろ」
片岡秀がにやにやと肘で陸を軽くつつく。和弥はじっと陸を見る。本人が自覚しているか知らないが、陸は女と二人きりになる状況を避けている気がする。のらりくらりと躱す。
「そう言えば、来週、秀君達のクラスに転校生来るみたいだね。女の子達が噂していたよ」
話を変えた陸は、ミネラルウォーターを飲む。
「まーな。ドイツ帰りらしいけど」
「高等三年生の7月に転校って、訳ありじゃねえ?」
秀が和弥の話に重ねて話す。その後、転校生の容姿について盛り上がる和弥と秀を尻目に、陸はトレーを持って立ち上がった。
+++
咲桜がもう一週間も学校を休んでいる。
咲桜の母親───陸の叔母でもある鈴木玲香に頼まれ、陸は学校帰りに咲桜に会いに行った。
泣いて喜ぶ咲桜は、陸に抱き付き、陸の体を模索するように触れる。咲桜の蜜のように甘い匂いに、陸は気持ち悪くなった。
束縛が激しく、感情の起伏が激しい咲桜は、昔から自傷行為をよくする。
陸に見せつけるように右手首には、新しい傷が増えていた。両手で陸の顔に触れると、咲桜は踵を上げて、陸の下唇を噛んだ。陸は反応しない。
「………陸、お願い。早く別れて───」
泣きながら縋る咲桜は、母親の玲香にそっくりである。最大限に女の武器を使う。弱者の振りをした強者だ。陸はにっこりと笑う。
「咲桜ちゃんが何を心配しているかわからないけど、相原は男だよ」
「で、でも」
「男だよ」
遮るように強く言う。
戸惑う咲桜に、陸は微笑む。
「来週の土曜日、久しぶりに遊びに行こうか」
「───二人だけで?翼は連れてこない?」
「………いいよ」
ぱあと笑顔になった咲桜は、陸に抱き付いた。何度も何度も大好きと囁く咲桜を、哀れに思う。恵まれた環境と容姿を持ちながら、陸に拘る。
咲桜も燈真と同じように、陸に想いを寄せているだけなのに、何故、こんなに違うのだろうか。
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