4 / 23

第4話

 七夕は、葵留の誕生日。  以前、お互いの誕生日を伝え合ったとき、千春は「プレゼントに何が欲しい?」と尋ねていた。    なのに返ってきたリクエストは、まさかの「消臭スプレー」。  所帯じみた答えに、思わず吹き出してしまった。  高校生の懐事情としては助かるけれど、それだけでは味気ない。  そこで千春は、葵留が好みそうな初心者向けのミステリー小説を用意した。  誕生日が七夕ということもあり、ちょっとした遊び心で短冊を模した栞も作ってみた。  青い色紙に、白と銀のペンで夏の星空を散りばめるように描いた。  その空の下に添えたのは、祈りを込めた一言── 『ずっと一緒にいられますように』  ほんの少しの照れくささを感じながらも、その文字を指でなぞって確かめる。  惠護の目に触れないよう、栞は物語のラストページへそっと忍ばせておいた。 「先輩、リクエストの消臭スプレー持ってきたよ。それと……一緒に、おすすめの本も」  少し緊張しながら教室に飛び込んだ。  いつものように窓際でタバコを手にする後ろ姿に声をかける。  くるっと振り返り、葵留が、ありがとう、と微笑んでくれ──  千春はその顔に瞠目した。  振り返った葵留の顔はこれまでの比ではないほど、傷だらけで腫れ上がっていたからだ。 「せ、先輩。ど、どうしたんですか、それ。その、傷……」  鮮血の滲む真新しい傷。  口元やこめかみは赤紫に変色し、半袖のシャツから伸びる腕にも数箇所の打撲痕があった。   その中でも一番酷い傷が右の額、生え際の辺りに見えた。  千春は嫌な予感がし、無言で葵留のシャツをめくった。 「ちょ、ちはってば……こういうときに、それは反則……」  ふざけて肌を隠そうとする葵留の手を払いのけ、素肌を確認した千春は眉をひそめてしまった。  上半身には数カ所の傷があり、中にはどう見ても喧嘩で出来た傷ではない、火傷のように引き攣った痕もある。  短い間だけれど葵留を見てわかっていた、彼が喧嘩をするような人間じゃないことを。  葵留の傷は故意につけられたものだ。  本を読んでくれと言う言葉を無視すると、「誰にやられた!」と、叫んでいた。 「……ちはって弱っちそうなのに、意外と気が強いよな。でもそのギャップが可愛い」  丸い瞳も苺みたいな唇も、意地っ張りなとこも好きだなぁと、頭を撫でながら言ってくれる。 「そんなこと今は関係ないっ。ね、先輩。俺、非力だけど話を聞くくらいは出来るよ。先輩を守って癒すことだって出来る。だから話してよっ」  千春は、葵留の体を揺さぶりながら、必死に叫び続けた。  優しくて穏やかな人を傷付ける人間が許せない。  痛いとか、辛いとか言わずに、やり過ごしている姿は見ていて辛い。  問い詰めても葵留は、平気、平気とか、俺、弱いからなーとか惚けてくる。  千春は年下だと言うことも忘れ、無遠慮に胸ぐらを掴むと無言で葵留に詰め寄った。  これまでも傷だらけなことはあったけれど、今日のは酷すぎる。  もしかしたら骨も折れてるんじゃないかと思えるほど、シャツの下の肌は赤紫に染まっていた。  千春の視線に根負けしたのか、葵留の薄い唇がゆっくり開く。  そこから紡がれたのは、信じられない言葉だった。 「……やったの、親父だよ」  千春の腕をそっと取り除き、葵留が告げる。  その言葉は、千春が想像していたものに近かった。 「情けないよな、タバコを吸うことで反抗しててもさ……」  言葉を失った。  葵留にとってのタバコは、抗えない現実への、ささやかな反抗だったのだ。    小さな反抗──  それは、大人と戦う術も持たず、孤独に傷付いた子どもが選んだ、唯一の主張だった。  千春は、哀感に滲む横顔を見つめた。  頭の中に浮かんだのは、『虐待』の二文字。そして、それを受け入れ続けてきた葵留の静かな絶望。  どうして、こんな優しい人が──。 「許せない……自分の子どもに、こんなこと……っ」  千春の胸には、初めて感じる激しい怒りが燃え上がっていた。  どうすれば大好きな人を助けられる?  どうすれば守れる?   両手のひらをこぶしに変え、食い千切るように唇を噛んだ。  すると、強張っていた肩に葵留の手が触れ、「ちは、血が出ちゃうよ」と、唇を指で突かれた。 「俺が逆らったら、母ちゃんが殴られっからさ。俺、母ちゃんが浮気してできた子どもなんだ。だから、親父が怒んのもわかるっていうか──」 「そんなの、違うっ! 俺、子どもだから親の気持ち、あんまわかんないけど、だからって手を上げるのは絶対に違うっ。先輩が、我慢して、殴られてるのも、違う、よ……」  耐えていた涙が溢れて止まらなかった。  目の前にある、貼り付けたような笑顔が辛過ぎる。  泣くな、俺。泣きたいのは先輩の方なのに、俺が、泣いてどうする。  少ない説明でも葵留の環境が想像できて、それが悲し過ぎた。  千春はかける言葉の代わりに、葵留の体を引き寄せて、抱き締めた。  背の高い背中を包むよう、背伸びをして思いっきり強く。 「先輩、俺、どうすればお父さんから逃げられるか考えるっ。そ、そうだっ……先生に相談するとか……えっと、区役所。うん、役所のどこかに虐待の相談とかできる人が、きっといるはずだよ。俺、一緒に行くから。先輩が嫌なら、俺一人で行って聞いてくる。ね、だから先輩、俺にも協力させて──」  焦りながら言葉を探し、葵留の体を揺さぶって訴えた。  けれど、当の本人は悲しげに目を伏せたまま、微笑んで何も言わない。  身長が百八十を超える高校生なら、父親に立ち向かうことができそうなものだ。けれど葵留は、ただ黙って殴られ続けている。  それは、自分の代わりに母親が暴力を受けることを恐れているからだ。  俺と会う前からずっと、ずっと、先輩は一人で耐えて……。  出会う前の葵留を想像してまた涙が溢れた。  もっと早く出会っていれば葵留の苦しみを半分、いや三分の一でも背負えたかもしれない。  自然と手に力がこもる。  怒りで震えていると、「お返し」そう言って、倍の力で葵留に抱き竦められた。  耳に唇が触れたそのあと、「ちはが好きだよ」と「ちはしかいらない」と、囁きながら髪を撫でてくれた。  千春が一番好きな、葵留の癖だ。  縋るような切ない言葉が嬉しいのに、葵留の現実に涙が止まらない。  同時に葵留に寄り添えるのは自分だけだと、千春の中に強い庇護欲が芽生えた。  二人の体が自然と離れると、葵留が千春の瞼にそっと口づけてくれる。  続けて頬、鼻へと移動し、最後に唇を重ねてきた。  二度目の口づけはかすかに血の味がして、葵留の言葉にできない悲しみが込められている気がした。  支え合うように寄り添い、予鈴の音を聞きながら二人で裏庭を歩いた。  いつもなら早足で歩く道を、その日は一歩一歩、ゆっくりと進んだ。  少し高い肩と並んで歩いていると、葵留の長い指が千春を探すように伸びてきた。  繋ぎたい──。  けれど、千春は差し出されたその手を、拒んでしまった。  恥ずかしさもあった。でもそれ以上に、誰かに見られるのが怖かった。  ──あのとき、あの手を取れなかったことが、今も胸に棘のように残っている。  あれが、葵留と手を繋げる最後の機会だったのに。

ともだちにシェアしよう!