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第5話
夏休みは千春にとって、たっぷり読書に浸れる貴重な時間だった。
それがあの年は違っていた。
葵留に会えない──。
たったそれだけのことが、千春にとってはこの上なく長く、世界の時間が止まってしまったように感じられた。
恋しい葵留の顔を思い出しては、栞を挟んでページを閉じ、部屋の窓からどこまでも広がる真っ青な空を眺めた。
流れる雲を見ていると、窓辺で風に吹かれている葵留が思い浮かぶ。
「俺のバカ……どうして連絡先を聞いておかなかったんだ」
毎日、旧校舎で逢っていたから連絡する必要がなく、すっかり忘れていた。
電車通学なのか、バスなのか、それとも徒歩で通える場所に住んでいるのか。
進路のこともそうだ。
大学へ行くと勝手に思っていたけれど、もしかしたら別の道を考えているのかもしれない。
葵留のことを何も知らない。
父親から暴力を受けていること以外は……。
苦手なはずのタバコの匂いさえ恋しく思い、オンラインショップでピンクの箱を見つけたときには、衝動的にクリックしてしまいそうになった。
未成年であることなど、その瞬間は頭からすっかり抜け落ちていた。
それほど、葵留が不足していた。けれど、会いたい理由はそれだけではない。
長い夏休みは学校という避難場所がない。
もし、葵留が毎日、父親に殴られていたら──
想像するだけで、千春の胸は締め付けられた。
葵留との連絡手段がないままカレンダーを睨み続け、待ちに待った二学期が始まった。
千春は昼休みになった途端、新刊を手に旧校舎へと向かった。
二段飛ばしで階段を駆け上がり、教室に飛び込む。──けれど、窓際に葵留の姿はない。
そういえば、階段の途中でいつも感じる、タバコの匂いもしなかった。
「今日は俺の方が早かったのかな」と、席に座って弁当を広げた。
葵留の気配を気にしながら食べた弁当は味気なく、千春の気持ちは一気に下がった。
「……せっかく、夏休みに料理の練習したのに」
成果を披露しようと、唐揚げが詰まったタッパを見つめる。
意気込んでいた気持ちは、ぽきん、と折れてしまった。
持ってきた本を手持ち無沙汰に読み始めたけれど、気もそぞろで内容が入ってこない。
教室のドアを見てはため息を吐き、物音がしては階段まで見に行った。
「先輩、早く来てよ……」
ようやく一緒に過ごせると思っていた、その気持ちが声となってこぼれた。
予鈴がなっても葵留は姿を現さず、千春は本を手に、肩を落として教室へ戻った。
翌日も葵留と会えず、次の日も、その次の日も葵留は旧校舎に姿を見せなかった。
最後に会ったのは夏休み前だから、もう二ヶ月近く葵留の顔を見ていないことになる。
もしかして、酷い怪我をしてるんじゃ……。
一旦、そんなことを考えてしまうと、居ても立ってもいられなくなった。
連絡先を知らないどころか、クラスさえ聞いていなかったことに、今さら気付く。
千春は勇気を振り絞って、三年生の教室を片っ端から覗いてまわった。
大好きな背中を見つけたのは三つ目の教室で、嬉しさと安堵で大きく息を吐いた。
廊下から教室を見つめていた千春の視線に気付いたのか、葵留が振り返った。
目が合う……。
「せんぱい──」と、思わず手を振りかけたその手は、空中で止まった。
固まった表情で葵留を見つめていると、ゆっくりと千春の方へ近づいてくる。
けれどその顔は、別人のように曇っていた。
いつものように、優しく笑ってくれると思っていた。
その期待は、葵留の唇からこぼれた言葉であっけなく砕け散った。
その理由は、よそ行きの声で、「千春君」と、呼ばれたからだ。
「『君 』って……どういうこと……? 先輩、何があったの……?」
「……別に。何も……ないよ」
言葉を詰まらせながらも、葵留は答えてくれる。
その間にも、千春の視線は彼の体を探っていた。また怪我をしていないか──。
薄っすらと古傷の痕はあるものの、生々しい傷口は見当たらない。
それだけでも、少しホッとする。
「先輩、俺……ずっと旧校舎で待ってたんだよ」
ウザくて重いセリフかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。
葵留の返事を待つ間、千春はまるで死刑宣告を待つ気分で、でも、目を背けることなく、まっすぐ彼を見ていた。
「……もう、旧校舎 には行かないことに、したんだ……」
「どうしてっ!」
思わず大きな声が出た。教室にいた三年生たちの視線が集まる。
それでも、かまわなかった。
「……ごめん。また時間を作って話す──」
「今! 今、聞きたい。来てっ」
葵留の態度に違和感を感じた千春は、理由を知りたくて旧校舎へと強引に連れ出した。
旧校舎に来ない──。
それはもう、自分とは会いたくないと同義語に聞こえる。
会えなかった間に、自分のことを嫌いになったならそう言って欲しい。
その理由が俺が男で、先輩も男って、理由なら、諦めるしかない……。
頭の中で浮かんでは消える言葉が、どれも中途半端に途切れてしまう。
それを、実際に葵留から言われるのが、怖かった。
それでも、曖昧なままでいる方が耐えられない。
自分より背の高い葵留の手首を握り、裏庭を突っ切って旧校舎にたどり着く。
ふたりの秘密の場所。
いつもの教室へ入り、真っ直ぐ葵留を見上げた。
「先輩……。もう、俺のこと、嫌いになったの? ……男だからって……そう思い直し──」
「違うっ! ちは──千春君のことは……」
また、〝千春君〟なんて、他人行儀に呼んでくる。
「先輩、俺、本当のこと言われても平気、だよ。隠されたり、嘘つかれる方が嫌だっ。だから本当のことを言って。俺を避けてるでしょ、なんで?」
いつもたおやかに微笑む葵留の顔が、苦痛に歪んでいる。
父親に殴られたときでさえ見せなかった、痛みを堪えた表情だ。
今、何かを言おうとするその顔は、目を背けたくなるほど苦しげにも見えた。
「俺さ、学校を辞めるんだ。東京を離れる。担任には夏休みに相談してたんだ、辞めるか転校するか──」
「やめるって、転校って……先輩、学校からいなくなる、の……」
千春の問いに、葵留は無言で小さくうなずいた。
その瞬間、思考がすべて止まった。
──いなくなる。大好きな人が、もう自分のそばにいない。
「やだ……先輩、行かないで。好きなら、そばにいてよ──」
少し詰まった声で、千春は言葉を探した。
「……俺、もっと頑張るから。料理だって、読書だって……先輩のために何でもする。だから……行かないで」
泣きそうな気持ちを奮い立たせ、葵留を繋ぎ止める言葉を必死で考えた。
もう、自分で何を言っているかもわからない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
「先輩、何とか言ってよ。学校、やめるから俺を避けてたの? よそよそしい態度になったのは何でなんだよ。東京を離れるって、どこに行くんだよっ」
矢継ぎ早に言葉をぶつけた。
葵留に会えない現実が受け入れられなくて、涙がどんどん溢れてくる。
「……引っ越し先は言えない、んだ。学校も、今月で、来ない……」
千春の涙から逃げるよう、葵留が放った言葉はあまりにも残酷だった。
「何で行き先も教えてくれないんだよっ。俺のことが好きなら教えてくれてもいいだろ。俺と距離を置くのって何で? 俺、離れても大丈夫だから。離れてもずっと先輩のこと好きだし、お金を貯めて会いに行く。だからどこへ──」
腕を掴み、懇願するように言葉を重ねる。
離れても気持ちは消えないと、何度でも伝えたかった。
けれど、葵留の表情はますます苦しげになっていく。
まるで何かに耐えているようで──そんな顔を見てしまうと、続きの言葉を飲み込むことしか出来ない。
このまま離れたら、もう一生、会えない気がする。
なぜか、そう確信してしまった。
「……ごめん。言えないんだ」
決定的な一言だった。
もう、自分は、必要ない──。そう突きつけられたようで、心が深く沈んでいく。
それでも、どこかでまだ期待している。
『ちはが好きだよ』と、その一言がもらえたら、まだ葵留を想い続けることが許される。
けれど葵留はずっと目を伏せたままで、何も言ってはくれなかった。
「どうしても、教えてくれないん……だ……」
掴んでいた腕から、千春の手が滑り落ちる。そのまま、だらりと力なく下がった。
俯いて、必死で考える。
学校を辞める理由。
行き先を教えてくれない意味。
〝ちは〟ではなく、〝千春君〟と呼ばれることの意味。
埃の積もった教室の床に、涙がぽたりと落ちる。
千春が生み出したその雫が、淡い水玉模様を作っていた。
「ちは……る君、あのな──」
「千春って呼ぶなっ! もう……聞きたくない!」
特別を感じる『ちは』という響きに、胸が温かくなった日々。
それをたった一言で否定されたような気がして、涙が止まらなかった。
好きだと言ったのは嘘だった?
父親からの鬱憤を晴らすため? それとも退屈凌ぎにからかっていたのか。
男だから……初めから本気じゃなかったのか。
その証拠に、東京を離れる理由の欠片も……話してはくれない。
特別を感じる『ちは』と言う響きにくすぐったくて、でも嬉しくて、自分の名前が生まれて初めて愛しいと思えた。
なのに簡単に呼び方を変えられるほど……葵留にとっては特別でも何でもなかったのだ。
再び葵留の手が触れようと差し出されたけれど、千春は一歩二歩と後退りして離れた。
葵留の顔が涙で滲んで見えない。
どんな表情をしているか確かめるのが怖くて、涙を拭うことができなかった。
「聞いてくれ、ちは──」
「俺のことなんて……どうでもいいんだっ。先輩なんて……先輩なんて、どこにでも行けばいいっ!」
怒りに任せて酷い言葉を叩きつけた。
言った瞬間、古い教室に罵倒が響き、ぶつけた言葉が大好きだった笑顔を歪めてしまった。
あふれ出す涙で頬が濡れても、それを拭う余裕なんてない。
大好きな人の泣きそうな顔も、滲んで見える。
秋風ではためくカーテンが悲しげに微笑んだ顔を隠した隙に、教室を飛び出そうと踵を返した。
扉に手をかけたと同時に、「あの本っ」と、葵留の声が千春の背中を引き留めた。
「あの本……面白かったよ。スプレーも、それと、栞も、ありがとう。一生、大切にするから」
かけられた言葉が廊下に出した足を止めた。
その声に、言葉に、振り返って葵留の顔を見たいと思った。
酷いことを言ったと謝らなければ。
本を読んでくれてありがとう、と言いたい。
頭の中でそう思っていても、ちっぽけな意地がそれを邪魔してくる。
振り返ることを選ばず、千春は暴力のような言葉を残したまま、旧校舎を飛び出した。
背中に『ちは』と呼ぶ声が聞こえた気がする。
でもその声は、願望が作った幻聴かもしれない。そう思うと、また涙が流れた。
夏の名残りで精力の満ち溢れた雑草をかき分けながら走った。
闇雲に走りながら、初めて葵留と出会った日のことや、本を読んだこと。タバコの匂い、告白してくれたことや、初めての口づけを身体中に溢れさせていた。
ネクタイは緩ませているし、制服はいつもシワだらけでだらしない。
見兼ねてヨレたシャツの背中を手のひらで整えてあげると、肩越しに笑って、優しいなぁと言ってくれた。
傷の絶えない体が心配で、何も出来なかった非力な自分でも葵留はいつも優しかった。
それでも恋をしていたのは自分だけだったのかと、どん底まで落ち込んでしまう。
教室に戻った千春は、「頭痛がする」と言って早退した。
廊下で仙太郎が心配そうに声をかけてくれたけれど、まともに顔を見られなかった。
きっと、仮病だってバレてたと思う。
本当の理由を隠して、演技で自分を守った。
そんな自分が本気で嫌になった。
そのあと、千春は二日間学校を休んだ。
涙を我慢して何事もない顔で過ごす自信がなかったからだ。
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