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第4話
安田陸はいつも笑顔だが、ほぼ感情の起伏がない。
日本屈指の一族の血筋、恵まれた身体と容姿、そして、眼に映ったものを一瞬で鮮明に記憶できる頭脳のおかげで、スポーツも勉強も軽々とこなす。真剣に何かに取り組んだことはない。人生で一度も。
それ故に、喜怒哀楽に乏しい。
その陸が、今、初めて苛立ちを感じていた。
学校の最寄り駅に7時31分に着くと、駅のホームに相原燈真の姿はなかった。例え、地震や停電で交通網が麻痺しようと、何時間も歩いて、陸を待っていそうな燈真がいない。燈真が学校を休んだことぐらい、陸は直ぐに推察できた。
1時間目の授業が終わると、陸は1年3組の教室に行った。国宝級イケメンと謳われ、女たらしで有名な三年生の陸の登場に、教室はどよめく。黄色い声を無視して、教室を見渡した。
誰かに聞かなくとも、陸は燈真の席を直ぐに見つけることができた。ドアの付近にいる女子生徒達に「少し入るね」と微笑んで、勝手に教室に入る。
燈真の机には『死ね 死ね 死ね 死ね』と黒色マジックで大きく書かれていた。
陸は指で落書きを触れると、燈真の席の椅子に座った。前の列の男子生徒がビクッと肩を揺らす。騒がわしかった教室は一瞬で静かになった。
陸は頬杖をつくと、笑みを浮かべ足を組んだ。まるで映画の一場面のようだ。
教室にいる生徒の顔を全員眺めた後、陸は前の列の男子生徒に顔を近付けた。萎縮するその男子生徒の首を唐突に左手で掴むと、乱暴に引き寄せた。
「───このクソみたいな落書きを、君の友達と一緒に今直ぐに消してくれるかな」
低い声で言い捨て、パッと手を離す。蒼白になった男子生徒が何度も頷くのを一瞥すると、陸は立ち上がって教室を出た。
───クラス全員の顔を覚えた。あのクラスの全員を破滅させたいと思う………この狂暴な苛立ち。
「………陸、これ、どういうことなの?」
三年生の教室から陸を密かに追いかけてきた鈴木咲桜が、茫然と背後から問う。陸は自分が苛立っているのを自覚していた。
「もう授業始まるから、早く教室に戻ろうか」
振り返った陸は作った笑みを浮かべた。咲桜は怪訝な眼差しで陸を見上げる。
「ねえ……今、付き合っている人って」
「駄目だよ、咲桜ちゃん」
人差し指を唇に当てて、陸は嗤う。従姉妹の咲桜ですら見たことがない、冷たい笑顔。陸は咲桜にゆっくりと近寄り、少し屈んで耳元で囁く。
「俺は、相原と寝てない 。だから、相原に手を出すのは、ルール違反だよ」
立ち尽くす咲桜に微笑むと、陸はもう一度言った。
「───相原だけ は駄目だよ」
+++
今日は雨が降っている。
こんなに、雨を待ち焦がれる日が来るとは思わなかった。右腕のギプスが外れた相原燈真は、何度も時計を見上げる。昼休みを知らせるチャイムが鳴るのを、一秒一秒と待つ。
今朝、教室に入ると、机の上の落書きが綺麗に消されていた。驚いて周辺をキョロキョロ見るが、クラスメートは全員視線を逸らした。特に、前の席の坂本は何かに怯えているようだった。
不思議に思ったが、特に気に留めなかった。
チャイムが鳴った。
急いで教科書を片付け、おにぎりとプラスチックの水筒が入った巾着袋、それと図書館で借りた本を持って立ち上がった。
その時、騒然としていた教室が一瞬静まった。
異変に顔を上げた燈真は、持っていた本を床に落とす。
「迎えに来たよ」
安田陸はからかうような笑顔で、燈真の直ぐ目の前に立っていた。落ちた本を拾って渡すが、燈真は受け取らない。頭が真っ白になって固まる燈真に、陸は小さく笑った。陸は思考停止中の燈真から、席で震えおののく坂本に視線を移した。
「こんにちは、坂本君 」
ヒッと声を出した坂本は身を縮める。陸は燈真の本と巾着袋を片手で持つと、フリーズした燈真の左腕を掴んで教室を出た。
準備室にどうやって来たのか、記憶がない燈真は、いつもの場所でおにぎりを食べた。
燈真は、窓際に座る陸をちらりと盗み見する。陸は降り続ける雨を眺めながら、オレンジジュースを飲んでいた。
今週の金曜日で約束の期限になる。天気予報によると、明日の水曜日から快晴が続く。今日が、陸と一緒に食べる最後の昼食になるだろう。
酷く痛む胸に、目をぎゅっと瞑った。
頭から追い払うと、燈真は本を開いた。
「これ、あげるよ」
陸がいつの間にか背後に立っていた。気配を消すのが上手な陸に、燈真は何度も心臓が止まりそうになる。渡されたのは、陸が一年生の時に使っていた教科書。目を見開いた燈真は、振り返った。
「いい、いいいですかっ」
「もう必要ないし、邪魔になるだけだから」
「い、い一生の宝にしますっ」
目をキラキラさせて喜ぶ燈真に、陸は笑う。近くの机に腰を少しだけ預けると、陸は燈真を静かに見つめた。
「今週の土曜日に、腕のいい眼科医がいる大学病院を予約できたから、一緒に行って欲しい」
「………」
驚いた燈真は、思わず黙り込んだ。長い沈黙の後、燈真は頭を下げた。
「い、色々、き、気にかけて貰って、あ、ありがとうございます。嬉しいでです」
でも、もういいです。
約束の期間は今週の金曜日までである。何があっても陸との約束を破るわけにはいかない。
「み、右目はぼんやりですが、み見えています」
燈真は左目を左手で隠し、右目だけで陸を見つめ返した。
「……や、安田さんだけが、何故か、色がついているんです。安田さんの色だけが見えたら、僕にはもう十分です」
担当医から、右目の視力が回復することはないと、既に告げられている。
それに、いつ壊れるかわからないこの身体には、身に余る申し出だ。
「にゅ、入院費も、僕の為なんかに払わせてしまいましたし」
退院後、全財産を持って病院に戻った燈真に、受付の女性は既に支払いが終わっていることを伝えた。正直、燈真はそれに助けられた。そうでなかったら、高校生活を続けることは不可能だった。
「や、安田さんの貴重な時間も貰いました」
過去形で話す燈真に、陸は少し目を細めた。
「と、とても幸せでした」
子供のような笑顔に、陸は目を伏せる。
「───もう終わったことになっているんだね」
陸の独り言に、聞き取れなかった燈真は不思議そうに首を傾げた。
「君が、頑固者だと言うことはわかったよ」
顔を上げ、燈真の目を再び見た陸は、苦々しく笑った。
+++
ずっと違和感があった。
病院で燈真と話したあの時から、小さな棘が刺さったような違和感。右目の視力すら簡単に諦める燈真は、クラスからの酷い虐めも、無頓着に受け入れる。酷い言葉で落書きされた教科書を、気に留めずに使い続けていた。
まるで、そう扱われるのが当然かのように。
陸が近付いても逃げなくなった燈真だが、相変わらず、彼の方から2メール以内近付いてこない。決して。必死に交際の条件を守る燈真に、陸は人生で初めて後悔を知った。
時刻表通りに学校の最寄り駅に電車が停まる。下車した陸は空を見上げた。今日も雨は降っていない。
「おはよう」
2番線ホームの北口階段近くで、隠れるように待っている燈真に声をかけた。燈真は嬉しそうに俯いて「お、おはようございます」と挨拶を返した。
そう言えば、いつの間にか、燈真の匂いに嫌悪感を感じなくなっていた。匂いは、慣れるものなんだろうか。それとも嗅覚過敏が治ったのだろうか。
「あ、あの、じ、実はお願いがあるのですが、」
「いいよ」
軽い調子で即答する陸に、まだ内容を伝えていない燈真は反対に「え」と驚く。
「喜んでするよ」
優しい笑顔を陸が見せると、燈真は首を赤くして俯いた。
その時、通行人と接触しそうになった燈真の肩を陸が抱き寄せた。顔を上げた燈真が通学カバンを地面に落とす。陸の方が、一瞬、異状に気が付くのが遅かった。
「子供が!子供が線路に───!」
「子供が落ちたぞ!」
「誰か、誰か停止ボタンをっ───!」
複数の悲鳴がホームに響く前に、燈真は走り出していた。陸が反応した時には、既に燈真は人混みを掻き分け、ホームから線路に飛び込む。
もう、無意識だった。地面を蹴った陸が線路に駆け寄った瞬間、目の前で急ブレーキをかけた電車が警笛と一緒に、風を切って通る。
悲鳴、絶叫、車輪とレールが擦れ合うスキール音。雑踏に包まれたホーム上で、陸はただ茫然と立っていた。
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