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第4話
七夕は、葵留の誕生日。
以前、お互いの誕生日を伝え合ったとき、千春は「プレゼントに何が欲しい?」と尋ねていた。
なのに返ってきたリクエストは、まさかの「消臭スプレー」。
所帯じみた答えに、思わず吹き出してしまった。
高校生の懐事情としては助かるけれど、それだけでは味気ない。
そこで千春は、葵留が好みそうな初心者向けのミステリー小説を用意した。
誕生日が七夕ということもあり、ちょっとした遊び心で短冊を模した栞も作ってみた。
青い色紙に、白と銀のペンで夏の星空を散りばめるように描いた。
その空の下に添えたのは、祈りを込めた一言──
『ずっと一緒にいられますように』
ほんの少しの照れくささを感じながらも、その文字を指でなぞって確かめる。
惠護の目に触れないよう、栞は物語のラストページへそっと忍ばせておいた。
「先輩、リクエストの消臭スプレー持ってきたよ。それと……一緒に、おすすめの本も」
少し緊張しながら教室に飛び込んだ。
いつものように窓際でタバコを手にする後ろ姿に声をかける。
くるっと振り返り、葵留が、ありがとう、と微笑んでくれ──
千春はその顔に瞠目した。
振り返った葵留の顔はこれまでの比ではないほど、傷だらけで腫れ上がっていたからだ。
「せ、先輩。ど、どうしたんですか、それ。その、傷……」
鮮血の滲む真新しい傷。
口元やこめかみは赤紫に変色し、半袖のシャツから伸びる腕にも数箇所の打撲痕があった。
その中でも一番酷い傷が右の額、生え際の辺りに見えた。
千春は嫌な予感がし、無言で葵留のシャツをめくった。
「ちょ、ちはってば……こういうときに、それは反則……」
ふざけて肌を隠そうとする葵留の手を払いのけ、素肌を確認した千春は眉をひそめてしまった。
上半身には数カ所の傷があり、中にはどう見ても喧嘩で出来た傷ではない、火傷のように引き攣った痕もある。
短い間だけれど葵留を見てわかっていた、彼が喧嘩をするような人間じゃないことを。
葵留の傷は故意につけられたものだ。
本を読んでくれと言う言葉を無視すると、「誰にやられた!」と、叫んでいた。
「……ちはって弱っちそうなのに、意外と気が強いよな。でもそのギャップが可愛い」
丸い瞳も苺みたいな唇も、意地っ張りなとこも好きだなぁと、頭を撫でながら言ってくれる。
「そんなこと今は関係ないっ。ね、先輩。俺、非力だけど話を聞くくらいは出来るよ。先輩を守って癒すことだって出来る。だから話してよっ」
千春は、葵留の体を揺さぶりながら、必死に叫び続けた。
優しくて穏やかな人を傷付ける人間が許せない。
痛いとか、辛いとか言わずに、やり過ごしている姿は見ていて辛い。
問い詰めても葵留は、平気、平気とか、俺、弱いからなーとか惚けてくる。
千春は年下だと言うことも忘れ、無遠慮に胸ぐらを掴むと無言で葵留に詰め寄った。
これまでも傷だらけなことはあったけれど、今日のは酷すぎる。
もしかしたら骨も折れてるんじゃないかと思えるほど、シャツの下の肌は赤紫に染まっていた。
千春の視線に根負けしたのか、葵留の薄い唇がゆっくり開く。
そこから紡がれたのは、信じられない言葉だった。
「……やったの、親父だよ」
千春の腕をそっと取り除き、葵留が告げる。
その言葉は、千春が想像していたものに近かった。
「情けないよな、タバコを吸うことで反抗しててもさ……」
言葉を失った。
葵留にとってのタバコは、抗えない現実への、ささやかな反抗だったのだ。
小さな反抗──
それは、大人と戦う術も持たず、孤独に傷付いた子どもが選んだ、唯一の主張だった。
千春は、哀感に滲む横顔を見つめた。
頭の中に浮かんだのは、『虐待』の二文字。そして、それを受け入れ続けてきた葵留の静かな絶望。
どうして、こんな優しい人が──。
「許せない……自分の子どもに、こんなこと……っ」
千春の胸には、初めて感じる激しい怒りが燃え上がっていた。
どうすれば大好きな人を助けられる?
どうすれば守れる?
両手のひらをこぶしに変え、食い千切るように唇を噛んだ。
すると、強張っていた肩に葵留の手が触れ、「ちは、血が出ちゃうよ」と、唇を指で突かれた。
「俺が逆らったら、母ちゃんが殴られっからさ。俺、母ちゃんが浮気してできた子どもなんだ。だから、親父が怒んのもわかるっていうか──」
「そんなの、違うっ! 俺、子どもだから親の気持ち、あんまわかんないけど、だからって手を上げるのは絶対に違うっ。先輩が、我慢して、殴られてるのも、違う、よ……」
耐えていた涙が溢れて止まらなかった。
目の前にある、貼り付けたような笑顔が辛過ぎる。
泣くな、俺。泣きたいのは先輩の方なのに、俺が、泣いてどうする。
少ない説明でも葵留の環境が想像できて、それが悲し過ぎた。
千春はかける言葉の代わりに、葵留の体を引き寄せて、抱き締めた。
背の高い背中を包むよう、背伸びをして思いっきり強く。
「先輩、俺、どうすればお父さんから逃げられるか考えるっ。そ、そうだっ……先生に相談するとか……えっと、区役所。うん、役所のどこかに虐待の相談とかできる人が、きっといるはずだよ。俺、一緒に行くから。先輩が嫌なら、俺一人で行って聞いてくる。ね、だから先輩、俺にも協力させて──」
焦りながら言葉を探し、葵留の体を揺さぶって訴えた。
けれど、当の本人は悲しげに目を伏せたまま、微笑んで何も言わない。
身長が百八十を超える高校生なら、父親に立ち向かうことができそうなものだ。けれど葵留は、ただ黙って殴られ続けている。
それは、自分の代わりに母親が暴力を受けることを恐れているからだ。
俺と会う前からずっと、ずっと、先輩は一人で耐えて……。
出会う前の葵留を想像してまた涙が溢れた。
もっと早く出会っていれば葵留の苦しみを半分、いや三分の一でも背負えたかもしれない。
自然と手に力がこもる。
怒りで震えていると、「お返し」そう言って、倍の力で葵留に抱き竦められた。
耳に唇が触れたそのあと、「ちはが好きだよ」と「ちはしかいらない」と、囁きながら髪を撫でてくれた。
千春が一番好きな、葵留の癖だ。
縋るような切ない言葉が嬉しいのに、葵留の現実に涙が止まらない。
同時に葵留に寄り添えるのは自分だけだと、千春の中に強い庇護欲が芽生えた。
二人の体が自然と離れると、葵留が千春の瞼にそっと口づけてくれる。
続けて頬、鼻へと移動し、最後に唇を重ねてきた。
二度目の口づけはかすかに血の味がして、葵留の言葉にできない悲しみが込められている気がした。
支え合うように寄り添い、予鈴の音を聞きながら二人で裏庭を歩いた。
いつもなら早足で歩く道を、その日は一歩一歩、ゆっくりと進んだ。
少し高い肩と並んで歩いていると、葵留の長い指が千春を探すように伸びてきた。
繋ぎたい──。
けれど、千春は差し出されたその手を、拒んでしまった。
恥ずかしさもあった。でもそれ以上に、誰かに見られるのが怖かった。
──あのとき、あの手を取れなかったことが、今も胸に棘のように残っている。
あれが、葵留と手を繋げる最後の機会だったのに。
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