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第18話
初冬の空気は凛としているけれど、風さえなければ陽だまりの中での読書は心地いい。
午後の陽光が暖かく降り注ぐベンチで読書に耽っていると、仙太郎の声がして顔を上げた。
「よ、待たせたな」
「全然。四限がポカって開いちゃったから、めちゃ読書できたし」
仙太郎がリュックをベンチに置きながら、「千春、見てみろ」とガラス越しに見える食堂を顎で指している。
「今日もモテてますな、上条さんは」
仙太郎の視線を追いかけるよう、千春も瞳をスライドさせた。
そこには同じ二年生だろうか、食堂のテーブルで肘をついた女性二人が、惠護に熱っぽい視線を送っている。
そばには友達らしい男性もいて、四人の楽しげな様子が離れていても伝わってくる。
千春がいるベンチから数メートル。見続けていると気付かれてしまう。
千春は読みかけのページに栞を挟みながら、「……モテてる、よね」と呟いた。
本当はそんな言葉、口にしたくなかった。
それでも、過去の記憶がその想いを押し殺してしまう。
──葵留先輩、どうしていなくなったんだよ。あなたがいたら、俺は──。
惠護が怪我をした日から、千春の思考は自分でも手がつけられない。
毎日、毎晩。心が葵留と惠護の間を行ったり来たりして、そんな自分を見捨てたくなる。
葵留の声を思い出そうとして耳を澄ますと、記憶の中の声に惠護の声が重なる。
切ないくらい、葵留のことが大好きだったのに、惠護のことを考えれば考えるほど怖くて、苦しい。
こんなにも胸が痛むなら、最初から出会わなければよかった。葵留にも、惠護にも──。
弱音をため息に乗せ、一点だけを見つめていると、仙太郎の視線を感じた。
「千春、お前──」
「……なに?」
自慢のツンツンヘアが崩れそうなほど、ガシガシと頭を掻きながら眉の八の字にさせ、黙ったまま千春の横に座った。
「何だよ、何か言いたいことでもあるの?」
「いや……。それより、千春。例のものは?」
さっき見えた陰った顔は消え、揉み手をしながら仙太郎が媚びを売ってくる。
千春はクスッと笑いながら、
「約束のブツだ」と、周りを警戒しながら物騒なものを渡す素振りで仙太郎の手に乗せた。
「おー、これが奇跡の白いハンバーガーかっ!」
「奇跡って大袈裟だな。本物みたいに真っ白じゃないけど、そこは勘弁な。なんせ、ホットケーキミックスで作ったからさ」
タッパの蓋を開けた仙太郎は目を輝かせ、出てもいないヨダレを拭うふりをしている。
「いい、いい。全然、いいっ。めちゃうまそうー。しかも三つも作ってくれたんだっ」
「じゃあ、僕が一ついただいてもいいかな?」
ベンチの後ろから突然声をかけられ、千春と仙太郎が同時に振り返ると、六人部が二人の間から覗き込んでいた。
「む、六人部先生っ! びっくりしたー」
「美味しそうだね、それ。鵜木君のお手製かな?」
「そうなんですよ、先生。これ、ポオ? タオ? あれ? 何て言ったっけ」
パオだよ、と言いながら六人部が座れるように、千春がベンチにスペースを開けた。
「へー、お手製のパオとは凄いね。これ、中身も生地も手作り?」
仙太郎の手の中にあるパオを見て六人部が言うと、はい、と遠慮がちに答えた。
中華街に売っているような仕上がりだったら、胸を張って言えるけれど、所詮、ネットのレシピで見よう見まねに作ったものだ。
大人で准教授という職業の人にとっては子ども騙しみたいなもの。
それでも、この状況では言わずには済まない言葉を口にした。
「あの、もしよかったら、先生もいかがですか」
「いいのかいっ。ありがとう。嬉しいね、鵜木君の手作りは」
思った以上の反応が返って来たことが嬉しくて、千春は仙太郎からタッパを受け取ると六人部の前に差し出した。
仙太郎と一緒になって六人部が、いただきます、と言ってパン生地にかぶりついている。
千春が六人部に抱いていた印象は、ナイフとフォークで食事するスタイル。もしくは漆塗りの箸と食器で、カッポーンと、ししおどしが鳴る和室で食しているイメージだ。
それなのに、今、俺の横で仙太郎と同じようにパオをかじっている。なんだか、可愛い。
「うまっ! 千春、めっちゃうまいぞ」
「本当だ、うまいよ鵜木君。パンはふわふわだし、中の角煮? あ、焼き豚か。これなんて、何枚でも食べれるな」
小さな子どもように両手で持ってかぶりついている姿と、教室でマイク片手に講義する姿の差が半端ない。
あまりのギャップに笑っていると、「おいしいよ、鵜木君」と言ってニコッと笑われた。
口元にタレが付いているのを見ると、六人部ファンの女子は全員瞬殺だ。
「先生、これ。口元や手を拭くときに使ってください」
リュックからウェットティッシュを取り出すと、一枚ずつ六人部と仙太郎に渡した。
「ありがと。気が利くね、鵜木君は」
口元や手を拭きながら褒められると、こっちが恥ずかしくなってきた。
「先生、千春のリュックには手拭きだけじゃなくて、シミ取りシートまで入ってるんですよ。俺、嫁に欲しいって思いましたもん」
「へー、凄いな。僕も嫁に欲しいよ、鵜木君、可愛いし」
ですよね、と仙太郎と六人部が笑っていた。
シミ取り、か……。あれがきっかけだったもんな、惠護先輩と知り合ったのって。
こっそりため息を吐きながら、千春は食堂の方に目を向けてみた。
──え、惠護先輩。こっち見てた?
ガラスが反射してはっきり見えなかったけれど、惠護がこっちを見ていた気がする。
目を凝らして見ると、惠護の顔は横にいる女生徒に移ってしまった。
今、視線、逸らされた……?
つま先から一気に全身へと不安に似た、寂しい気持ちが浸透してきた。
言いようのない悲しい気持ちに打ちひしがれていると、「上条さんが絶賛してたのわかるわぁ」と、仙太郎が胸を騒つかせる人の名前を口にした。
「へえ、上条もこれを食べたんだ」
六人部の声で我に返り、「そ、そうです」と、慌てて答えた。
「先生、上条さんって千春の家に入り浸りで、これ以外にも唐揚げやら、鍋とかいろんなもん作ってもらってるんですよ。たまには俺も誘えよな、千春」
「よく言うよ。先生、仙太郎はこんなこと言ってますけど、最近彼女が出来たからって、俺の方が放置されてるんですよ」
自分の言い分を聞いてもらおうと、我先にと二人が六人部に詰め寄る。
そんな生徒を、六人部の穏やかな笑みが軽くあしらう。
「へえ、そうか。豊浦君、おめでとう。じゃ、僕が代わりに鵜木君に相手してもらおうかな」
「あはは、あざーす。じゃ、先生。千春のことよろしくお願いします。俺は心置きなく、彼女とイチャイチャするんで」
娘を嫁にやるように仙太郎が六人部に頭を下げるから、慌てて止めた。
「ふふ、豊浦君って本当に面白いね。じゃあ、僕は鵜木君といちゃいちゃする役目を引き受けようかな」
「せ、先生まで何言ってるんですかっ」
ったくもう。彼女が出来て浮かれるのはいいけど、先生まで巻き込むなっ。
睨みながら心の中で仙太郎に怒りを叫んだけれど、呑気に二個目のパオをかぶりついている。
「じゃ、僕は部屋に戻るよ。鵜木君、ごちそうさま。よかったら今度、食事にでも行こうか。今日のお礼にご馳走するよ」
立ち上がった六人部に秀麗な微笑みを向けられた。
これがモテる男の見本かと、ため息が出る。
「ありがとうございます。でもそんなことしたら、先生の推しから恨まれるんでお言葉だけありがたくいただきますね」
「あ、豊浦君。僕、今さらっと鵜木君に振られたね」
「ですね、先生。ご愁傷さまです」
仙太郎と六人部の掛け合いで、どっと笑いが立ち込める。
けれど、千春の頭の中は惠護に視線を逸らされた悲しみでいっぱいだった。
手を振りながら去って行く六人部を見送ると、呑気男は彼女からの返信に夢中だ。
タッパを片付けながら食堂に目を向けたけれど、もうそこに惠護の姿はいない。
ため息をごまかすようにリュックを膝に置くと、「そういえばさ」と、仙太郎が思い出したような口調で千春を見てきた。
「高校の旧校舎が冬休みに取り壊されるの知ってるか?」
「あ、うん。知ってる……」
「真冬に工事って、業者の人もたまったもんじゃないよな」
「だね……」
千春の返事を最後に、仙太郎が黙ってしまった。
高校のころ、千春が辛い恋をしていたことを知る仙太郎は、旧校舎で葵留と過ごしていたことも知っている。
葵留本人の顔を知らなくても、悲しみの中で千春がポツポツ語ったことで、だいたいどんな人で、どんな風にこの世を去ったのかも、知っている……。
「千春」
「なに……」
「もし、最後に見に行くなら、俺、付き合おうか。それとも、一人の方がいいか」
ずっと考えてくれていたのかなと、千春は思った。
それを口にするきっかけを、楽しい会話に織り込もうとしたくれたのかもしれない。けれど、それはやっぱり無理だったと、仙太郎も千春も思っていた。
「ありがと。行くときは、一人で行ってくるよ」
「そっか。解体現場は危ないから、気をつけて行けよ」
うん、わかった、とギリギリ笑って答えることができた。
思い出そうとしなくても、葵留は簡単に千春の脳裏によみがえってくる。
旧校舎の教室で悲しそうに微笑む残像は光に溶け込み、どれだけ手を飛ばしても二度と触れることはできない。
思い出の場所がなくなっても、この思いは生涯忘れないのだろうと思った。
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