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第6話

 週末を挟んで、千春は嘘の理由で学校を休んだ。  本当は、まだ学校に行ける心の余裕なんてなかった。  けれど、月曜日。母親に背中を押されるようにして、しぶしぶ教室へ向かった。  千春が教室に入ると、妙に生徒がざわついている。  首を傾げながら授業の用意をしていると、仙太郎がそばまでやって来た。 「千春、もう体調平気なのか」 「あ、うん。もう、平気。なあ、何かあったの?」  普通に話せている自分にホッとしながら聞いてみると、ああ、それなぁ、と仙太郎の眉が八の字に下がった。 「なんかさ、週末に学校の近所で事故があったらしいんだけど、それってここの生徒らしいんだ。俺も詳しく知らないけど、千春の家の近くだって。知らないのか?」  そう言えばベッドの中で救急車の音を聞いたような気がしたけれど、葵留のことばかり考えていて気にも留めていなかった。 「……何も知らない。そっか、事故に遭った人、大したことなかったらいいのにね」  だな、と仙太郎は大欠伸をして席に戻って行った。  ズル休みをしている間、千春はずっと言い過ぎたことを葵留に謝ることを考えていた。  一線引かれたような葵留の態度につい、感情的になってしまった。それを悔やんでいた。  あんな酷い言葉を言うつもりなんてなかったのに、一度、口から出た声は喉の奥に戻すことは出来ない。  授業内容も跳ね除け、頭の中では葵留にどうやって謝ろうかとそればかりを考えていた。  三年生の二学期なのに、転校や学校を辞めるなんて、よほどのことだ。  もしかしたら父親が原因かもしれない。そう思ったとき、究極の自己嫌悪に襲われた。  傷の絶えない体の理由を誰よりも理解していたのに、自分の感情を優先して、酷い言葉をぶつけてしまった。  短い休み時間にも噂好きの女子たちはまだ、事故に遭った生徒の話をしている。  目の前では仙太郎が、昨日観たお笑い番組のネタを真似て面白おかしく話してくれている。   けれど、千春の心は上の空で、昼休みに三年生の教室に行くことだけを考えていた。  早く葵留に逢いたい。会って、言い過ぎたことを謝りたい。  話しもろくすっぽ聞かず、子どもじみた態度を取ってごめんと。  葵留が遊びでも、退屈しのぎだったとしても、彼を好きなことは変わりない。  それをもう一度伝えたいっ。  嫌われててもいい、せめて最後は笑顔で見送りたい。  それを、それだけでも伝えよう。  決意を固めた午前中はとてつもなく長く感じた。  ようやく四限目が終わり、昼食もそっちのけで旧校舎に行ってみた。  けれどそこに葵留の姿はなく、やっぱりなと落胆したとき、いつも葵留が座っていた机で何かが光っていた。  近づいてみると、そこには秋の日差しを受けて輝く、ピンクの小さな箱があった。  開封しかけた箱のフィルムが、千春を待っていたかのように風で揺れていた。  先輩、ここに、来てた……んだ。  鼻の奥が痛くなり、目の奥が熱くなってきた。  千春は箱をそっと掴むと、握り締めたまま教室を飛び出して階段を駆け下りた。  木の枝や雑草に行く手を阻まれても、それらをなぎ倒し、裏庭を駆け抜けて葵留の教室へ向かった。  三階の教室にたどり着くと、短い息を繰り返しながら中を覗き込む。  大好きな背中を探したけれどそこに葵留の姿はなく、ドアを掴んだまま項垂れた。  途方に暮れていると、千春に気付いた女生徒が「何か用?」と、声をかけてくれた。 「あ、あの、葵留先輩は──」  最後まで言い終える前に女生徒の顔が曇っていく。  千春の顔を見つめながら、半分泣きそうな顔で彼女が唇を動かした。 「あの、ね……、波戸(はと)君、亡くなったのよ。二日前の土曜日に事故で……」  女生徒の口にした言葉が千春の耳から脳、そして心臓までを一気に貫いてくる。  日本語なのに意味がわからず、この人は何を言ってるんだろうと、瞠目して相手を見続けていた。  瞬きもせずに言葉を失っていると、「大丈夫……?」と、声がかかる。  告げられた文字の羅列が乱れ、身体中でそれを否定している。  足元から世界が崩れ落ちていくようで、立っていることすらできなかった。  気付けば膝をついていて、どうやって呼吸をしていたかさえわからない。 「ちょっと、君っ」  慌てて女生徒が支えてくれようとした、その手を掴み、「嘘、ですよね?」と、聞いた。  女生徒の困ったような顔を無視し、相手の肩を掴むと、「嘘……ですよね?」と、今度は縋るように聞いた。 「え、あ、あの……」 「嘘、って言ってください。葵留先輩が……そ、そんなの、嘘だ……。お願い、します。嘘だと、言って。言ってください……。言って、言ってよぉ……」  理性でも本能でもわかっていた。わかってしまった。  それでも嘘だと、冗談だと言って欲しいと願った。  何事かと集まって来た声や視線を意識の外に弾き飛ばすと、「すいません……でした」と小さく言い残し、千春は教室に背を向けた。  廊下をゆっくり進んでいた足は次第に早まり、一階まで下りると、そのまま裏庭まで走った。  旧校舎のバリケードを跨いで入ろうとしたら、蔦が足に絡まって思いっきり転けた。  ズボンが泥まみれになっても、シャツが汚れようとも、そんなこと、今はどうでもいい。  校舎の中に入り、千春は階段を上がりかけた足を、中程で止めた。  タバコの匂い……しない。  ちょっと甘いスモーキーな香りは消えてしまった……。  二学期に入ってから、煙も見ることもなく、残り香さえ感じなかった。  それが何を意味するのか。  胸ポケットに入れた箱を取り出し、そっと胸に抱いた。  いつものように窓際でタバコをふかし、千春の方を見て笑ってくれる。  千春が何を言っても、髪を撫でて大好きな微笑みを惜しみなくくれた優しい人。  ──ちは、本読んでよ。  タバコの匂いも、変なあだ名で呼ぶ声も、傷だらけの笑顔も、旧校舎のどこにもいない。  大好きな人にぶつけた、心にもない言葉を最後に、葵留は千春の前から永遠に消えてしまった。 「せ、んぱい……、せん、ぱい……。まも、るせんぱ──」  名前を呼ぶと、堪えきれずに涙を流した。  しとどに流れては、頬を伝って風に冷やされていく涙。  膝から崩れ落ちると、千春は声を出して泣いた。  秋の風に、夏の名残が一雫織り込められた風が、古びたカーテンをはためかせる。  風に舞う髪、カラー違いのネクタイ。全部、全部、ちゃんと覚えている。  大好きな人の残像を浮かび上がらせるカーテンの下で、千春は蹲って泣き続けた。  この世界に、もう──葵留はいない。  古びたカーテンが揺れるたび、千春の心がきしんだ。  もっと自分が大人だったら、葵留の気持ちをわかってあげられたかもしれない。  最後の言葉が凶器となって、大好きな人を傷付けた事実は一生消えない。  どんなに強く願っても、都合のいい望みは、教室の埃のように風に舞って消えてしまった。

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