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第17話
「えっと、一年の……鵜木だっけ? 上条の様子はどうだ」
惠護が眠るベッドの横に座っていた千春に、八尋が声をかけてきた。
「先生……。まだ、目を覚まさないです」
八尋を見上げて答えたけれど、千春はすぐ視線を惠護に戻す。
「しかし、喧嘩なんてするやつじゃないのに、珍しいな。しかも向こうは三人いたんだろ? 無茶にもほどがある。喧嘩の原因は何だ?」
千春は床を見つめながら、「俺のせいです……」と、呟いた。
「へー。お前がアイツらに恨みでも買ったのか」
図星をつかれ、千春は唇を噛み締めた。
そうだ。元はと言えば俺の不注意で、先輩が逆恨みされたんだ。
「黙っているとこを見ると、当たりか」
八尋をチラッと見上げると、無精髭を撫でながらため息を吐いている。
先輩だけじゃなく、先生にも迷惑をかけてしまったんだ……。
「すいません。俺が全部悪いんです。俺が、俺が──」
涙が込み上がってきて説明にならない。
滲んだ目で惠護を見ると、殴られた治療の痕に胸を締め付けられ、思わず目を逸らした。
「まあ、だいたい豊浦から聞いてる。元々はあっちが悪いんだろ、わざとじゃなかったとしてもさ。けど、平和主義みたいな顔してっけど、こいつ結構荒っぽいとこあるんだな」
「……あの、先生。検査の結果はどうでしたか。なんか、画像の検査をしたんですよね」
「ああ、MRIな。殴られたのは腹とか顔がほとんどだったけど、頭も殴られてたの鵜木が見たんだろ? 今は痛みがなくても、中で出血してるとヤバいからな。まぁ、異常はなかったからよかったよ」
八尋の言葉に、「よかった」と、心の底からの安堵をこぼした。
惠護の腕にある点滴を見つめていると、八尋にポンっと肩を叩かれる。
「諸々の手続きは六人部先生がしてくれてる。上条が目を覚ましたら、看護師に声をかけろよ。そのあとで医者が診察してくれるから。今日帰れるか、入院になるかは診察次第だろうな。俺は帰るけど、どっちか分かったら六人部先生に連絡入れてくれ」
椅子から立ち上がると、千春は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ご迷惑をかけてすいませんでした」
「揉めてた生徒は六人部先生が話してくれた。向こうもやり過ぎたと反省はしてたらしい。けど、同じ学生で、もう大人なんだ、穏便に対応しろよ」
「……はい。わかりました」
じゃ、頼んだぞ、と言って八尋は病室を出て行った。
八尋がいなくなると、部屋には千春と惠護だけになった。
同室の患者は昨日までに退院していて、惠護一人だけが眠っている。
その広さが千春を不安にさせ、惠護が早く目を覚ますことを祈った。
静かに時間だけが過ぎる中、千春は部屋の電気をつけることも忘れ、窓へと視線を移した。
カーテンが開いたままの窓は四角く夜の色を縁取り、隅っこには下弦の月がひっそりと輝いていた。
銀杏並木が月明かりのおこぼれで、葉を金色に染めあげている。
窓ガラス越しに反射した明かりが、惠護の眠るベッドまで届いてシーツの白が発光したように輪郭がぼやけて見えた。
眠る惠護の頬に月明かり彼を包み込むように優しく照らし、痛々しい肌を癒してくれているように思えた。
口元の青あざや、こめかみの内出血。きっと体にも打撲痕のようなものがあるはずだ。
もっと俺が早く止めに入っていれば、先輩はこんな怪我をしなかったかもしれないのに……。
止血テープが貼られた箇所を確かめようとしたけれど、千春はそこをまともに見ることができなかった。
傷だらけの姿は、どうしたって葵留を思い出させる。
辛すぎるあまり、千春は逃げるように固く目を閉じて俯いた。
葵留を追い詰め、彼の心を抉るような態度しかできなかったのに、また自分のせいで大切な人を傷つけてしまった。
「俺の……せいだ。俺が勇気がなくて、先輩を……怪我させ、た……」
静寂の中に、千春の嗚咽だけが染み入るように響いている。
握りこぶしを作った手を膝に乗せたまま、俯いて肩を震わせていた。
溢れ出てくる雫を拭うこともせず、膝の上で受け止めていると、不意に頭に重みを感じた。
顔を上げると、いつの間にか目を覚ましていた惠護が千春の髪に触れていた。
「けい、ご、せんぱ……」
「泣くなよ、千春。こんなの何とも、ない……」
「せ、んぱい。す、いません。俺の、せいで、怪我、して」
途切れ途切れの言葉をこぼすと、髪をくしゃっと撫でられた。
点滴が繋がれている腕が目に入ると、それがまた、千春の涙を誘う。
「千春のせいじゃない。それにこんな傷、平気だって言ったろ? ってか、カッコ悪いよな。殴られて気を失うなんてさ」
手で顔を覆った惠護が、参った、参ったと、はぐらかしている。
「平気、じゃないです。頭も殴られたんですよ、それで気を失ったんです。検査の結果が異常なくて、本当によかった。あ、さっきまで八尋先生もいて。仙太郎もいたんですけど、俺がいるからって、帰ってもらいました」
「そっか、豊浦にも迷惑かけたな、謝っとかないと──」
「先輩が謝ることなんて一つもないんです。悪いのは俺だし、先輩はあいつらが俺のことを、その……と、とにかく、俺の貞操を先輩が守ってくれたんです」
申し訳ないと思って真剣に話しているのに、ブハッと惠護が吹き出した。
「な、何んで笑ってるんですか。俺、真面目に言ってるのに」
頬が一気に熱くなった。
恥ずかしさと怒りが混ざった声が、情けないほど震えている。
「い、いや。て、貞操って。ク、ックク……。十代の、わ、若いもんが言う言葉かってさ。あっははは、やっぱ、千春は可愛くて面白い」
「あら、目が覚めていたんですね、上条さん。どう? 具合は。起きれそう?」
惠護の放った言葉に引っ掛かりを覚え、千春が尋ねようとしたタイミングで看護師が入って来た。
「あ、はい。今」
惠護が上半身を起こそうとしたから、そのままでいいわよ、と看護師が制止して血圧を測っている。
「うん、異常なし。点滴も、あとちょっとで終わりそうね。じゃ、先生に話してくるけど、今、時間外の患者さんを診てるから、終わったらこっちに来てもらうね」
「はい、わかりました。よろしくお願いします」
惠護が言うと、「あの」と、千春は看護師の背中に声をかけた。
「飲み物とかって飲んでもいいんですか」
「いいわよ。でも、水かお茶にしておいてね」
そう言って、看護師は去って行った。
「惠護先輩、喉乾いてませんか? 俺、買って──」
「千春……ここにいろ」
椅子から立ち上がった千春は惠護に手首を掴まれると、そのまま強引にベッドまで引っ張られた。
「せんぱ、い、どうしたんですか」
引き止められた手は離れることなく、千春を捉えたままで、布団の上に置かれていた。
「……あの、さ。千春って六人部先生と、仲いい?」
唐突に聞かれた質問の意味がわからず、首をかしげて見返すと、この前さ……、と言いにくそうに惠護が話し始めた。
「保健室で俺がいたとき、千春、六人部と一緒に来ただろ? 先生の手伝いしてたって言ってたけど、あんなことよく、あるの……か?」
すっかり頭の端っこにあった記憶を引っ張り出し、「滅多にないですよ」と笑った。
「あの日はたまたま講義が中止になって時間が空いたから、本を整理するのを手伝っただけですよ」
「それだけ? 一回こっきり?」
「はい。でも、それがどうかしたんですか」
布団に視線を落とす惠護が、弄ぶように千春の指を摘んでくる。
何か言い淀んでいる惠護の顔を、千春はそっと覗き込んでみた。
「……シャツを」
「シャツ?」
「六人部のシャツ、着てただろ?」
声を振り絞るように惠護が言ったことは、保健室でも説明したことだ。
そう言えばあのときの惠護は、少し様子がおかしかった。
「……あれは珈琲をかぶっちゃって、服が濡れたから先生のお借りしたんです、けどそれが何か?」
惠護の指が、千春の指を撫でたり摘んだりと、何か言いたげに動かしている。
答えが返ってくるのを待っていると、惠護の唇が薄く開いた。
紡がれる声を待ったけれど、何も言わずにまた口を噤んでしまう。
「先輩。言いたいことがあるなら、はっきり言ってください。保健室でも何か言いたげでしたよね」
中々口を開かない惠護の指をぎゅっと掴むと、驚いた顔で見てきたから、さらに問い詰めるように見つめた。
「……千春って弱そうなのに、気が強いな」
惠護の言葉にハッとした。
──ちはって、弱っちそうなのに、気が強いよな。
ふとした言葉も、それを生み出す声も、どこか似ている気がする。
点滴の雫を見ている横顔に葵留の幻影がダブって見えた瞬間、今度は千春が下を向いた。
何を考えてるんだ。葵留先輩のはずないっ。
期待したって魔法や奇跡でも起こらない限り、葵留には逢えない。
そんなこと、これまで何度も想像して、何度も凹んだのに。
黙ったままの千春が気になったのか、惠護が手のひらを指でくすぐってきた。
「ちょ、ちょっと先輩、くすぐったいです」
ささやかな触れ合いが恥ずかしくて、惠護の手から逃げた。
そうだよ、名前だって歳だって違うんだ。惠護先輩は一つ年上だし、葵留先輩は、もし生きて大学生になっていたら、三年生のはず。
それに声だって、惠護先輩の方がちょっとハスキーだ。
怪我した姿を見て不安になったからって、あり得ないことを考えてしまった。
「なあ、千春。帰りにメシ食って帰ろうか。心配かけたお詫びに奢ってやる。何がいい? 焼肉? それともおしゃれにパスタとか?」
何か言いたげだったことを、なかったことのように言ってくる。
先輩、何を話したかった?
そんな問いかけは、心の中で留めた。
無理やり問いただすことは、危険だ。
余計なことを言えば、惠護を追い詰めたり、傷つけたりするかもしれない。
自分のことで手を出すほど、怒ってくれたことが嬉しかった。それだけでいいじゃないか。
……俺はずっと、葵留先輩のことだけを思って生きて行くって決めたんだし。
自分の中から葵留が消えることが怖くて、そんな自分を許せない。
それなのに、どんどん惠護の存在が大きくなっていく。
止められない気持ちが怖い……。
「お、お誘いは嬉しいけど、先輩は怪我したんだから、今日は大人しく家に帰ってください。それに、先生の診察で今日は入院って言われるかもしれませんよ。あ、でもそうなったら、俺が着替えとか用意しますから。先輩はベッドに縛られたままでいて下さいよ」
意識してわざと偉そうな口調を装った。
ちゃんと普通に見えただろうか。
「えー、もう平気だよ。それに千春と一緒にご飯食ったほうが元気になる」
そんなことを言わないでほしい。
俺も一緒に行きたい──そう、言ってしまいそうになる。
「だめです。ちゃんと家でゆっくり過ごして下さい。そ、それより先生、遅いですね。俺、ちょっと見て──」
「ちはっ……る。ここにいてって、俺、言ったよな」
言いかけた言葉を遮られ、熱っぽい眼差しを向けられた。
ジッと千春を見つめてくる瞳を、愛おしいと思ってしまう。
気持ちがあふれてくる……。
伝えたい言葉が迫り上がってきて、もうだめだ、そう思ったとき、病室の扉が開いた。
「お待たせしました。上条さん、体の方はどうですか」
スクラブの上に白衣を羽織った医師が部屋に入って来て、惠護の方を心配そうに見て言った。
「あ、はい。もう、何ともないです。あの、先生。今日ってもう帰れますか」
惠護が尋ねると、医師がちょっと難しい顔をする。
「そうだな。帰ってもいい状態ではあるけど、こめかみを殴られて、コンクリートの上に倒れたからね。念のために一泊だけしてもらおうかな」
「え、もう何ともないですけど……」
医師が惠護の目を見たり、手を触って診察している間も、惠護の視線は千春にあった。
「念のためだよ。画像検査では異常なかったけど、君、一人暮らしだろ? もし、嘔吐したり、手足に異常を感じたら誰もいないと怖いからね。まあ、大丈夫だけど僕が心配性なだけだから」
医師が一通り診察を終えると、「あとで看護師が来るから」と言い残し、部屋を出ていった。
「マジか……」
「惠護先輩、ちゃんと先生や看護師さんの言うこと聞いて、おとなしくしてて下さい。俺、下着とか買ってきますから」
「いいよ。先生も一泊だけって言ってたし、一日くらい着替えなくても。それより、千春はここに──」
「だめですっ」
ちょっと大きめの声で遮るように言った。
「そのままなんて不衛生です。それに、元はと言えば俺のせいで怪我させちゃったんです。早く、元気な先輩に戻ってもらわないと……」
「戻ってもらわないと?」
もし、何かあったら……
頭の中では事故を起こしたバスの映像が浮かんだ。
家のすぐそばで騒がれていたのに、自分のことばかり考えて呑気に寝ていた自分が憎い。
「元気になってもらわないと、八尋先生も、仙太郎も、それに先輩のファンの女の人たちも悲しむんで……」
心にもないことを言った。
こうでも言わないと、ずっと惠護のそばで付き添っていたくなるから。
「ファンの女の人って。何だよ、それ」
そこは笑うとこじゃない、って言いたくなるほど、惠護が肩を震わせて笑っていた。
ふと、目の前で破顔した中に、見慣れないものを見つけた。
「あれ……先輩って、笑うとエクボができるんですね。今まで気付かなかった」
千春の言葉に、一瞬だけ惠護の笑い声が止まった。
けれどすぐに、いつもの柔和な表情に戻り──
「そうか? しっかし、腹減ったなぁ」
と、その小さな発見は、なかったことにされてしまった。
「今夜は我慢ですよ。じゃ、俺、今からコンビニ行って必要なもの買ってきます」
「……わかった。ありがとう、千春」
惠護の指が離れると、それが合図のように千春は立ち上がった。
扉に手をかけながら、ここにいて欲しいと言った、惠護の言葉に後ろ髪を引かれる。
切ない思いを抱えながら、それでも千春の頭にあったのは、記憶の中の葵留の笑顔だった。
笑うと現れる、奥ゆかしいエクボの優しい笑顔……。
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