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第5話

駅の事務所内の救護室で、警察の事情聴取を終えると、相原燈真は安田陸に左手首を強く掴まれた。 陸は燈真の通学カバンを肩にかけると、否応なしに燈真を引っ張って事務所を出た。 駅の転落検知システムのお陰で、燈真は路線に落ちた小学生を抱いて、ホーム下の退避スペースに逃げることができた。間一髪だった。 毎日体を濡れたタオルで拭いているが、もう3日もお風呂に入っていない。更にホーム下の退避スペースに転げるように入った燈真は、埃と汚れが付いている。 恥ずかしくなって、陸の手を離そうとするが、陸はそれを許さなかった。骨が軋むほど強く、燈真の手首を掴んで離さない。 改札を出ると、陸は駅前のロータリーに待機していた黒い外車に燈真を押し込んだ。陸は燈真の横の座る。 「手配はしたか、桐原」 戸惑う燈真を無視したまま、陸は助手席に座る桐原と言う男に訊ねる。車が走り出した。 「はい。陸様の指示通りに手配しました」 「病院に着いたら、お前は戻っていい。俺は帰るのが遅くなる」 「承知しました」 バックミラーから桐原が、ちらっと燈真を見る。 初めて見る陸の無表情と、初めて聞く氷のように冷たい声に、燈真は顔面蒼白になっていた。鈍感な燈真にも、いつも物腰が柔らかい陸が、恐ろしく怒っていることを理解していた。 誰もが知っている日本有数の大学病院に着くと、出迎えた病院関係者と話ながら、陸は案内された診察室に燈真を連れ込んだ。 「検査を全て受けて貰うよ」 拒否や反論は一切認めない。感情の込もっていない陸の声に、燈真は泣きそうになった。 +++ 今回の転落事故での怪我有無だけでなく、ギプスが取れたばかりの右腕、あばら骨、そして目まで、有無を言わせない状態で燈真は隅々まで検査された。 全ての検査を終えた時には、もう既に夕方だった。陸は一言も発することなく、燈真の傍にいた。 陸を面倒なことに巻き込んでしまったこと。大学受験生の陸に学校を休ませてしまったこと。自責の念に、燈真は顔を上げることができない。陸を見ることができない。 休憩所として準備された個室は、息苦しい雰囲気に包まれていた。 「───間に合わなかったら、君はどうするつもりだったの」 陸が静かに聞いた。漸く話してくれたことに、燈真は涙が込み上げてきた。明日で期限が切れるこの恋を、こんな形で終えるのは、あんまりにも悲しかった。 「ほ、ほん本当にすみません。安田さんにごごめ───」 「そんなことはどうでもいいよ」 陸が強く遮る。 「間に合わなかったら、どうするつもりだったの」誤魔化しを許さない眼差しに、燈真は再び顔を伏せた。 「………間に合うとか、か、か考えてなかったです」 口籠る燈真は、困ったように笑った。 「た、ただ、まだ8年も生きていない子供が、あんな場所で独りで死んでしまうのは、淋しいと思ったんです」 口をつぐむ陸に、燈真は窓の外を見上げた。夕陽の赤い光が、部屋を照らす。 「だから、傍に行っただけです」 道連れになったとしても 「で、でも。ぼ、僕は本当に運がいいです。まだ生きています。明日、明日までは生きたいと願っていました」 陸は荒っぽく燈真の腕を掴んで振り向かせた。驚いた燈真は陸を見上げる。 「わかった。それなら、まだ別れない」 「───え」 目を見張った燈真は、息を呑む。陸は燈真の腕から手を離すと、ソフォに腰を下ろした。そして、真っ直ぐと燈真を見つめる。 「俺は、人として君がとても好きだよ」 でも、俺が男に性的欲求を持つことはない。………これからも、君と性的な関係を持つことはないと思う。 「君は本当にそれでいいの」 誠実に向き合う陸に、燈真は顔をくしゃっと歪めた。視界が滲む。 「最初から、ぼ、僕が貴方に触れることは許されません」 「………」 「わかっています」 最初から身に染みて理解している。自分が価値のない人間であること。 何回生まれ変わったら、陸に触れる資格を得るのだろうか。 燈真は拳で目頭を拭う。 「ぼ、僕は卑怯な人間です。貴方の優しさに付け込んで、一秒でも長く、貴方といたいと思ってしまいます」 どんなに拭っても、次々と零れ落ちる涙。陸はただ、黙って聞いていた。 「貴方が触れたいと思う人が現れたら、決して邪魔しません。最初の約束通りに、消えます」 だから、雨が降る日に、あの場所で、あの時間で、もう少しだけ、貴方と過ごしたい。 深く頭を下げる燈真の頭を、陸は無意識に胸に抱き寄せていた。 「………わかっているよ」 掠れ声で、陸は呟く。 その時、陸のスマホの着信音が、静粛な部屋に鳴り響いた。画面に写し出された鈴木咲桜の名前に、陸は一瞬だけ目を細める。 やがて、諦めたように息を吐き出す。陸は少し悲しい笑みを見せると、スマホを持って部屋を出た。燈真は下唇を噛んで、嗚咽を堪えた。 +++ ヒステリックに話す鈴木咲桜を宥める気力もなかった。安田陸は適当に理由を言って電話を切った。スマホの電源も消す。 朝から100回以上、アプリで大量にメッセージを送ってくる咲桜に、これ以上構うほど余裕はない。陸は燈真がいる部屋には戻らずに、2階の診察室に入った。 そこには、臨床の眼科医として角膜移植を専門に携わってきた佐伯が待っていた。まだ40代後半だが、眼科の権威である。通常、佐伯の診察受けるには、半年以上待たないといけない。 「もう角膜移植しか、方法がない」 単刀直入に話す佐伯を、陸は無言で聞く。暴力によって、角膜が傷つき、変形した燈真の右目は、目の中に光を通すことが出来なくなっていた。 今更だが、弟の翼を誘拐し、燈真を半殺しにしたあの男達に、陸は人生で初めて殺意を抱く。 裁判で確実に死刑判決にする方法を、一瞬脳裏で考えた。死刑実行まで時間かかるから、刑務所で早く死んで貰う方がいいかもしれない、と考え直す。 「現在、角膜移植の待機期間は1年半だ」 「俺の左目を使って貰えますか」 さらりと言った陸に、佐伯は一瞬意味理解出来なかった。佐伯は自分を落ち着かせるように深呼吸する。 「日本では、角膜の生体移植は認められていないし、親族優先提供以外で特定の人物のみに提供することも認められていない」 それに君は、あの安田薬品工業株式会社の跡取りである。そんなことが許されるわけがない。 佐伯は咎めるように言う。 「一万人の人間が束になっても太刀打ちできない知能を持っている君だが………もしかして、私を脅迫する予定か」 「やだなー。そんなことしませんよ。佐伯先生を脅迫して、アメリカに移住されたら、日本にとって大損失ですよ」 もちろん、安田薬品工業株式会社にとってもね。飄々した態度で笑う。 「目が本気だったが」 「冗談ですよ」 どこまでも薄っぺら発言に、佐伯は今日何度目かのため息を吐き出す。今日一日中、佐伯は高校生の陸に振り回されていた。 「一応、忠告する。頭のネジが外れている君が自分の左目を抉って持って来ても、私は絶対に手術しない」 無駄なことを考えるのは、止めなさい。 部屋に戻ると、燈真はソファの肘掛けに上半身を預けて眠っていた。 陸は燈真を見つめる。 目を赤く泣き腫らした燈真の寝顔は、疲れているようだった。指で燈真の頬に触れる。 目を覚まさないことを確認すると、燈真の背中と膝裏を持ち上げ、陸は燈真を抱き寄せた。 +++ 目を覚ました燈真は、半分寝た状態で周辺を見渡した。ベットから降りた燈真は、ホテルのような洗練された雰囲気の寝室にビビり始める。 そっとドアを開けてリビングを覗く。センスの良い家具やアートで飾られたリビングにいたのは、安田翼だった。驚く燈真に気が付くと、翼はパッと満面の笑顔になった。 「燈真お兄ちゃんっ」 「え、えええ、翼君っ!?」 腰に抱き付かれた燈真は、頭を混乱させる。 「少しは眠れた?」 キッチンから登場した陸の笑顔に、燈真は後ろに倒れそうになった。燈真の腰を腕で支えた陸は、面白くて堪え切れない様子で笑う。 「彼氏(・・)が作った夕飯は、食べていくよね」 拒否を認めないキラキラした陸の笑顔に、燈真は操られた人形のように頷いた。 陸はあらゆる分野で万能なのだと、再確認する。陸が作った和食は、何種類も副菜が少しずつ添えられていた。旬の野菜を活かし、食材本来の風味が堪らなく優しい。身体に染みたお味噌汁に、感激の涙が流れ出そうになる。 間違いなく、人生で一番美味しい食事だ。 陸と翼は、文京区の高級分譲マンションの最上階に二人だけで棲んでいた。数人の家政婦が必要な部屋の広さだが、家政婦はいないらしい。 「僕のせいなのです」 食事の後、引っ張られて、翼の部屋に行った燈真は翼の話を聞く。 「あの日から、僕は、家族以外の人が怖くなってしまって………学校も行けなくなったのです」 翼はうっすらと涙を浮かべ、「僕は弱いです」と震える声で言った。 「僕が強かったら、学校に行けて、お父さんを失望させることがなかったのに……兄さんにも迷惑かけることなかったのに」 泣くのを我慢しているのか、翼は拳で唇を隠した。 「と、燈真お兄ちゃんが殺されるかもしれない、ないのに、僕は、僕はあの日、ひとりだけで逃げました」 ずっとずっと後悔していた。 「それは違うよ」 燈真は強く否定した。 誘拐された経験は、翼に深刻なトラウマを引き起こしていた。過度の警戒心、感情の不安定。まだ10歳の翼が背負うには、あんまりにも重すぎる。 燈真は翼の両手を握った。 「僕は知っているよ。あの日、君が戻って来たのを、僕は知っている」 蹴られ、殴られ、意識が朦朧とした燈真は、怯えながら戻ってきた小さな足音と影に気が付いていた。逃げてと言ったのに、翼は戻ってきた。 「そして、君はとても賢い子だったよ」 燈真を救える唯一の方法が、助けを呼ぶことだけだと悟った翼は、再び必死に走り出した。 逃げる為ではなく、燈真を救う為に。 「君は、優しくて勇敢で、間違いなく、僕を救ったヒーローだよ」 涙がポロポロ零れ落ちた翼に、燈真は優しく笑う。 「僕もね、小学校の頃、ずっと学校を休んでいたんだよ。身体も弱くて、友達もいなくて」 今も友達いないけど、そう笑った燈真に、翼は抱き付いた。 「学校に、もう一度行こうと思ったのは、君のお兄さんのお陰なんだよ」 「兄さんが………?」 「うん。何年間もかかったけど、安田さんと同じ学校に入ることを目標に頑張ったんだよ」 翼の恐怖が少しでも和らぐことを願って、背中を何度も撫でる。 「翼君にも、いつか目標ができると思う」 だから、それまでは、ゆっくり休んでいいんだよ。 声を殺して泣く翼を、燈真は抱き締めた。 ───ドアの反対側で佇んでいた陸は壁に凭れ、右手で目を覆った。

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