3 / 23

第3話

 葵留からの一方的な約束に警戒していたのは最初だけで、いつの間にか千春は昼休みが待ち遠しくなっていた。  一人の時間を楽しむために通っていた旧校舎は、いつしか葵留への朗読会の場となり、今日も千春は二段飛ばしで階段を駆け上がっていた。  お気に入りの本を手に、教室で待つ笑顔を思い描きながら、扉を勢いよく開けた。  タバコの香りがふわっと鼻腔を掠める。 「ちは、おっはよ。なあ、昨日の本、めっちゃ面白かった。あれ、続きないの?」  葵留が吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し込みながら、屈託のない笑顔を向けてくれる。  会って早々、他に言うことはないのかと、言いたくなったけれど、タバコを消したからヨシとする。  千春がしつこく言い続けたからか、禁煙を心がけてくれるようになった。  けれど、まだ褒められるに値しない。  それに──  ──よかった、痕が薄くなってる。新しい傷もないな。  タバコも気になるけれど、千春がもっと心配だったのは、葵留の傷痕だった。  ジッと葵留を観察していると、ちはってば、と催促された。 「お、おはよって、今、昼休みですよ。それに先輩、また昼飯がパン一個だけですか?」  机の上にコンビニの袋を見つけると、かじりかけの焼きそばパンが半分顔をのぞかせていた。 「俺、パン好きなんだ。……なあ、それより本の続き! ないの? ちは」  パンが好きだと言うわりに、完食しているのを見たことがない。ちゃんと食事を取っているのか、それも気掛かりの一つだ。  自分より年上なのに駄々をこねるから、続編は来年です、と子どもをなだめるように言ってやった。 「えー、マジ? 俺、来年まで待てないよ。それに学校、卒業しちゃうしさ」  葵留の言葉にドキッとした。  ──そうだった。来年の春にはもう、ここに来ても、先輩はいない……。  本を持つ手に自然と力が入り、気づけば唇を噛んでいた。 「ちーは。どうした? あ、腹減ってるのか? 食べかけだけど焼きそばパン食べる?」  ふいに顔を覗き込まれた。  ハーフアップにまとめきれなかった髪が、はらりとこぼれ落ちる。  せっかくきれいな髪なのに、机の埃が付いてしまう。  千春はそっと指先でその髪をすくい、耳にかけてやった。 「腹は減ってません。それよりも、その変なあだ名なんとかなりませんか」  葵留の髪から手を離すと、千春はページを開いて視線をそこへ落とした。  胸の中に生まれた寂しさを悟られたくなくて、つい、愛想のない口調になってしまう。 「えー、『ちは』ってだめ? 可愛いし、絶対ほかのやつとかぶんないっしょ」  確かにかぶらない。けれど、なぜ他のみんなと一緒じゃ嫌なのか。 「あ、けどさ。千春って『千』に『春』で〝ちはる〟だろ? それって、何度でも春を迎えらえるようにって意味だよな。やっぱ、ちはるって呼ぶか。いい名前だもんな……。いや、でも、ちはの方が可愛いな。うん、俺はやっぱ『ちは』にしよ」  自分で自分に問いかけて、納得している。  呼び方なんてどうでもいいのに、と思いながらも、喜んでいる自分がいる。 「そ、それより今日こそ、遅刻せずに登校したんですよねっ」  嬉しいくせに、素直になれなくて、また偉そうな言い方になってしまった。  自覚はある。あるけれど、どうしても反感を買うような言い方になってしまう。  これじゃ、いつか葵留に嫌われ──  え、あれ? もしかして俺って、嫌われたくないって思ってる……? いやいや、違う違う。先輩がだらしないから、放っておけないだけだ。  自問自答している間に、気づけば葵留が目の前まで来ていた。  ぱちりと目が合い、無邪気な笑顔を向けられた瞬間、千春は慌てて顔を逸らしてしまった。 「なあ、なあ、ちは。今日の本はミステリー? ファンタジー? それともBとLのいちゃいちゃストーリー?」 「び、BとLって、ボーイズラブのこと? そんなのは読みません。俺の管轄外です」 「管轄外って、ちははやっぱりいいな。けどキュンキュンしそうじゃない? ちはと一緒にこうやっていると、俺も本の主人公になった気分だ」 「キュンキュンって……。先輩、言い方が古い。もう昼休みの時間なくなっちゃうから読みますよ」  本当はちょっと興味があったジャンルです、何てことは口が裂けても言えない。  もしそんなこと言ったら最後、ここで朗読させられるに決まってる。  〝お前が好きだ〟とか〝愛している〟とか、そんなセリフが出てきたら、恥ずかしすぎて声に出せるわけがない。  さっさっと読んで、専門外の話は忘れてもらおう。  気を取り直して腰を下ろすと、葵留も、いつものように椅子の背もたれを抱きかかえるようにして座る。  前後に並ぶこのスタイルも、もうすっかり定番になっていた。  予鈴が鳴るまでの、ほんの短い時間が、いつもあっという間に過ぎていく。  あらすじだけじゃ伝え足りない──  本当は丸一冊、読んでほしい。それでも、「ちはの声で読んでほしい」なんて言われたら、もう、自分で読め、なんて言えなくなった。  一人で食べていた弁当も、葵留と一緒だと、今まで以上に美味しく感じる。 「食べる?」と唐揚げを差し出したときに見た、あの嬉しそうな顔──  その一瞬で、料理に興味が湧いた。  今度は自分で作ってみよう。そう思わせてくれたのは、この葵留の笑顔だった。 「そういえば、ちはって誕生日はいつ? 朗読のお礼も兼ねて何か買ってやるよ」  ある昼休み、葵留から唐突に聞かれた。  誕生日祝いなんて、中二のときに母が小説を買ってくれたのが最後だ。  翌年になると「受験生だもんね」とケーキだけで済まされ、進学すると、今度は「もう高校生だもんね」と言われた。   千春の誕生祝いはあっけなく終焉(しゅうえん)を迎えたのだ。  背中がむずがゆくなるような感覚に、千春は思わず「……先輩はいつ?」と、質問に質問で返していた。 「俺? 俺は、七月七日。来月の七夕さまの日だよ」  覚えやすいっしょ、と笑う声がやけに軽い。  けれど、頬に新しくできた傷が目に入って、喉が急に重くなる。  一度、救急箱を持ってきたことがあった。  けれど、素人の手当じゃ、消毒して絆創膏を貼るくらいが関の山だ。  刻まれた傷痕は痛々しくて、見ているだけで胸が痛くなり、癒してあげられない自分がもどかしい。 「じゃ、先輩の方が先ですね。俺、四月なんで」  心配ばかりしていたら、きっと彼はもうここには来ない気がする。だから、あえて見ないふりをした。  たわいもない話で、自分の歯がゆさを隠すように……。 「えー、四月? 終わったばっかじゃん。俺、ちはに贈りたいものあったのに、来年まで我慢──あ、そっか、クリスマスでもいっか。いや、それより、半分のなんちゃらって祝う日があったよな」 〝半分の何ちゃら〟って、真ん中バースデーのことを言っているのだろうか。  もしそうなら、六月だな、と千春は心の中で思った。  目の前では葵留が腕を組み、やけに真剣な顔をして悩んでいる。その様子に、ふっと笑みが漏れた。 「なに、なに、ちは。何で笑ってるんだ。あー、さてはまた俺を馬鹿にしてるんだろ」 「ちが──」  言い終わるより早く、「こいつぅ」と声を上げながら、葵留が両頬を指で摘んできた。 「いひゃいれす、へんはいぃ……」  千春がモゴモゴ言っていると、今度はそっと、摘まれた部分を指先で撫でられる。  くすぐったくて、でも、それ以上にやさしくて。  まるで「痛くない?」と確かめるように、労わる手つきだった。 「ちはは可愛いなぁ。それに、いっつもいい匂いがする」  葵留が触れてくる部分が熱い。  そこから徐々に全身へと熱が通電し、表面を覆う肌を突き抜けて赤く染まってくる気がした。 「い、いい匂いって、お、俺、香水、とか持ってない、よ」  正面から見つめられているだけで、頭が真っ白になる。  うまく言葉がつながらず、息まで不規則になってしまった。 「何だろね、体臭? かな。きっと遺伝子レベルでちはに惹かれてるんだ」 「え……」  今、先輩は何て言った? ヒカレテルって、どういう意味の── 「ちはが好きだよ」  不意打ちだった……。  まるで本の一節のようにきれいな言葉なのに、今は物語じゃない──これは、現実だ。 「ずっと俺のそばにいてよ、ちは」  心臓がどくんと跳ねる。  とどめのようなその言葉に、どう返せばいいのかわからず、ただ、口をポカンと開けたまま、声を失っていた。  その唇の動きを見守るように、葵留は陽だまりみたいに柔らかく笑って、千春の髪を撫でてくれた。 「せ……んぱい、も俺も、男、ですよ?」  確かめるように呟いた常識は、葵留の微笑みと告白で、木っ端微塵になってしまった。  僅かに残っていた理性も一蹴され、抗うことができない心は、もう喜んでいる。 「うん、男でも女でもどっちでも一緒だよ。『ちは』だから好きなんだ」  葵留からの言葉を聞いた途端、自分も同じだと、伝えたようとした。  けれど臆病な唇は、震えて閉じてしまった。  言葉が出てこない。  胸の奥がぎゅうっと締めつけられて、苦しい。でも、嬉しい。  そう思った瞬間、葵留の顔が至近距離まできていた。  瞬きもせず、一重瞼の瞳を見つめていると、千春の唇に葵留の唇が重なった。  何が起こったのかすぐには理解できず、茫然としていると、片エクボをの微笑みで髪を撫でてくれる。 「好きだよ、ちは」  言葉と一緒に千春の体は、抱き締められていた。  葵留の鼓動が鼓膜に注がれる中、許容範囲を超える出来事に戸惑ってしまう。  キス……した。おれ、先輩……と。  心臓が破裂しそうなとほど、脈打っている。全身が熱くて溶けそうだ。  気づけば、いつも葵留のペースに巻き込まれていた。  いつだって笑顔で、まっすぐで、人懐っこくて。  優しい声も、触れ方も、いつの間にか全部に惹かれていた。  旧校舎で葵留と過ごすことが楽しみで、休日がつまらなく感じるようになっていた。  その意味が、目の前の人を好きだということが、優しく触れるだけの口づけで、今ようやく千春は知った。

ともだちにシェアしよう!